黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

比企一族の四つの館跡

2022-03-24 15:14:18 | 歴史系(ローカル)
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」が題材にしている
平安末期・鎌倉時代初めの武蔵武士たち。
彼らにゆかりのある埼玉の史跡を何度か訪ねてきたが、
思えば比企一族に関しては神奈川県鎌倉市にある妙本寺を訪ねただけであった。
そこでこのたび、埼玉にある比企一族ゆかりの史跡を訪ねることにした。
こうした史跡探訪はとても久しぶりであるし、
しかもどうやら比企一族というのが分からないことの多い一族で
その館跡すらも候補地が複数あるほどである。
ややこしいので、今回訪ねた史跡を最初に整理すると
おおむね次の四か所であった:

① 伝 比企遠宗・比企尼屋敷跡――泉福寺付近の三門館跡(滑川町)
② 伝 (遠宗没後の)比企尼屋敷跡――宗悟寺付近の比丘尼山(東松山市)
③ 伝 足利基氏の塁跡――正法寺付近(東松山市)
④ 伝 (比企能員滅亡後の)比企氏館跡――金剛寺(川島町)

なお、比企一族の歴史全般のついては、東松山市の公式サイトに
あると思われるpdfファイル「比企一族の歴史」が大変参考になったので
最初に紹介しておきたい(こちら)。

①まず、泉福寺付近の三門館跡について。
この付近にある掲示によると、三門館跡は比企能員の先代・遠宗もしくは
毛呂太郎季綱という武将の館跡とされ、現在、空堀と土塁の一部が
残っているという。私有地となっている部分もあるし、現地の写真も含め
詳細は滑川町の公式サイトにあるpdfファイルが参考になるだろう(こちら)。
何とかして土塁らしいところを写真におさめたいと思い、下のように撮影したが、
盛り上がっている部分を土塁跡と考えていいのか、正直、自信が持てない。





空堀跡については、紹介したpdfファイルの4ページ目に分かりやすい写真が載っている。
そこに載っているのは、私の撮影場所とは異なるものである。

また、こちらは泉福寺の駐車場から館跡遠景を撮影したもの。
これは、pdfファイルの最初のページと同じものだろう。



比企遠宗の館跡として史跡を紹介はしたが、このさいカギを握るのはむしろ
彼の妻・比企尼ではないだろうか。比企尼は源頼朝の乳母を務めた女性で、
1160年に頼朝が伊豆に流された時、武蔵国比企郡を「請所」にして、
夫・比企遠宗とともに関東に下り、以後、1180年にいたる20年間、
物心両面での援助を続けたという。
その後、鎌倉を本拠地とした頼朝は、こうした長年の恩に報いる一環として
比企一族を厚遇するようになったようである。
東松山市のpdfファイル「比企一族の歴史」では、
このような援助を続けた比企尼の心意気もさることながら
これを可能にした比企尼自身の財力、そして比企という地域の豊かさ――
すなわち、鉄・銅・馬・米等が産出されたことにも着目しており、興味深い。

②次に、宗悟寺近くにある比丘尼山について。
現地の掲示によると、比丘尼山とは比企遠宗の妻・比企の尼が、
夫・遠宗亡き後、尼となって草庵を結んだとされる場所で、
下の画像がその遠景である。



この付近にある比企一族ゆかりのものとしては比丘尼山のほか、
宗悟寺に安置されているという源頼家の位牌、



また「串引沼」という沼がある(下の画像)。



比企能員には娘・若狭の局がいて、彼女が鎌倉幕府二代将軍・源頼家に嫁ぎ
長子・一幡を産んでいた。しかし、比企能員をはじめ一族は北条氏に滅ぼされ、
やがて若狭の局の夫・頼家も伊豆の修善寺で殺されると、
若狭の局は頼家の位牌を携えて故郷に戻り、比丘尼山の麓に「大谷山寿昌寺」という
草庵を結んで夫の菩提を弔っていた。当時の若狭の局は亡き夫・頼家の形見の
櫛を眺めては涙にくれていたため、見かねた祖母の比企尼が
その櫛を捨てて思いを断つよう若狭の局に言った。
そうして若狭の局が泣く泣く櫛を捨てた沼がその「串引沼」ということである
(以上、串引沼付近の掲示による)。
だが、東松山市の「比企一族の歴史」によると若狭の局は一族とともに
焼き殺されたとされるため、可能性があるとすれば、辻殿(賀茂重長の娘で
一幡の弟・公暁の母とされる女性)ではないか、という。

