黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

岐阜城を訪ねて

2023-06-06 15:40:44 | 旅行記
GWの旅の後半は、JR岐阜駅の北側にある岐阜城に行った。どちらかというと信長色の強い街のようではあるが、個人的には信長以前の城主であった斎藤氏時代の石垣も残っているのが嬉しかった。岐阜城は、遠くから見ると、巨大な山に天守が小さく乗っかって可愛く見えるが、実際にのぼってみると野面積みの石垣だったりチャートの岩盤が活かされるなどしてワイルドな印象を受ける。なにより、現在築城されている城郭では有数の高さを誇るそうで(329m)、よくこんな急峻なところに天守を築いた、またこんなお城を攻め落とした武将がよくぞいたものだと思った。

岐阜城縄張


岐阜城天守遠望。遠くから見るとカワイイと思ったが…


チャートでできた石垣といい、間近で見るとワイルドだと思った。


下の画像は、天守台の石垣。「発掘調査案内所」で手に入れたパンフレットによると、これは信長の時代の石垣ではないかという。また、この天守台の石垣は様々な時代のもので構成されているらしい。




なお、麓の「発掘調査案内所」には岐阜城の詳細なパンフレットが豊富にある。私が立ち寄ったのは全て見学し終えた後だったが、事前に立ち寄ってパンフレットを入手すれば、見学するのがより楽しくなるかもしれない。

さて、こちらは一ノ門跡と伝わるもの。「発掘調査案内所」でのパンフレットによると、ここは「大手に当たる門」で、「その構造から斎藤期に造られたもの」ではないかという。


また、山麓の城主居館跡付近には、斎藤氏時代の階段と見られるものも発掘されている。そこの掲示によると、「斎藤時代の地面の上には灰の層もみられ、信長が稲葉山城を攻略した際、火災が起こったことを物語って」いるという。栄枯の移り変わりを特に感じさせて印象深かった。



城びと」によると、信長は天然の要害であり東海道や東山道を押さえる交通の要衝でもあったこの城に拠点を移したという。だが、その後関ケ原の戦いを制した家康はこの城に城主を置かず1601年に廃城とし、その代わりに、現在のJR岐阜駅をまたいだ向こう側(南側)に新たに加納藩をつくり、その城主に、関ヶ原で功のあった奥平信昌(家康の娘・亀姫の夫。つまり身内)をすえた。家康が岐阜をこのように統治したのは一体なぜなのか、たまたま居合わせたガイドさんに聞いてみると以下のようなご意見であった。

美濃人は、古来より天下の趨勢を決めるのに影響力があった。例えば、壬申の乱では美濃の豪族・村国男依が大海人皇子のために3000の兵で不破道を塞ぐなどして勝利に大きく貢献した。その一方で、美濃人は時代の趨勢次第で帰趨を変えるところもあったという。家康はこのような美濃人を警戒し、美濃人の発言力を抑え、御しやすくするために、身内に統治させたり、直轄地にしたり、尾張藩領にしたりしたのではないかという。
岐阜の街は、まだまだ志半ばで天下を動かしたい信長には好まれ、天下を不動のものにしたい家康には恐れられた街、という事かもしれない。

岐阜市歴史博物館の図録によると、江戸時代の美濃は一円を治める領主がおらず、直轄地が多い地域となった。幕府がそんな美濃を一円的に治める術の一つだったのが、木曽三川などの治水事業であった。木曽三川の治水事業と聞くと、薩摩藩による宝暦治水事業を想起するが、近年の研究では「薩摩義士」たちの顕彰活動が再検討され、その歴史的事実が明らかになりつつあるという。それによると、例えばその治水事業を主導したのは実は薩摩藩ではなく幕府であったという。流域民の願いを受け入れた幕府が、幕領・私領問わず広く意見書を集めた上で、反対意見が多くても何とか地域の利害を調整し、工事を行った。ここで薩摩藩が担当したのは資材・人員管理(あわせて費用弁済)というロジスティクスに限定されたもので,設計や施工は幕府がしていたという。図録が引用している論文では、「薩摩藩が多大な犠牲と大きな負担を強いられたことは歴史的事実である」としつつも、公儀普請である宝暦治水事業を薩摩藩と同一視したり、幕府vs薩摩という認識と共に「薩摩義士」として顕彰する視点を、徹底的な史料批判に基づいて再検討していく必要がある、と述べる。この論文は、「薩摩義士」が明治時代に顕彰されはじめる背景、さらにはそれに関連する美濃と尾張との因縁についても言及しており、興味深い内容であるが、想像するに、「薩摩義士」の話があまりにも美談になっているゆえ、その通説もなかなか根強くなってしまっているのかなと思った。

補足1:下のサイトでは、家康が岐阜城を廃城にした理由として「岐阜城が時代遅れの山城であったことや信長が天下統一を目指すべくつけた「岐阜」という名前を嫌ったからだといわれて」いるとしている。
蝮とうつけが築いた城~斎藤道三と織田信長を支えた岐阜城

補足2:
天守の麓には、『完訳フロイス日本史』で「宮殿」と呼ばれる「居館」跡が残っている。その呼び方からして信長の日常生活の場かと思いきや、そこは「おもてなしの場」、つまり迎賓館のような場所で、信長の日常生活の場はルイス・フロイスの言う「山上」に住んでいたらしい。ルイス・フロイスは、信長が「明白な言葉で召喚したのでなければ」入れないというこの「宮殿」を見学し、さらに「山上」でも特別な計らいを受けた。

「山上」には、そのわずかなスペースに、天守や、上下台所などの痕跡が残る。同書には「入口の最初の三つの広間には、約百名以上の若い貴人がいた」とあるが、この「最初の三つの空間」は、井戸跡などが今に残ることから上下台所を指すと思われる。そこで信長自らがフロイスに、同行の修道士には次男茶筅(信雄)が運んだ膳を振る舞い、嫡男の奇妙(信忠)も同席したそうで、台所が文字通り調理場でもあったのではないかという。「山上」が単なる砦でなかったのは確かそうだ。信長と家族の居住空間もこのあたりと考えられそうだが、それ以上のことは明確には分からない。こちらのページ(pdf)では、山上の「2つの頂(天守台と斜面=段築状石垣、上台所=岩山、両頂を結ぶ石垣通路)」あたりを「信長と家族の居住空間」かとしている。 なお、「約百名以上の若い貴人」は、「各国の最高の貴人たちの息子ら」ともあることから人質と考えられるが、そのスペースが狭いことから常駐していたとは考えにくい。

同ページによると、信長は「山上」を単なる砦以上の用途に用いただけでなく、権威の象徴として「見せる城」に改修していた。信長の時代に天守まではあったか分からないものの、天守台の段築状石垣が「小牧山城の段築状石垣の系譜を引」いていて、かつ、「安土城天主台の原型」の可能性があることから、そう考えられるという。

(補足2は、ツイッター上の本尾四方男さんとのやりとりをまとめたものです。ご指導ありがとうございます。)


岐阜市歴史博物館の図録:『特別展 葵の時代ー徳川将軍家と美濃ー』2016年

図録引用論文:木曽三川流域治水史をめぐる諸問題 -治水の歴史と歴史意識(pdfファイル)

