黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

激動の大晦日

2010-12-31 17:00:32 | 日常
今年もそろそろ終わるけど、
明日の元旦も我が家に人を招いてお食事するので
そのために終日働かなければならない。
そして明日も頑張ろうと思えば、
今夜もそんなに夜遅くまで起きてられない。

さて、明日の下準備でも始めるとしよう。


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広瀬武夫の戦死

2010-12-26 23:55:14 | 思索系
NHKの年末のスペシャルドラマ「坂の上の雲」。
このたびの話題は、二度目の「旅順口閉塞作戦」で
広瀬武夫少佐が戦死する話であった。
前回のレヴューでも引用した『図説 日露戦争』
(河出書房新社 1999)によると、
彼は死後中佐に昇格して国葬され、「軍神」として
国民に広くアピールされた――という。
また、ウィキペディアの彼の項によると
昭和10年には彼の故郷(現・大分県竹田市)に
彼を祀った「広瀬神社」なるものも創建されたという。
ドラマにおいて、自分が乗った軍艦にロシア語で
「ロシアの友よ、戦いでは正々堂々と戦おうぞ」
といった主旨の垂れ幕を掲げていた広瀬の死には、
まさに騎士道精神の時代の終焉を見る思いである。

広瀬武夫といえば、「広瀬中佐」という軍歌が
今に伝わっている。その軍歌をyoutubeで聴く際に
コメント欄を読んで知ったことだが、
広瀬に恋をしたあの「アリアズナ」という女性は
その後、自分の父親も旅順での戦いで失い、
彼女は若くして亡くなったそうである。
この令嬢のショックは大きかったものと思われる。


なにしろ私は日露戦争の概説書を一冊だけ
目を通した程度なので、このたびも理詰めで
何かを書き進めていくことには困難を感じる。
それでも一つ思ったことを述べるとすれば――
太平洋戦争のケースもふまえて考えてみるに
「まず最初に不意打ちで敵の意表をつき、なるべく
短期間のうちに一気に敵をたたきつぶしたい」という
物資が乏しい国ならではのマトモでない作戦が
旧日本軍の考える常套手段だったように感じている。
私はそこに、旧日本軍の苦しさを見る思いである。


広瀬中佐

こちらの動画をyoutubeでご覧になると、
私が引用したアリアズナの後日談を読むことができます。





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スカイツリーをめぐって

2010-12-22 23:55:11 | 日常
おととい、ニューズウィーク日本版のコラムに
東京スカイツリーに関するフランス人のコラムが
載せられているのを読んだ(こちらで)。
とりわけ日本の民放の情報番組では
連日東京スカイツリーの建設を喜ぶ内容が
見受けられるが、このコラムニストの見方は
冷ややかそのものだ。

コラムの詳しい内容については
上のリンク先から読んでいただきたいが、
要するにこのフランス人コラムニストが述べるには
背の高い東京スカイツリーは景観上
高い建物の少ない「下町」には不釣合いな建物で、
建物をやたら高くすることに価値を見出すのも
時代遅れで発展途上国のすることだ、と言う。
さらに、アンテナは街の最高層部につけなければ
ならないからといって何も東京タワーより
301mも高くする必要はないはずだし、今ある複数の
高層ビルの屋上を活用する方法だって
あったはずだ、とも述べているようである。


私はこのコラムニストのように外国の都市について
外国語でこれほど深く論じることなど出来ないし、
東京スカイツリーに対する見方が新しそうだったので
まずはとても面白いと思いながら読んだ。
欲を言えば、東京周辺の庶民やメディアはどうして
こんなにも東京スカイツリーの建設を喜ぶのか、
そこまで掘り下げて論じてほしかったとも感じる。
もしかすると彼らは高度経済成長時代の栄光が
忘れられないのかもしれないし、あるいは
ただ単に明るい話題がほしいだけかもしれない。
また、東京スカイツリーの話題を盛り上げることで
地域を活性化させたいと思っている可能性もある。