③正法寺付近にある足利基氏の塁跡について。
正法寺から「門前通り」というまっすぐな道を下った先に
「鳴かずの池」というのがあるが、その付近に見える堀跡や土塁跡が
「足利基氏の塁跡」とされるものである。
現地の掲示によると、足利基氏とは「鎌倉公方」となった足利尊氏の次男で、
芳賀高貞という武将の反乱「岩殿山合戦」(1363年)の際にこの地に本陣をおいたという。
しかし、足利基氏は長期の滞在はせずに、すぐに下野国に陣を進めたので、
「この館は合戦の時に基氏が築いたものではなく、地元豪族が造った館を
陣地として利用したものと思われ」るという。
掲示には「地元豪族」としか記されていないが、『歴史ロマン埼玉の城址30選』に
よると、この「地元豪族」こそ比企能員なのだとする説がある。
下の画像は、「鳴かずの池」と、その池に近い方の、西側の堀跡である。





正法寺のパンフレットによると、正法寺は718年以来の古刹であるが
鎌倉時代には源頼朝の庇護を受け、比企能員を始めとする比企氏が
その岩殿観音に深く帰依したという。
また、正法寺の門前通りの途中に横道があって、その細い階段などをのぼると
「判官塚」なるものがある。現地の石碑によると、それは比企能員の孫の
比企員茂が1218年ごろ、「比企判官能員の追福のため築きしものと言い伝う」。
また、この塚は最初からここにあったわけではなくて、
大東文化大学キャンパス造成時に移転したという。



④川島町にある金剛寺について。
以前私は、鎌倉にある比企氏ゆかりの妙本寺について(こちらで)とりあげた際、
「比企氏の乱」にみまわれても比企一族が完全に死に絶えたわけではないことを
記した。①から③までの史跡は鎌倉時代までの比企氏にゆかりのあるものだが、
④にあるのはそれよりもだいぶ後の時代の子孫の墓である。
お寺の大日堂の掲示によると彼らがここ一帯に住居を構えるようになったのが
天正のころで、比企政員(1575年没)以降であるという。
この大日堂の左側奥を進むと堀跡があるものの、遺構の一部かどうかは不明。



そして、さらに進んだ先に比企一族歴代の墓がある。
画像二枚におさめたその墓のうち、最も古いのが、
比企政員の子・則員の墓である。



この金剛寺と比企氏のゆかりについては、『改訂 歩いて廻る 比企の中世・
再発見』(発行:埼玉県立嵐山史跡の博物館 平成22年)にあるが、
要約するとおおむね次のようである:
比企能員の子孫のうち、「比企氏の乱」(1203年)を生き延びた者として
能員の子円顕(当時2歳、俗名能本)の他に、時員(能員の子)の子・員茂がいた。
当時、母親のおなかのなかにいて無事だった員茂は、「出生後、
岩殿山観音堂別当に養育され、のち北面の武士(院の御所の北面に詰め、
院中の警備にあたった武士)となり、承久の乱(承久3年1221)では
敗れた順徳院に従って佐渡に渡り、寺泊兵衛尉と改名」。
その員茂の子・員長は、「頼家の娘竹御所と従兄弟関係にあり、比企・吉見・
高麗郡等を所有していたことから、その縁で密かに越後より比企郡中山に移り、
のち子孫代々がこの地に居住した」。
――以上のような経緯があって、比企氏代々の墓がこの地にあるという。
すぐそばに山があるような①から③までの史跡とは少し離れていて、
地理的条件も、平地がどこまでも広がっているような場所だが、
彼らにとって先祖伝来の地ではある。
たとえ一所懸命の時代が終わっても、先祖伝来の地で暮らし、永眠できるのは
彼らにとって喜ばしいことだったのではないだろうか。