←ランキングにも参加しています



関ヶ原古戦場探訪

2023-05-11 19:31:18 | 旅行記
今年のGWは、関ヶ原古戦場と岐阜城に行った。いずれもそれまで行ったことがなく、今年の大河ドラマが家康を題材にした「どうする家康」だからという事もあって行った。だが蓋開けてみたら、関ヶ原古戦場の史跡めぐりは家康の東軍ではなく西軍中心になってしまった。

しかも、西軍の宇喜多秀家の陣跡も、彼の八丈島の墓を訪ねた事もあり行ってみたかったが、迷子になって結局行くことができなかった。下の画像が八丈島で撮影した宇喜多秀家の墓で、手前にある石は、関ヶ原の戦いの時代の彼の城だった岡山城の礎石の一部だという。彼は流刑地の八丈島ではのびのびと暮らしたのだろうだが、関ヶ原は無念の地というべきではないだろうか。



関ヶ原古戦場位置図(開戦時)


まず、小早川秀秋が陣をしいた松尾山城だが、これが片道40分もかかる山登りだった。のぼった先の掲示によると、美濃地方最大級の山城だそうで、戦国時代に浅井長政が家臣を派遣させていた城だったのを、石田三成が東軍の西進に備え、大垣城主・伊藤盛正に命じて改修させた。三成は毛利輝元を招き入れようとしたが、来なかったので小早川秀秋が入ったという。想像するに、麓にいる家康の問鉄砲など頂上にいては聞こえなさそうな感じ。沢があり、いたる所から水が沸き、本丸からは関ヶ原をバッチリ一望できる最高のロケーションだと思った。

松尾山・小早川秀秋陣跡より石田三成陣跡と島津義弘陣跡を望む
 

また、こちらは笹尾山の石田三成陣跡と、その手前にある家臣・島左近の陣跡。三成の陣跡の見晴し台までは、麓から歩いてわずか5分。関ヶ原が一望できるだけでなく、容易に戦場まで降りられる距離感で、他の大名とも連絡・指揮が取りやすそうだと思った。

笹尾山・石田三成陣跡より小早川秀秋陣跡と島津義弘陣跡を望む
 

それから、三成の盟友・大谷吉継の陣跡。小早川秀秋の裏切りを警戒していた大谷吉継は、秀秋の陣のある松尾山を監視できる位置に布陣。石田三成と同様、麓から歩いて10分の位置にあり、容易に戦場まで降りられる距離感だと思った。画像は吉継の陣跡からの松尾山の眺め。ここからさらに登ったところに吉継の墓もあるのだが、同行していた夫が連日の山登りに根をあげはじめたのでここで断念した。

大谷吉継陣跡より小早川秀秋陣跡を望む
 

一方、こちらは家康の最初の陣跡、桃配山。そのむかし、壬申の乱に勝った大海人皇子が兵士に山桃を配った縁起の良い場所だったのでここに陣を張り験を担いだそうだが、やはり戦況は見えにくそう。「葵・徳川三代」で津川雅彦さん扮する家康が「あぁ〜勝っているのか負けているのか(戦況が分からない)」とイラついていた光景が目に浮かんだ。

桃配山より関ヶ原方面を望む
 

家康はその後、陣を戦場の最前線に移した。写真は、その最後の陣地の様子である。

家康最後の陣地
 

最後に、島津家関連の史跡を二ヶ所。
まずは島津豊久の碑。烏頭坂の途中にあり、その坂を見下ろすところに碑が立っている。坂をくだる敵を狙い撃ちしやすいそうな場所でもあった。

烏頭坂より島津豊久の碑が立つ場所を望む
 

碑が立つ場所より烏頭坂を見下ろす


関ヶ原観光ガイド」によると、「毎年、島津家に縁のある鹿児島県の小中学生が必ずここを訪れている」という(途中電車等も利用)。また、江戸時代に「宝暦治水木曽三川工事にやってきた薩摩の藩士たちも、この塚に必ず立ち寄ったともいわれて」いるそうだ。
なお、個人的に誤解していた事だが、掲示によると島津豊久はここで討死したとは限らず、関ヶ原を突破した後「白拍子谷」という所で自刃したともされる。



それから、こちらは島津義弘の陣跡。そこの掲示によると、戦いの終盤に敵中に取り残された義弘は当初討死も覚悟したものの、豊久の説得で撤退を決めたという。どうやら撤退は豊久が言い出したらしい。また別の掲示によると、現在鹿児島県日置市には、青少年で組織された「関ヶ原戦跡踏破隊」なるものがあるそうで、彼らは毎年関ヶ原から大阪までの撤退ルートを踏破するという。「その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて」、踏破した参加者の名前が陣跡の碑の傍の石に刻まれていた。
先ほどの島津豊久の碑にもあるように、宝暦のむかしも現在も一部の鹿児島県民が訪れているというし、郷土愛が強いと思った。

島津義弘陣跡


一番心に残ったのは、こうした島津家関連の史跡であった。宝暦治水事業を題材にした漫画『風雲児たち』の影響が大きいのかもしれない。その漫画では、宝暦治水事業を任された薩摩藩家老・平田靭負が、彼らにとって「史上最も壮絶な戦い」である関ヶ原の戦いを引き合いに出し、困難を乗り越えようと周囲に働きかける姿が描かれていた。例えば、悔しいからといって血気にはやった挙句、薩摩一国を滅ぼしてしまえば、関ヶ原に散った先人たちに何と言って申し訳が立つのか。…というふうに。
だが、たとえこのような「命のやりとり」レベルの話でなくても、郷土の先人たちが流した汗と涙に思いを馳せ、誇りに思うことも、一つの郷土愛のかたちではないだろうか。


←ランキングにも参加しています


丸亀城探訪

2022-05-26 09:48:58 | 旅行記
今年のゴールデンウィークは、香川県を旅行した。
今現在、当たり前に保護の対象になっているお城や文化財も、
いつ何時災害などで往時のものが失われるか分からない。
例えば熊本城や首里城など、ここ数年それを実感させられることが
多くなったこともあり、できるうちにお城を訪ねたいと思うようになった。

香川県には少なくとも丸亀城、高松城の他に屋嶋城という7世紀の朝鮮式の
お城もあり、結局このたびは三つもお城を攻略した。
以前に愛媛県を旅した時も、天守と石垣がついたお城が四つもあると知って
埼玉県民としては驚いたものだが、四国にお城が多い理由については
「超入門! お城セミナー」というサイトのこちらの記事で分析されており、
これによれば四国が「古くから海運の要衝として重要視されて」いたこと、
また「太平洋戦争の空襲被害が比較的少なかったこと」が
大きな要因ではないかという。
このたび攻略したお城を3つを一気に記事にまとめるのは骨が折れるので、
まずはここで丸亀城をとりあげたいと思う。

なお、このたびは先述のサイトの他に、二か所、参考にさせていただいた:

丸亀市公式サイト内にある「第三章」というpdfファイル


「いよぎん地域経済研究センター」の丸亀城に関するページ



丸亀城は、現存12天守のうちの一つ。
テレビや画像などではよく、幾重にも築かれた石垣の頂上に
天守が可愛く乗っかっている様子が紹介されるが、おそらくそういうものは
ある程度城跡から離れたところでないと撮影できない。
下の画像は大手二の門の手前の橋から撮影したものだが、
近すぎたせいか石垣が幾重にも築かれた様子までとらえるのは困難であった。
なお、前方左側の大手二の門、右側の大手一の門は重要文化財になっている。



下の画像は、大手二の門を裏から撮影したもの。



さらに、大手一の門を裏から撮影したもの。



これらの門を突破したあと、本丸に向かうには左に進路を変えることになる。
一方、反対側の右側を進んでも有形文化財の「玄関先御門」がある。
この門の先は現在資料館や広場になっているが、
かつては藩主の屋敷地であったという。



のぼったことのない天守もまだまだたくさんあるけれど、
それなりにいくらかのぼってきたつもりである。
それら攻略済みのお城と比べてこの丸亀城の坂は結構、傾斜がきつく
スタートからその急な傾斜のためにたちまち戦意をくじかれる。
Ⅱによると、「時々立ち止まって振り返りたくなることから」
「見返り坂」というそうで、



この付近の石垣が丸亀城のなかで最も高いのだそうである。



下の画像は、三の丸から見た二の丸の石垣。



下の画像は、二の丸への入り口。
この画像の方が坂の傾斜が分かりやすいだろうか。



二の丸に入ると、日本一深いといわれる井戸がある。
羽坂重三郎という石工名人がそのなかで殺されたという伝説があるそうだが、
果たしてそれらしい人骨は見つかっているのだろうか。
豆腐売りの人柱伝説と同様の謎が残る。



下の画像にあるような通路を通れば本丸にたどり着けるのだが――



上の画像の通路の右側を奥に進んでいくと二の丸搦手に出ることができて、
そこから見える石垣と天守の雄姿がまた戦意喪失するほどであった。
下の画像は、その二の丸搦手から天守閣を眺めた様子で、



天守閣の右側にある櫓跡の石垣がまた巨大で芸術的であった。



そして、下の画像が本丸から天守閣を撮影したもの。
写真におさめるのを忘れてしまったが、
一階には低い位置に設けられた(大砲用と思われる)「大砲狭間」、
壁を分厚くしてその防御力を強化した「太鼓壁」などが見られた。



上述のⅠの41ページによると、丸亀城は1615年に一旦、廃城になったが
(一国一城令による)、1641年から城主になった山崎氏や、
その後の城主の京極氏によって再び築城された。
ここで興味深いのは、1643年に幕府の老中が山崎甲斐守に対し
新城営作料として銀300貫を下賜したうえにこの年の参勤も免除していたことである。
当時の幕府はなぜ、丸亀城再建のためにここまで援助したのか。
そもそも、石高がせいぜい5、6万石そこそこの小藩がなぜ、
分不相応に思えるほどの立派なお城を構えていたのか。
この点については、Ⅱによると「幕府が瀬戸内海の海上交通を監視する拠点と
位置づけたこと、丸亀沖の本島(ほんじま)に多くいたといわれる
隠れキリシタンに目を光らせる必要もあったから」ではないかという。
なお、Ⅱによると、幕府は丸亀城再建のために大坂城修復時の残石も
下賜したようである。


最後に、ここからは個人的な感想になる。
丸亀城は隠れキリシタンの監視の意味も含めて建てられたということだが、
キリシタンも加わったことで有名な島原の乱が終わったのは
山崎氏が丸亀城主になるわずか三年前のことで、
当時の幕府にとっては記憶に新しい戦いだったはずである。
そして、その島原の乱では、オランダ商館長が長崎奉行の依頼を受けて
船砲を陸揚げして幕府に提供したり、海から(反乱軍が立てこもる)原城へ
艦砲射撃もしていた。
瀬戸内海に面する丸亀城は原城と違って外国船の類は無断では来にくく
海から艦砲射撃を受ける可能性はあまりないかもしれない。
だがそれでも、江戸幕府は丸亀城が第二の島原の乱の舞台になり、
丸亀軍はもちろん、キリシタンの反乱軍も大砲を用いて攻撃してくる
可能性も想定して丸亀城を建てさせたのではないだろうか。
天守に見られた大砲狭間や太鼓壁を思い出すと、そんな気がしてくる。
さらに想像をたくましくすれば、おそらく大砲は
玉の出口を上に向ければ向けるほど、その飛距離が短くなる。
ならば、敵の大砲に狙われやすいであろう天守閣は
なるべく高いところに建つようにした方が、敵の大砲の玉は
より届きにくくなる。上述のⅡによると、
丸亀城の石垣は「内堀から本丸へ向け、4層、高さ(合計)60mを誇る」
というが、このように石垣を(合計では)日本一高くしてある理由が
もしかしたらこの点にあるのかもしれない。
島原の乱は丸亀城再建に影響を与えたのか、与えたとすれば具体的に
どのように影響を与えたのか、知る機会があるとありがたいと思った。

ところで、今現在姿を見せている山崎氏以降の丸亀城の構造は
藩主たちの自由意思によって決められたものではなく、
幕府の指図に従って決めたものだそうである(Ⅰの41ページ)。
さらに、Ⅱによると、ここまで天守と呼んできたものについては、
江戸時代の「絵図には『天守』との記載は見られず、
三階櫓との認識であったようだ。」
私には、具体的にどんな人たちがどういう流れで丸亀城の構造を
決めていったのか想像つかないが、あのように石垣モリモリのわりには
三階櫓と呼ばれたものしかない理由を自分なりに予想してみた。
すなわちそれは、築城の予算配分の優先順位によるものではないだろうか。

どういうことかというと、もはや殿様も家来も天守まで逃げ込んで
戦わないといけないような戦況になってしまうと、
それはすぐにも援軍などが期待できない限り
落城も時間の問題という「もうおしまい」のような段階に思える。
なので、お城の役割としてはむしろ、
「もうおしまい」になってしまう前の段階で敵の攻撃をいかに退けるかが
より大切で、その考えに即せば、巨大な天守閣を建てるよりも
石垣や堀などの守りを堅くする事に重点を置いて、予算配分も石垣や堀などを
優先するべきだ、ということにならないだろうか。
石垣モリモリなのに天守っぽいものも無いのはさすがに格好がつかないが、
巨大な天守を作っても大砲の標的になりやすいし、
メインの櫓は小さくしてでもそのぶん堅固な石垣を築くなどして、
敵を城内によせつけないようにした方がいい――
丸亀城は、そんなバランス感覚に基づいて再建されたお城のように思えた。


←ランキングにも参加しています


武士は食わねど・・・

2017-03-08 19:44:52 | 旅行記
仕事中に手をケガしてしまったので休まざるをえず、
おそろしくヒマである。したがって、今週は群馬県
甘楽町にある旧小畑藩邸とその大名庭園「楽山園」に
足を運んだ。小幡藩2万石は、江戸時代初めに織田信長の
次男・信雄が大和の宇陀藩3万石と共に得た領地で、
小畑藩の方は実質、信勝の息子・信良によって統治
された。まずは、最近見事に復元された「楽山園」の
画像をご覧いただきたい。庭園の植物は植えられた
ばかりの若い木が多いようだが、二つの東屋の右側の
梅の木は天然記念物で、しかも花盛りとなっていた。
庭園には、桜の木はもちろん、夏に咲く百日紅なども
あるので、他の季節になっても見ごたえありそうだ。






