黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

丸亀城探訪

2022-05-26 09:48:58 | 旅行記
今年のゴールデンウィークは、香川県を旅行した。
今現在、当たり前に保護の対象になっているお城や文化財も、
いつ何時災害などで往時のものが失われるか分からない。
例えば熊本城や首里城など、ここ数年それを実感させられることが
多くなったこともあり、できるうちにお城を訪ねたいと思うようになった。

香川県には少なくとも丸亀城、高松城の他に屋嶋城という7世紀の朝鮮式の
お城もあり、結局このたびは三つもお城を攻略した。
以前に愛媛県を旅した時も、天守と石垣がついたお城が四つもあると知って
埼玉県民としては驚いたものだが、四国にお城が多い理由については
「超入門! お城セミナー」というサイトのこちらの記事で分析されており、
これによれば四国が「古くから海運の要衝として重要視されて」いたこと、
また「太平洋戦争の空襲被害が比較的少なかったこと」が
大きな要因ではないかという。
このたび攻略したお城を3つを一気に記事にまとめるのは骨が折れるので、
まずはここで丸亀城をとりあげたいと思う。

なお、このたびは先述のサイトの他に、二か所、参考にさせていただいた:

丸亀市公式サイト内にある「第三章」というpdfファイル


「いよぎん地域経済研究センター」の丸亀城に関するページ



丸亀城は、現存12天守のうちの一つ。
テレビや画像などではよく、幾重にも築かれた石垣の頂上に
天守が可愛く乗っかっている様子が紹介されるが、おそらくそういうものは
ある程度城跡から離れたところでないと撮影できない。
下の画像は大手二の門の手前の橋から撮影したものだが、
近すぎたせいか石垣が幾重にも築かれた様子までとらえるのは困難であった。
なお、前方左側の大手二の門、右側の大手一の門は重要文化財になっている。



下の画像は、大手二の門を裏から撮影したもの。



さらに、大手一の門を裏から撮影したもの。



これらの門を突破したあと、本丸に向かうには左に進路を変えることになる。
一方、反対側の右側を進んでも有形文化財の「玄関先御門」がある。
この門の先は現在資料館や広場になっているが、
かつては藩主の屋敷地であったという。



のぼったことのない天守もまだまだたくさんあるけれど、
それなりにいくらかのぼってきたつもりである。
それら攻略済みのお城と比べてこの丸亀城の坂は結構、傾斜がきつく
スタートからその急な傾斜のためにたちまち戦意をくじかれる。
Ⅱによると、「時々立ち止まって振り返りたくなることから」
「見返り坂」というそうで、



この付近の石垣が丸亀城のなかで最も高いのだそうである。



下の画像は、三の丸から見た二の丸の石垣。



下の画像は、二の丸への入り口。
この画像の方が坂の傾斜が分かりやすいだろうか。



二の丸に入ると、日本一深いといわれる井戸がある。
羽坂重三郎という石工名人がそのなかで殺されたという伝説があるそうだが、
果たしてそれらしい人骨は見つかっているのだろうか。
豆腐売りの人柱伝説と同様の謎が残る。



下の画像にあるような通路を通れば本丸にたどり着けるのだが――



上の画像の通路の右側を奥に進んでいくと二の丸搦手に出ることができて、
そこから見える石垣と天守の雄姿がまた戦意喪失するほどであった。
下の画像は、その二の丸搦手から天守閣を眺めた様子で、



天守閣の右側にある櫓跡の石垣がまた巨大で芸術的であった。



そして、下の画像が本丸から天守閣を撮影したもの。
写真におさめるのを忘れてしまったが、
一階には低い位置に設けられた(大砲用と思われる)「大砲狭間」、
壁を分厚くしてその防御力を強化した「太鼓壁」などが見られた。