かく言う私自身は東京スカイツリーを
どう感じているのかというと――
少なくとも、東京スカイツリーなどよりは
浅草寺のほうがよほど価値が高いと感じている
(なにしろ日本史が好きだから)。
地元・埼玉から浅草寺まで足を運んだついでに
スカイスリーに立ち寄ることはあるかもしれないが
少なくともスカイツリーのためだけに
東京まで出て行くようなことは考えられないのだ
(なにしろ田舎者だから)。


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騎士道精神の最後の時代

2010-12-19 23:55:51 | 思索系
NHKの年末のスペシャルドラマ、「坂の上の雲」。
このたびは、日露戦争開戦が決定したところで
話が終わった。前回は特にここに書くべきことが
思いつかなかったので割愛した。


日本軍の実力がロシア軍と比べてとても弱かった
という現実を知っていた日本人は当時どれほど
いたのか、そこまでは私には分からない。
だが、ドラマで先週から描かれていたように
日露戦争前の日本の世論はとても好戦的だった。
当時は、平凡な地位の一般庶民のみならず
大変な権威と尊敬の対象だった「博士」さえも
開戦を主張する論文を新聞記事に載せたり
していたそうである(『図説 日露戦争』
河出書房新社 1999年 による)。
あるいは『日本人はなぜロシアが嫌いか』
(志水速雄 山手書房新社 1992年)で述べている
ように、日本の実力の程は威勢のいい世論の
なかではほとんど忘れ去られてしまったの
かもしれない。

ところが、当時の日本人の身のほど知らずぶりは
なにも軍事面に限った話でもないらしかった。
『日本人はなぜロシアが嫌いか』によると、
当時の日本人はロシアを貧乏な「君主独裁国」と
考え、その暴圧に苦しんでるであろう
ロシアの一般庶民に対しては少なくとも同情し、
特に社会主義者たる石川啄木などは「日露戦争に
よってロシア国内を刺激し、ロシア人を
『哀れむべき暴圧』から救い出すべきである」
とまで思っていたそうである。
たぶん啄木にしてみれば、それが立憲国たる日本の
果たすべき使命だと考えたのだろう。
ドラマではロシアで革命を起こそうと画策する
日本人スパイ・明石なにがしが登場していたが、
その「明石」とやらもこれと同じような
使命感を持っていたとしても不思議はないと思う
(「明石」という人間が本当にそのような使命感を
持っていたのか調べることはできなかったので、
これは単なる私の想像にすぎないが)。
なお、日露戦争で日本がロシアに勝利したのち、
石川啄木は日本の「文明」がロシアのそれよりも
劣っていると思うようになったそうで、
先の「解放戦争」きどりの考えも
子供らしい考えに思えてきたということである。


先日放送されたNHK教育番組の「高校講座 世界史」
第31話によると、第一次世界大戦以降の戦争では
新たに飛行機や潜水艦や毒ガスなどが
用いられるようになったという。
思うに、これらを使用する戦いが始まるということは
敵味方がお互いに面と向かって正々堂々勝負する
時代の終焉と、「敵が見えない恐怖」が戦争に伴う
時代の始まりを意味するのではないかと思う。
ドラマには、「中世以来つちわれてきた
騎士道精神の最後の時代だったかもしれない」
といった主旨のナレーションがあった。
秋山好古が夜のシベリアの街に繰り出して
コサックたちと腕相撲をして遊んでいた
シーンだっただろうか。
もしこのナレーションが真実をついているとすれば、
この戦い方の変化こそ、日露戦争の時代が
騎士道精神の最後の時代になってしまった理由の
一つなのではないかと思うところである。


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地名の由来に関する本

2010-12-17 23:56:42 | 歴史系
最近、『世界地図から地名の起源を読む方法』
(著:辻原康夫 河出書房新社 2001)を
新たに呼んでいる。内容は、題名どおり
世界の地名の成り立ちについて紹介した本である。
私にとってきらめき面白い内容ではあるが、
その反面、地名の起源を探り当てる事の難しさも
想像に難くないところである。
実際この本の前書きにも、「ここで紹介する
地名の起源や由来の多くは妥当性があるとして
採用された有力な説であって、学術的な裏づけを
もった説ではない」旨の但し書きがあり、
この本の内容を確かな史実として信じることの
危険性を説いている。
私も、いつかこの本を引用する際には
その情報が不確かなものであることを
なんとか明示しなければならなくなるだろう
(ましてこの本は発行されて10年近くたっているの
だから――)。