ところで、最初に紹介した大名庭園「楽山園」と藩邸の
図面をご覧いただきたい(下の画像)。



わずか二万石にして、こんなにも大規模な大名庭園――
実際に足を運んでみて、一つの予想が確信に変わる。
たった二万石の身上にしてはあまりにも分不相応な
広大さ!いくら織田信長の末裔たちであっても、
これを維持するのは絶対、大変だったはずだ――

この分不相応さがすごく気になったので、まずは現地で
事情を探ることにした。現地の掲示や冊子で分かった
ことは、織田信良が、信長の孫であるという理由で
家康から特別に国主格の待遇を与えられ、これだけ
広大な庭園の所有も許されたということ。しかし、
そうは言っても実際予算を捻出できないと、これだけ
広大な庭園はつくれない。そこで、諸大名から寄付を
募ってたしか数万両ぐらい得、それで実現を見たらしい。
誰が募ったかは忘れたが、家康の権力にものを言わせれば
諸大名もお金を出すということだろう。

だが、例えばそんな庭園一つにしても、ただつくるだけ
でなく、維持していかなければならないはずである。
また、高い格式ゆえに背伸びして庭園をつくらねば
ならないのであれば、例えば参勤交代の際の大名行列も
分不相応に背伸びした、豪華なものにするのが筋だ。
そこで帰宅したあとネットで調べてみると、やはり
そのシワ寄せは領民に及んでいたようである。ウィキ
ペディアの小幡藩の項によると、第2代藩主・信昌の
治世末期から財政難が始まり、宝暦5年(1755年)の
第5代藩主・織田信右の代には収入に対して支出が
2倍近くにも及んでいたという。また、第4代藩主・
信就の時代には財政再建が試みられたようであるが、
ものすごい重税を課したりしたのだろうか、領民が
織田氏の領土から幕府の直轄領に変えてくれと嘆願
するほどであった(ウィキペディアの信就の項)。

ちなみに、そもそも織田信雄父子がいきなりこれだけ
返り咲いた理由も、私にはイマイチ腑に落ちなかった。
現地の冊子を読んでも、あまりハッキリしないらしい。
「家康にとって主筋の人だったから・・・」とあるが、
よほど家康という人が義理堅い人物だったのだろうか。
ウィキペディアの信雄の項にあるように、大坂の陣の
際に家康のスパイとして役立ったから取り立てられた
のか。――だが私はやはり、織田信雄の孫娘・松孝院が
徳川家光の弟・忠長と結婚したことが関係している
ように思える。彼女が実際に嫁いだのは信雄父子が
小幡藩を与えられてから8年後のことであるが、もっと
早い時期に婚約が決まって、それに伴い小幡藩を与え
られたのだろうと想像する。ウィキペディアの彼女の
項からさらに想像するに、織田家の血を何が何でも
後世に残したいというお江(徳川秀忠の正室)の執念が
織田信雄の孫娘の結婚を手繰り寄せたのではないか。


最後に、昔の様子を最も残しているという江戸時代の
武家屋敷の画像をご覧いただきたい(下の画像)。



掲示によれば、これは勘定奉行だった高橋家の役宅跡
であるという。同家が残した近世文書は松平時代の
幕末の記録であるし、同家は松平時代の奉行だったの
だろう。勘定奉行なら、藩の財政状況に一番に向き
合わなければならないはずである。殿様が織田家から
松平家に代わり、財政状況はどうなったのだろうか。
そこで歴代の松平の殿様についてウィキペディアで
調べるのだが、良くなるどころか収入に対して借金が
10倍近くにもなっていたという(1844年)。織田家では
なくなったのだし、もはや国主格にふさわしい体面を
保つ必要もなくなったと思われるが、それにしても
織田時代のツケが大きかったのだろうか。

ちなみに、収入の10倍近い借金をかかえたのは松平
忠恵の時代であるが、この殿様は小幡藩江戸藩邸に
侵入した鼠小僧を見つけて捕獲させて幕府に引き
渡したことで知られる。泥棒の被害にあえば引き渡す
など当たり前の事のように思えるが、そこもまた
殿様家業の辛いところで、一般的に「大名屋敷では
面子と体面を守るために被害が発覚しても公に
しにくいという事情もあった」。また、そうかと
いってなかなか警備を厳重にするわけにもいかな
かったらしい。なぜなら厳重にすれば幕府から謀反の
疑いをかけられるかもしれないし、そもそもそれほど
お金が無かったりしたからである(以上、ウィキペ
ディアの鼠小僧の項による)。江戸時代も時代が
下ると、どこの藩も財政難ではあったかもしれないが
――、実際に捕まえて引き渡してしまうところ、
超・財政難の殿様ならではという感はある。
それとも、ただ単に鼠小僧がこの時初めて殿様と
鉢合わせするという不運に見舞われ、あえなく引き
渡されたということにすぎないのだろうか。


ともあれ、私の地元・川越(埼玉県)からは自動車で
わずか小一時間で着くことができ、しかも関東では
なかなか無い(と思われる)素晴らしい庭園である。
それでも近くの富岡製糸場ほど知られていないのは、
復元されてまだ五年しかたっていないからなのか、
それとも地元民を泣かせた人の屋敷だからなのか。
だが、富岡製糸場だけ見て帰るのは、もったいない。
私は平日に訪れたが、土日祝日はどれほど観光客が
来るのだろうか。――かつてはその圧政で地元民を
苦しめたお殿様の庭園ならばこそ、現代では地元の
経済に大きく貢献することを願っている。


←ランキングにも参加しています

直虎ゆかりの地訪問

2017-02-27 14:26:37 | 旅行記
井伊直虎の大河ドラマにちなみ、先日、浜松と駿府を
訪ねたので、そのときのことを記録したい。具体的には、
今川家から独立した家康が遠州攻略の拠点とした浜松城、
直虎の井伊谷城、かつては今川義元が館を構えた駿府城
である。今や家康一色であろうこれらの地に、このさい
敢えて今川家やその時代の痕跡を求めた旅であった。


とはいえ、私にとってこの地域の城めぐり自体初めて
である。まずは、今川家から独立した家康の城
浜松城を訪ねた。こちらが、その天守閣の様子である。
今川家から独立した家康はまず故郷の三河・岡崎に
戻り、1568年に三河から遠江に入り各地を攻略、
その後1570年に岡崎城を長子・信康に譲って浜松城に
移ったという。このとき、家康29歳。



しかし、天守の手前の掲示によれば野面積みの古い
石垣は家康に代わって入城した堀尾吉晴の頃(1590年
ごろ)と推定されるものだという。さらに、この
石垣の上にのっかっている天守は昭和の1958年に
再建されたものである。帰ろうとした時に漏れ聞こ
えてきたガイドさんの話ではあるが、浜松城を与え
られた堀尾吉晴のその後の移封先の松江城を参考に
して建てられた天守のようだ。