なお、余談になるが、ヤフーニュースの「『鎌倉殿の13人』頼朝の乳母・比企尼とは
粛清され歴史から消えた一族・比企氏のルーツを探る」
によると、
現在、「比企」という名字は関東と新潟県に集中しているという。
推測にすぎないが、もしかすると新潟県に多いのは比企員茂が
一時期佐渡に渡ったことが関係しているのではないかとも思うのである。

閑話休題。比企能員をはじめとする比企一族は、なぜ滅びることになったのだろうか。
最近読んでいる『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』(著:岡田清一
ミネルヴァ書房 2021年)で、この謎についての興味深い考察があるので、
私なりに要約してみたい。
――鎌倉時代初めに北条氏を率いていた北条時政と、
比企一族を率いていた比企能員には、共通点があった。
それは、自身の大きな権力基盤が鎌倉将軍家との姻戚関係あるいは乳母関係のみに
あって、幕府の組織内に確固たる権力基盤があったわけでもなければ、
他を圧倒するほど広大な領地を有していたわけでもなかった、という点である。
このような状態の権力基盤はきわめて不安定なものだったのだが、
その後、権力基盤の補強につとめた北条時政と、
結果的にそうしなかった比企能員とで、明暗が分かれたという。
まず、北条時政の場合、娘の政子が源頼朝と結ばれ、頼家・実朝が誕生して
源家との姻戚関係が生まれ、頼朝没後は頼家が鎌倉殿を継承したが、
時政の財産は本当にこれだけ。しかも、この新しい鎌倉殿・頼家には、
時政の他にも乳母関係(傳)にあった梶原景時、
そして重層的な乳母関係を誇る比企一族がひかえていた。
鎌倉の妙本寺の記事とも一部重複するが、①と②でとりあげた比企尼が
源頼朝の乳母であっただけでなく、比企尼の長女・丹後内侍の娘が
源範頼(頼朝の弟)の妻、比企尼の次女・川越尼は自身が源頼家の乳母で
河越重頼とのあいだにもうけた娘・京姫は源義経に嫁ぎ、
比企尼の三女も頼家の乳母である。
のみならず、比企能員の妻も頼家の乳母だし、能員の長女・若狭の局は
頼家に嫁いで一幡と娘・竹御所をもうけていた(②でも紹介)。

北条時政にとってこの事実は、源家との「姻戚関係が決して北条氏の
独占でなかっただけでなく、頼朝から頼家に代替わりするなかで、
比企氏の立場がいっそう強まることを意味した。」
しかも、「頼家の後継者として一幡が擁立されれば、北条氏にかわって
比企能員が外祖父の地位を占めることにもなる」。
北条時政は、先手を打った。