上述のⅠの41ページによると、丸亀城は1615年に一旦、廃城になったが
(一国一城令による)、1641年から城主になった山崎氏や、
その後の城主の京極氏によって再び築城された。
ここで興味深いのは、1643年に幕府の老中が山崎甲斐守に対し
新城営作料として銀300貫を下賜したうえにこの年の参勤も免除していたことである。
当時の幕府はなぜ、丸亀城再建のためにここまで援助したのか。
そもそも、石高がせいぜい5、6万石そこそこの小藩がなぜ、
分不相応に思えるほどの立派なお城を構えていたのか。
この点については、Ⅱによると「幕府が瀬戸内海の海上交通を監視する拠点と
位置づけたこと、丸亀沖の本島(ほんじま)に多くいたといわれる
隠れキリシタンに目を光らせる必要もあったから」ではないかという。
なお、Ⅱによると、幕府は丸亀城再建のために大坂城修復時の残石も
下賜したようである。


最後に、ここからは個人的な感想になる。
丸亀城は隠れキリシタンの監視の意味も含めて建てられたということだが、
キリシタンも加わったことで有名な島原の乱が終わったのは
山崎氏が丸亀城主になるわずか三年前のことで、
当時の幕府にとっては記憶に新しい戦いだったはずである。
そして、その島原の乱では、オランダ商館長が長崎奉行の依頼を受けて
船砲を陸揚げして幕府に提供したり、海から(反乱軍が立てこもる)原城へ
艦砲射撃もしていた。
瀬戸内海に面する丸亀城は原城と違って外国船の類は無断では来にくく
海から艦砲射撃を受ける可能性はあまりないかもしれない。
だがそれでも、江戸幕府は丸亀城が第二の島原の乱の舞台になり、
丸亀軍はもちろん、キリシタンの反乱軍も大砲を用いて攻撃してくる
可能性も想定して丸亀城を建てさせたのではないだろうか。
天守に見られた大砲狭間や太鼓壁を思い出すと、そんな気がしてくる。
さらに想像をたくましくすれば、おそらく大砲は
玉の出口を上に向ければ向けるほど、その飛距離が短くなる。
ならば、敵の大砲に狙われやすいであろう天守閣は
なるべく高いところに建つようにした方が、敵の大砲の玉は
より届きにくくなる。上述のⅡによると、
丸亀城の石垣は「内堀から本丸へ向け、4層、高さ(合計)60mを誇る」
というが、このように石垣を(合計では)日本一高くしてある理由が
もしかしたらこの点にあるのかもしれない。
島原の乱は丸亀城再建に影響を与えたのか、与えたとすれば具体的に
どのように影響を与えたのか、知る機会があるとありがたいと思った。

ところで、今現在姿を見せている山崎氏以降の丸亀城の構造は
藩主たちの自由意思によって決められたものではなく、
幕府の指図に従って決めたものだそうである(Ⅰの41ページ)。
さらに、Ⅱによると、ここまで天守と呼んできたものについては、
江戸時代の「絵図には『天守』との記載は見られず、
三階櫓との認識であったようだ。」
私には、具体的にどんな人たちがどういう流れで丸亀城の構造を
決めていったのか想像つかないが、あのように石垣モリモリのわりには
三階櫓と呼ばれたものしかない理由を自分なりに予想してみた。
すなわちそれは、築城の予算配分の優先順位によるものではないだろうか。

どういうことかというと、もはや殿様も家来も天守まで逃げ込んで
戦わないといけないような戦況になってしまうと、
それはすぐにも援軍などが期待できない限り
落城も時間の問題という「もうおしまい」のような段階に思える。
なので、お城の役割としてはむしろ、
「もうおしまい」になってしまう前の段階で敵の攻撃をいかに退けるかが
より大切で、その考えに即せば、巨大な天守閣を建てるよりも
石垣や堀などの守りを堅くする事に重点を置いて、予算配分も石垣や堀などを
優先するべきだ、ということにならないだろうか。
石垣モリモリなのに天守っぽいものも無いのはさすがに格好がつかないが、
巨大な天守を作っても大砲の標的になりやすいし、
メインの櫓は小さくしてでもそのぶん堅固な石垣を築くなどして、
敵を城内によせつけないようにした方がいい――
丸亀城は、そんなバランス感覚に基づいて再建されたお城のように思えた。


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