ところで、「浜松」は家康が名付けた城名であり、
家康以前(つまり今川家の時代)は引馬城といった。
そしてその一角(浜松城の駐車場から広い道路を
渡ったところ)に現在は東照宮があり、その社殿の
右側奥にこのようにわずかに土塁が残っている。



直虎の時代、この城主は飯尾連龍という武将で、
元は今川家の家臣であったのだが、桶狭間の戦いを
機に今川家が衰退し始めると彼もまた今川家から
離反した。このため今川氏真は、自分の家臣で
井伊氏と近い新野親矩(苅谷俊介さん扮する直虎の
叔父)、さらには筧利夫さん扮する中野直由に
命じて飯尾連龍が守る引馬城を攻めさせたという。
時に1564年9月、この二人はこの城の東の天間橋
というところで共に討ち死にしてしまったという。

新野親矩と中野直由は、果たしてどんな思いで
この城を攻めたのだろう。この城主の飯尾連龍は
離反する前、自分の妻に井伊直平を毒殺させて
いた。つまり彼らにとって飯尾連龍は一族の長の
仇であるわけだが、そんな仇も同じように去就に
迷い、悩んだ挙句に離反を決意したはずで、
そう思えば決して他人事のように思えないはずだ。
そもそも直平の死因が毒殺ではない可能性だって
あるし、毒殺だったとしても本当は飯尾連龍の
主君だった今川氏真を恨むのが筋かもしれないが。

ともあれ私はその後、浜松を離れて浜名湖北部の
井伊谷に向かった。山城ならばと覚悟を決めて
登ったわけだが、これが山頂に土塁を巡らせた
だけのすごく簡単な城で、案内板によると山頂まで
歩いても15分、たしかに登ってみれば城らしい
部分は大手口とその付近ばかりである。下の画像は、
本丸から見た大手口の痕跡である。



この大手口の延長方向に井伊氏の館跡があり――



この本丸から北西方向には三岳城の山が臨める。



――それにしても、井伊家は平時は麓の館にいて
戦の時は三岳城に詰めればよさそうなもの。
井伊谷城は一体何のための城だったのだろう。
狼煙等、情報伝達のために必要だったのか??
山頂の掲示によれば、家康や武田信玄が遠江の
覇権を争う時代ともなれば斜面に郭を設けたり
堀を構えたりするものであるが、そうした設備も
見当たらないという。

さて、ドラマによく登場する龍潭寺は井伊氏の
館跡から車で2、3分の場所にあり、さらに
その龍潭寺から歩いても2、3分、今や田んぼの
ど真ん中となるところに井伊氏初代・共保の
出生の井戸とされるものがある。それが、下の
画像である。



ちなみに、この井戸は『井伊家伝記』誕生とも
関わりがあるらしい。浜松市立博物館のテーマ展
「井伊直虎と湖北の戦国時代」によると、江戸時代
中期の龍潭寺住職・祖山頂相がこの井戸の帰属を
めぐって他の寺と争うことになった。そこで彼は
井伊家に関する史料を集め、これによって龍潭寺が
井伊家とどれほど密接な繋がりがあるかを示し、
そうして勝訴を勝ち取った。このように集められた
史料がベースとなって『井伊家伝記』が書かれた
ということである。

翌日、私は浜松市から高速道路を小一時間飛ばして
静岡市に移動し、駿府城を訪ねた。下の画像は
その坤櫓であるが、これはわずか3年前に建て
られたもの。この裏側に当たる二の丸、本丸
あたりに今川氏の館跡があったかもしれず、
今後の調査結果を待つといったところだ。



この坤櫓の外側に「駿府城四足門跡」が残されて
いるが、その名の由来は今川館の四脚門があった
ことによるという。さらには、家康が慶長年間に
修築した旧府中城(駿府城の前身)の追手門もここで
あったと考えられているという。この門のすぐそばに
市立病院があって、事前にネットで調べたところでは
この病院のところにも今川時代の遺構があるのでは
ないかという話であったが、坤櫓のガイドさんに
よれば、この病院からは特に何も見つからなかった
そうである。




ふりかえってみると、今川家のものはもちろんだが
家康がいたころの時代のものも実はほとんど残って
ないということらしい。

国破れて山河在り 城春にして草木深し

変わらずたたずむは富士のお山のみ――
旅の最後に、帰りの新幹線でようやく見せてくれた
姿をながめ、感慨を深めた次第である。




←ランキングにも参加しています

愛媛を旅する

2016-09-12 17:02:31 | 旅行記
先週、愛媛に旅行に行っていた。私には珍しく、台風の
進路を心配しながらの旅行――しかし、旅程を臨機応変に
変えてどうにか行きたかった名所・旧跡をまわることが
できたので、わずかになるがとりあげていきたい。

まず、一番行きたかったのが重要文化財・松山城。
この城を最初に建てさせたのが「賤ヶ岳の七本槍」の一人
加藤嘉明。その着工は1602年のことであったが、それから
完成させるのになんと四半世紀もかかったという。
同時代の城のように「敵襲に備えるために突貫工事で早く
完成させて――」といった事情が特になかったのだろうか、
それとも急ぎたくてもままならなかったのか、私には未だ
謎である。



ところで、1603年に「松山」という地名に改名させたのも
この加藤嘉明だそうであるが、なぜ「松山」と名付けたの
かも未だ不明ということである。ただ、現地のボランティア
ガイドさんによれば、徳川家にゴマすって「松平家の山」
――「松山」と名付けたという説は存在するという。
しかしながら、そんな説もあるとはいえ一筋縄ではいかない
のが政治の常ということかもしれない。下の画像は大天守
最上階からの城下の眺めであるが、(どちらかは忘れたが)
いずれかの森が、加藤家が徳川家に築城の申請をする際に
第一候補地として希望した場所なのだそうである。しかし、
明らかに現在建っている地点の方が好条件に見えるだろう。
実は、当時の徳川家は築城申請に対し、軍事上、敢えて
第一候補地は許可しないという意地悪をしていたらしいが、
加藤家もさるもので、それほど適切でない場所を敢えて
第一候補地として申請したという。徳川家とて全国の城の
申請場所をいちいちチェックするヒマまではさすがにない
から、不適切な第一候補地は却下され、しかし結局は真に
希望する場所に築城することができたという。なにやら、
キツネとタヌキの化かしあいのような話だ。



そして、下の画像が松山城の大天守であるが、現在建って
いるものは1854年に再建されたもので、姫路城などと
比べてしまえば新しい部類ということになる。したがって
「国宝」とはいかず「重要文化財」ということになるのか。
それにしても、1854年といえばもはや明治維新の一歩手前の
時代、完成早々いきなり危機を迎えたことになるが、何とか
切り抜けたということだろう。当時の殿様は松平定昭、
老中を務めたぐらいだから「朝敵」扱いされてしまった
ものの、抵抗せずに開城し、謹慎したので後で許された
らしい。同じ時代の川越の殿様と境遇がダブってみえるが、
天守閣まで残っているのは江戸もしくは東京から遠いためも
あろうか。だがそれでも、もし抵抗していたら天守だって
残らなかったのではないのだろうか。