『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』では、
比企能員滅亡の顛末がより詳しくとりあげられている。これによると、
比企能員が滅ぼされる直接的なキッカケは、源頼家の発病であった。
1203年7月20日に発病した7日後、突如として頼家の家督譲与が公表。
その内容は、長子・一幡に全国惣守護職と関東二十八ヵ国地頭職を、
弟・千幡に関西三十八ヵ国地頭職をそれぞれ相続させるというものだった。
千幡とは後の源実朝であるが、実は北条時政の娘・阿波局が
この千幡の乳母を務めていた。
本来、頼家の権能は全て長子・一幡に相続されるはずなのに千幡と
二分され、しかも、当の頼家には全く知らされないうえでの公表。
つまりこれが、千幡の背後にひかえる北条時政の比企氏に対する挑発であった。
怒った比企能員が、娘の若狭局を介して頼家に家督譲与の件を伝えると、
頼家は比企能員と談合して北条時政の追討を決定した。
ところが、このことが北条政子の知るところとなってしまい、
政子をを介して時政にも知るところとなってしまう。
ここで時政は、頼家の病気を利用して能員を返り討ちにする計画を立てた。
しかも、「私闘」のそしりを免れるためなのか、
時政はこの計画を事前に幕府の公的機関の別当である大江広元に一応、
伝えたうえで、大江が「よろしく賢慮有るべし」などと曖昧な
返答しかしていないにもかかわらず、この返答を受け取るや
すぐさま天野遠景・仁田忠常という武将に比企能員追討を命じた。
その日のうちに時政は使者を能員のもとに送り、時政の名越邸で行われる
薬師如来像の供養会への参列を求めた。比企能員が軽装・少人数で
名越邸にやってくると、先の天野遠景と仁田忠常が比企能員を暗殺。
その直後の午後三時には、北条義時・泰時、平賀朝政、畠山重忠らが
一幡の小御所に押し寄せ、比企一族を滅亡、自殺においこんだという――。

ここで、興味深いポイントがいくらかある。まずは、ここまで引用した
『北条義時 ――これ運命の縮まるべき端か――』で指摘しているように、
頼家が倒れた時の比企一族の脆さ、そして、時政追討計画を知った時政が
その日のうちに仏像供養を行って能員を返り討ちにしてしまう対応の早さと
綿密な計画性。同書では、この出来事が頼朝の死からわずか四年後であること、
また『吾妻鏡』では比企能員に連座して拘禁されたはずの中野能成という
御家人――彼は頼家の近臣で、時政の子・北条時房とも深い関わりが
あるとされる――が文書史料では所領安堵されていることから、
北条時政が比企能員一族滅亡前から中野能成と手を組んでいた、
すなわち「早くから比企氏への対策を講じていたのであり、
水面下で次なる手を打っていたと見るべきであろう」と推測している。
また、比企能員が軽装・少人数で名越邸にやってきた謎については、
ウィキペディアの比企能員の項では、(時政追討計画が)「漏れている事を
知らない能員は、さかんに引き止めて武装するように訴える一族に
『武装したりすればかえってあやしまれる』と振り切り、平服のまま
時政の屋敷に向か」ったとしている他、「北条氏征伐を企てたという能員が、
敵であるはずの時政の邸を無防備に訪れている不自然さなどから」
「比企氏の反乱自体が北条氏のでっちあげであろう」ともしている。

最後に、ここからは私の感想になる。少し調べてはみたものの、
比企能員がいつから源頼朝に仕え、戦いに加わるようになったのかは
よく分からない。一方、北条時政は、流人・頼朝の一番最初の挙兵から
加勢し、石橋山の戦いの敗北も経験した人物である。
時政が比企一族に対して発揮した危機管理能力、あるいはリスク管理能力の
高さあればこそ、平家全盛の時代に頼朝とともに挙兵し、
石橋山の戦いの敗北をも乗り越えたのかもしれないが、
私はむしろその計画性といい、大江広元に声だけかけてからだまし討ちにする
ズルさといい、そして、女もろとも焼き殺す残酷さといい、
これほどの強い権力欲にドン引きしてしまう。
比企能員をはじめとする比企一族の対応は無防備だったかもしれないが、
彼らもまた、北条時政の権力欲の深さにタジタジだったのではないだろうか。
しかしながら、北条時政一代といわず、その後も権力の独占に
はしり続けた北条一族がその報いを受けるのは、比企能員らが滅亡してから
130年後の新田義貞の時代のことだったと思われる。
また、武士道や朱子学といった道徳の類が浸透するようになったり、
例えば天下取りが実現したことで邪魔者と化した有力者に対し
殺す以外に上手く処遇をしていく知恵が少しずつうまれるのも、
まだまだ先のことだったと思われる。


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