最後に、松山城の謎をもう一つ。下の画像は見事な石垣
であるが、中間あたりがやや盛り上がって見える。これを
意図的に設計したものか、あるいはそうでないのか、
それも未だ不明ということである。



さて、松山城はヨソからやってきた近世大名の城であるが、
これよりも道後温泉よりのところに彼らよりもさらに古い、
源平合戦時代以来の名族、伊予国の守護・河野家の館跡
「湯築城跡」があった。承久の乱では朝廷に味方して
つまづいたものの、その前の屋島の戦い、壇ノ浦の戦い、
それと弘安の役で活躍して家運が開けたようである。
なお、彼らがこの湯築城に移ったのは南北朝時代の1335年
ごろであるという。



彼らのかつての繁栄ぶりを実感したい場合、資料館の
輸入物陶器を見るのもいいかもしれないが、個人的には
やはり彼らが信仰した(大三島にある)大山祇神社の
宝物館をお勧めしたい。彼らが奉納した武具もさること
ながら、その他、源頼朝、源義経、木曽義仲、巴御前、
弁慶、護良親王、大内義隆、山中鹿之助などそうそうたる
メンバーも見事な武具を奉納しているので見ごたえがある。
なお、下の画像が大山祇神社の樹齢2600年の楠である。



河野家の歴史をざっと追っていけば、なにやら内輪もめの
多い一族だったようであるが、それでも河越家から見れば
長く続いたものだと感じる。ウィキペディアの河野氏の
項によれば、内輪もめが多かった理由の一つとして
「根拠地の伊予が地政学的にも周辺諸国からの介入を
受けやすい位置にあったこと」を挙げている。ちなみに、
河越家が滅びたのはたしか、足利尊氏の死後中央集権化を
進める幕府に反発するかたちで反乱を起こしたものの
敗れたからである。河越家の場合は、本拠が鎌倉に近い
ことが災いしたのだろうか。なかなか、古くからある
名族が大名にまで生き残ることは難しいことのようである。
――ともかく、なぜかしら地元・川越の歴史が想起されて
ならない旅となった。


←ランキングにも参加しています

八丈島を訪ねて

2016-03-29 16:33:51 | 旅行記
このたび、一泊二日で八丈島に行ってきた。
一人旅としては久しぶり。オーシャンビューのホテルの
部屋に入った後も大河ドラマの時間以外はほとんど
テレビをつけず、静まりかえった状態で旅行を反芻する
のみであったので、実に充実した感じがした。
関ヶ原の戦いに敗れて八丈島に流された後の宇喜多秀家の
話が漫画『風雲児たち』でとりあげられていたのが訪問の
キッカケではあったのだが、流人第一号とされる彼は
やっぱり雲の上のお殿様、同じ流人のなかでも特別な部類で
あったように思われ、と同時に、それほどでもないような
レベルの人たち、そして彼らを「温かく受け入れていた」
当時の島民にも関心が及んでいった。ただ、実際に現地の
宇喜多秀家とその一族の墓を訪ねてみると、なかなか
島民のそれと溶けこんだ様子で建っており、土地勘がない
こともあって、見つけるのに少し苦労してしまった。
なお、彼の墓の右側には彼の栄光の象徴たる岡山城天守の
礎石が置かれていた:



このたびの旅行で最も印象に残ったのは、服部屋敷で一日
一度披露される郷土芸能「樫立踊り」と「八丈太鼓」で
あった。前者の「樫立踊り」は江戸時代に流人や漂流者、
あるいは御用船の乗組員が伝えた各地の歌や踊りが
八丈島風に変化したもので、南国らしい明るさがあり、
だがそれでいてどことなく哀愁もあり、奄美大島っぽい
ような不思議なテイストの民謡となっている。

一方、むろん八丈島にも独自の民謡は存在したようで、
「ショメショメ」と掛け声する「ショメ節」という。
そして、最初に唄われたショメ節の歌詞が次のような
ものであった:

「沖で見たときゃ 鬼島と見たが 来てみりゃ 八丈は情け島」

――だいたい、流罪となって八丈島に来るような者に
喜び勇んでいるようなものはおらず、ふつうは気落ち
しているものである。そういう人たちであれば、まずは
「温かく受け入れ」るというのが人情になる。島民自身
決して生活が楽なわけではないが、一気に大群となって
押し寄せるわけでもないし、「ご赦免」があればそれだけ
流人の数も減るものである。当時の島民が流人を「温かく
受け入れ」、受け入れられたほうは「情け島」に感じられる
背景として、このように想像された。

ところで、流人の「その後」のパターンでありがちなのが
島の女を妻にして子供をもうけるという話である。
相対的に未開であった島の者にとって、本土からの流人は
尊敬の対象になる場合も多い。そういう「尊敬」が愛に
変わるのか、あるいは「情け」が愛となるのか、ただ単に
身の回りの世話をするうちに肉体関係をもつだけなのか――
だがいずれにせよ、そもそも流人の妻になるということは
最後まで添い遂げられないかもしれないという事でもある。
実際、「ご赦免」となると島の妻子を残して本土に戻って
しまった人の話も服部屋敷で紹介されていた。

「大和おのこの 度胸があれば 越えておじゃれよ 黒瀬川」
 
――「ご赦免」になったは良いんだけど、あなたも男なら
黒潮を超えて逢いに来てほしい――そんな、島に残された
妻の心の声のように聴こえてくるショメ節の一節もあった。

しかし、人生はうまくいかないもののようである。最初に
述べた宇喜多秀家についてであるが、実は彼には一度、
妻の豪姫の実家の前田家から本土復帰の計画が持ち上がった
ことがあるのだが、それを彼は「いやしくも私は豊臣家の
五大老の一人であった者だから今さら徳川の禄を食む気など
ない」と言って断っていたという(八丈島観光協会HPによる)。
そんな彼と豪姫はいま、こうして八丈島で共に並んでいる。



一方、流人の「その後」のパターンで他にありそうなのが、
「ご赦免」が待ちきれなかったり島でもうまく生きていけない
などの理由でコッソリ島を出ようとするパターンである。
八丈島の北側に「抜舟の場」があり、流人の一部は漁船を
かっぱらってここから脱出を試みたという。こんなに波が
荒いのが「ふつう」ということなのでとても出られそうに
思えなかったが、ここらの漁船を盗んだということは、
地元の漁師はこんな荒い波でも船出できたのかもしれない。
だが掲示によると、11回試みられて成功したのはわずか
1度のみ。船出はできてもその後が問題ということだろうか。






いずれにしても、流人の歴史といい、荒々しい自然といい、
決して単なる「南国」で片づけられるような感じでは
なかった八丈島。しかし、むしろその方が私の好みではある。


←ランキングにも参加しています

長岡の偉人を訪ねて

2015-10-26 17:40:12 | 旅行記
日帰りで長岡(新潟県)に行った。
その一番の目的は、かの地ゆかりの偉人、河合継之助と
山本五十六の記念館に足を運ぶためであった。

まず、河合継之助の記念館に行ってみて初めて感じた
ことは、戊辰戦争のころも長岡藩士が会津藩を盟友の
ように考えていたらしいということ。
長岡藩もいよいよ薩長と戦わねばならなくなると、
まず先に一番大事な牧野のお殿様を会津藩に避難させる。
そして、河合継之助が膝を討たれて再落城しても、
そこで「もはやこれまで」――ということにはならず、
行ける人は会津にむかってなおも戦い続ける。
長岡藩はそれほどまでに会津藩を信頼し、また会津藩を
残して戦線離脱するなど思いもよらないことだった――
少なくとも、私にはそのように感じられ、これに強い
インパクト感じたのである。
そして、当時の薩長軍を「官軍」と呼ばず、あくまでも
「西軍」と呼んでいるところに強いインパクトを感じた。

一方、山本五十六の記念館に足を運んでみると、米軍に
撃墜された五十六の戦闘機の左翼の一部が展示されていた。
アメリカと戦うことに反対していたにもかかわらず
戦うことになってしまい、それでも逃げず、腐らず、
誠実にベストを尽くしてきた末に撃墜された人の無残な
残骸。そんな人を支えていたであろう使命感、あるいは
自尊心を想像すると、何とも言いがたい心境になった。
幸い戦争と無縁の生活をしていても、やりたくないこと、
困難なことと向き合わねばならないことがある――
そう思うにつけ、たとえ真似はできないとしても
心の琴線に触れる生き方ではあった。


河合継之助にしても山本五十六にしても、解釈によっては
不本意な戦いを強いられながらも誠実に戦いと向き合った
という点で共通している。だからこそ、私も彼らの記念館に
足を運んでみたくなった。――ただし、少なくとも
河合継之助については、本当にそれが不本意な戦いだった
と言い切れるとは限らない節もある。半藤一利さんは、
『もう一つの「幕末史」』のなかで評している――
(河合継之助は)「『どうしてもやるというなら存分に
戦ってみせる』の存念です。必ずしも、あくまで局外の
中立の立場を固守し、なんとか長岡藩を戦争回避の場に
持っていこうとするものではありませんでした。」
――「武装中立論者・継之助」という人物評に対し、
こうした異論があることについて問うてみたい
気もしたが、ついにそんな勇気は出なかった。


←ランキングにも参加しています

彦根城に行く

2011-06-16 17:12:23 | 旅行記
先週、国宝・彦根城を見に行ってきた。
以前、姫路城を見に行ったときにも
「あの時あそこも撮っておけばよかった」と
後悔すること多く、自分の詰めの甘さを
思い知らされたものであったが、
懲りずにこのたびも同じ思いをさせられた。
そういえば私の場合、城を歩いて段々と疲れが
増すうちに、イチイチ立ち止まって写真を
撮ったりするのがおっくうになってくる。
基礎体力の低さもさることながら、
生来マメに写真を撮る性分ではないとか
出たとこ勝負な行動パターンが多いといった
先天性のものも詰めの甘さの一因かもしれない。


閑話休題。彦根城は、他の城の建物や石材を
リサイクルして建てられた城である。
そうして建てられた城はなにも彦根城だけでは
ないそうだが、私には彦根城の移築伝承が
面白く感じられたため、このたびの撮影も
結果的にその伝承を意識したものになった。
まずこちらは、長浜城の大手門だったと伝わる
天秤櫓である:



彦根城にある「解説シート」によると、
この天秤櫓の手前にかかっている廊下橋は
天秤櫓の向こうの本丸と手前の鐘の丸とを
つなぐ橋で、この橋の下は大手門と表門からの
道の合流地点になっている。
仮に、大手門や表門から最短距離で本丸に
むかう場合、まずこの廊下橋の下の階段から
鐘の丸にのぼって廊下橋を通るだけで
本丸にたどりつくのであるが、
廊下橋が無いと、天秤櫓の高い石垣を登って
いかなければ本丸にたどりつけない――
そんな、戦の際の防御の要たる天秤櫓が
公開されていたので、天秤櫓のなかに入って
格子から廊下橋とその下の通路を撮影した。
上図が右向きに撮影した様子、
下図は左向きに撮影した様子である:





天秤櫓をぬけても、本丸の手前にはまだ
下図のような太鼓門櫓が立ちはだかっている。



この太鼓門櫓はたしか佐和山城から
移築したものだと聞いたが、彦根城の
解説シートにそのような説明はなく、
「解体修理に伴って実施された建物部材
調査により、移築前の建物もまたどこかの
城の城門であった」とだけ書かれている。

そしてこの太鼓門櫓をぬけるとようやく
本丸にたどり着き、天守が出迎える。
その天守を東側から撮ったものが下図で
あるが、思ったより小ぢんまりとしていた:



なお、下図は天守を玄宮園(下屋敷の庭園)
から眺めた様子である:



これは未確認であるが、たしか天守は
大津城の石材を再利用したものだったかと
記憶している。


ところで、彦根ゆかりの偉人の一人に
茶の湯を愛したことでも知られる幕末の大老
井伊直弼がいる。彼ゆかりのものは
彦根城下に多く存在するようで、
私も少なくとも「埋木舎(うもれぎのや)」や
直弼自作の茶道具などを見ることができた。
「埋木舎」とは、彦根藩主の座を継ぐ可能性が
無かったころの若き直弼たちがくらした
屋敷である。彼は父である11代藩主・直中の
実に14男であったため、よほどの事がなければ
彦根藩主になれないと思われたものだろう。
だがどういう運命の巡り合わせか、
その後、彼は兄の死などにみまわれ
36歳にして彦根藩主の座に就くことになる。

話を「埋木舎」時代に戻そう。
彦根城博物館の展示解説シート「井伊直弼の
茶の湯」によると、直弼はこの時代に茶の湯を
学ぶだけでなく、自分で茶の湯の流派を
立ててもいる。お手製の茶道具といい、
なんとも並々ならぬこだわりように思えるが、
他家の養子にもなれない当時の直弼の境遇を
思うと、こうした生きがいの一つも無ければ
心まで埋もれてしまいそうである。

一方、「埋木舎」時代の直弼は
なにも茶の湯ばかり学んでいたわけではなく、
他にも国学や和歌、鼓、禅、槍術そして居合を
学んでいた。
なんてったって彦根藩主の息子である。
働かなくても衣食住の心配がないのであれば、
極端な話、年中ゴロゴロして過ごすことも
遊びほうけてくらすことも出来たはずであるが、
直弼はそんな生き方を選ぶ人では
なかったのだろうと私は解釈している。
名門・井伊家の名に対する責任感ゆえなのか
個人的な向上心ゆえなのかどうかは分からないが
井伊直弼という人の人間性を垣間見る思いだ。


最後に、いつも照れくさくなるが懲りずに
井伊直弼を宿曜占星術で占ってみたい。
私が占いのプロでないからという事情も
さることながら、特に井伊直弼という人物の
評価が多様であるため、このたびはいつも以上に
占うことに不安を感じている。
――で、井伊直弼の宿曜は「尾宿」である。
井伊直弼といえばやはり朝廷に許可なく
日米修好通商条約を結んだことや「安政の大獄」
を断行したこと、それに、事前の警告を
受けながら敢えて何の対策もとらずに
テロルの犠牲になったことが印象的であるが、
こうした毅然とした態度は尾宿らしさのように
思えるし、「埋木舎」時代の猛勉強ぶりも、
あるいは今ある枠のなかで勝ち組になろうと
頑張る尾宿らしさだったりするのかもしれない。

また、尾宿は自分の「分」を守る特色がある。
『徳川慶喜と賢侯の時代』(中公文庫 1997)の
徳川慶喜の項よると、幕府の政策決定に公式的に
参加する資格は本来井伊家のような譜代大名に
あったのであるが、ペリーが来航すると、
その資格を持たないはずの外様や家門が
おのれの政治的進出をねらうようになってくる。
私が想像するに、そうした外様や家門の態度は
尾宿の直弼にとって「分」をわきまえない
非常識なものであり、
「将軍家の親戚筋がよってたかって将軍家から
政治の実権を奪おうとするだなんて、ヒドい!」
――というふうに感じていたのではないだろうか。
直弼が本当にそう感じていたのかどうか、
実際のところは私には分からないのであるが。
(――以上、宿曜占星術については
『オリエンタル占星術』著:水晶玉子 
講談社+α文庫 2006 を参考にした)。


←ランキングにも参加しています

風待ちのひょうたん

2011-05-04 17:41:55 | 旅行記
先週、2泊3日で伊豆地方をめぐった。
この伊豆地方は史跡の宝庫で、半日~1日かけて
観て回りたいような史跡もたくさんあったが
なにしろ連れがいると彼らに気兼ねしてしまって
あんまり一ヶ所に長居する気にはなれない。
強い目的意識を持って史跡を訪れても
連れがいては現地で心残りを残すことになるので、
このたびは特に目的意識などは持ったりせず
史跡を何箇所かフラリと訪れた。
そうしてたまたま訪れた史跡の一つ、
下田の宝福寺について記事を記していきたい。
宝福寺はなんといってもいわゆる「唐人お吉」の
菩提寺としての色彩が強いお寺のようだが、
彼女については後日また語るとして
今回は同寺ゆかりの「風待ちのひょうたん」に
ついて述べてみたい。


宝福寺でもらったパンフレット等を要約すると――
時は1863年の1月半ば、土佐の「大殿さま」
山内容堂公が江戸から上洛する途中、
時化にあって宝福寺に滞在したことがあった。
ちょうどこれとほぼ同時期、兵庫から江戸に
向かっていた勝海舟も、同じような理由で
同じ港に滞在することになった。
当時の勝は「幕府軍艦奉行並」で、脱藩浪士
だった坂本龍馬も伴っていった頃のこと。
勝は容堂公に招かれて宝福寺の酒席に参った。
この席で勝は容堂公に龍馬の脱藩の罪を
許してやってくれまいかと懇願した。
容堂公は勝が下戸であることを知ったうえで
「じゃあこの酒を飲み干せ」と言ったが、
勝はためらうことなく大杯の酒を飲み干した。
容堂公がこれに歓喜したので、勝は
龍馬の赦免の証に容堂公に瓢箪を求めたが、
容堂公は「瓢箪はやれん」と、瓢箪の代わりに
白扇子に瓢箪を描いて勝に手渡す。
かくして、龍馬は脱藩の罪を許された――
このとき容堂公が描いた瓢箪を
「風待ちのひょうたん」と言うらしい。



宝福寺の資料館には山内容堂と勝海舟の
「謁見の間」があって、勝が酒を飲み干した
時の朱の大杯(大・中・小3つ)や瓢箪や扇子も
展示してあったかと思う(扇子はレプリカ
なのだろうか??)。
私は決してお酒が飲めないわけではないが
強いと自負できるほどでもなく、
展示されている朱の大杯に酒がなみなみと
注がれていて「飲め」などと言われたら、
正直ドン引きしてしまいそうであった。
(そもそも私の趣味からすれば
杯自体が派手すぎる感じだったし――)
容堂公は、酒を勧めることで勝の本気度を試し
「この酒を飲み干してみせるほど坂本とやらが
カワイイと申すなら、許してやろう」――と、
思っていたのかもしれない。

それにしてもこれを「粋」と呼ぶのだろうか、
龍馬の赦免の証として勝が瓢箪を求めたところに
なにか風情を感じる。少なくとも私なら、
瓢箪などという分かりにくいものではなく
容堂公直筆の誓約書と彼のハンコ(に相当する
もの)を求めるところだからである。
ともかく、私はたった800円で売られていた
「風待ちのひょうたん」のレプリカを
胸をドキドキさせ、顔を熱くしながら買った。
片思いなのは分かっていたが、
容堂公が生きた証しを手元においておける
気がして、嬉しかった。

ちなみに、飲めない酒を飲んでみせるほど
龍馬に目をかけていた勝海舟を宿曜占星術で
占うと「奎宿」で、「鬼宿」の竜馬からすると
中距離の「栄と親」の相性。これは、龍馬と
中岡慎太郎(氐宿)の相性と同じである。
この「中距離の栄と親」というのは
「バランスのいい最高の相性」で、
「おたがいの力や個性を引き出しあ」い
「よいつきあいが長く続くとされてい」る
という(『オリエンタル占星術』による)。
どこまで占いが当たっているか量りかねるが
「枠にはまらない鬼宿の生き方に奎宿は
憧れるが、現実面では奎宿が助ける」関係で、
鬼宿の龍馬からすれば奎宿の勝は
「ありがたい相手」の一人というわけであろう。


勝海舟と同伴していたはずの坂本龍馬が直接
容堂公に許しを請わなかったことからも
察せられるように、龍馬と容堂公は
あまりにも身分が違いすぎていた。
それだけに彼らの縁もごく薄いものだった
だろうと思っているところだが、
かといって全く縁が無かったのかというと
そうでもないらしい。例えば私が知るだけでも、
龍馬は後藤象二郎を通じて容堂公に大政奉還を
献策し、そうすることで容堂公が望んでいた
無血革命(大政奉還)に貢献した。
また、容堂公はこの無血革命に龍馬も
貢献している事を知っていて、
龍馬に大義料として50両も与えている。
大政奉還前はもはや公武合体が不可能な時勢で、
幕府の存続も無理な段階ではあったが、
かといって容堂公にしてみれば
徳川に弓ひいて武力討幕する訳にもいかない。
そんな悩ましい状況のなか、かつて宝福寺で
脱藩の罪を許してやった坂本龍馬なる郷士が
大政奉還なる妙案を授けてくれたのである。
「情けは人のためならず」――
なにも龍馬は容堂公のためを思って
無血革命に貢献したわけではないだろうし、
容堂公もそんなふうに解釈しなかっただろうが
私にはこんな諺が浮かんでくる。
宿曜占星術的には、無血革命を成し遂げた
坂本龍馬と山内容堂(壁宿)、そして徳川慶喜
(房宿)の3人がそれぞれ「業と胎」という
因縁深い相性をなしているので、
無血革命がギリギリのタイミングで実現した
ことも、彼らが形成するトライアングルの
成せる業に感じられる。

追記:『秘伝 密教宿曜占星術』(監修:小峰
有美子 学研 2012)を後日読んで判明しましたが、
山内容堂(壁宿)、中岡慎太郎(氐宿)は宿星が異なる
可能性もあります。(詳細)


←ランキングにも参加しています