最近の私の興味はもっぱら日本史ばかりなので、
世界史について多くを語る下地など持ちえない。
なのでとりあえずジャパンの語源についてのみ
話題にしたい。――上の本によると、
ジャパンの語源はむかしの中国語に由来するという。
古来、中国では日本のことを「倭国」と呼んだが、
遣唐使の国書によって「日本国」の名が
中国に正式にもたらされたため、
唐代以降の中国では「日本国」を
チーペンクォ(Jihpenkuo)と発音していた
(余談であるが、私の大学時代の記憶によれば
現代の北京では日本をリーベンと発音する。
また「国」はグオと発音する)。
時代が下って13世紀後半の元の時代になると、
フビライを訪れたマルコ・ポーロが
「チーペンクォ」を「チパング」と聞きとり、
『東方見聞録』のなかで初めてヨーロッパに
その名を紹介した。
しかし当時は印刷技術がなかった時代、
「チパング」の名は写本する側の誤謬や誤記などに
よってジパング、ジパングリ、シパングなどと
変形していき、やがてめぐりめぐって
英語の「ジャパン」に落ち着いた――という。
なにやら、古代中国の「秦国」が
英語の「チャイナ」に至る理屈に似ているようだ。


全ての地名の由来をムラなく紹介しているわけでは
ないようなので、この本は完璧とは言いがたい。
ザッと読んでみた限り、特にカナダや南米の
地名に関する記述が少ない印象である。
しかし、今の私にはあの程度の情報量で充分だ。
いや、面白い内容だった。


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スヌーピーの印象

2010-12-14 23:54:20 | 日常
特にネタが思いつかないときは、
占いかランキングを題材にするに限る。
先日は「知らなかったスヌーピーのひみつ
ランキング」というのを見つけたが、
いわゆる「アラサー」になっても
時々ピーナッツのアニメを観てしまう私としては
そこそこ興味深いランキングの一つであった。

知らなかったスヌーピーのひみつランキング - gooランキング


ヒマなときに観る程度でそれほど熱心に
見ているわけではない
(第一、見たくてもそう頻繁に見られない)ので、
私がアニメで知りえた「ひみつ」は
2位の「結婚式の寸前に兄に婚約者を奪われた
ことがある」事と、8位の「隣の家のネコが苦手」
ということと、10位で指摘されているように
住んでる犬小屋が「四次元ポケット並みか」と
思うほど広いということぐらいであった。

ハッキリとは覚えてないが、私はなぜか
ピーナッツのアニメやマンガを実際に見たことが
ない時代(中学時代)からスヌーピーが好きだった。
そうした過去があるからこの年になっても
たまにピーナッツを観るのだろうが――しかし、
成人後ピーナッツを観られるようになってから
というもの、スヌーピーを「カワイイ」とは
思えなくなってしまったのだ。
おそらくそのこころは、
スヌーピーが飼い主などに従順でなく
自らの権利を強く主張する傾向があるからだろう。


少し私がアニメを観てきた限り、
スヌーピーは何でも出来てしまう犬で
飼い主やそんじょそこらの人間などよりは
よほど有能で頼りになるらしい。
もしかすると私はスヌーピーを単なる犬として
みるべきではなく、犬の姿をした一人の人間として
みるべきなのかもしれない。
ピーナッツは、アニメ専門番組
「カートゥーンネットワーク」で今も
平日午前10時に放送されている。


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幕末の水戸藩

2010-12-10 23:58:32 | 思索系
1998年の大河ドラマ「徳川慶喜」の再放送が
最近「時代劇専門チャンネル」で始まった。
このたびは、このドラマを話題にしたい。
いま放送されている時代は
まだほとんど慶喜の父(徳川斉昭)の時代だが、
さっそく感じるところがいくらかあるので
それを少し記していきたい。

以前も記したように、このドラマで
徳川慶喜を演じているのは本木雅弘さんである。
1998年に観たときも感じたが、
徳川慶喜もさすがに主人公となると
気品あふれる貴公子に描かれている。
現存する慶喜の写真を見れば実際そのとおり
だと思うが――慶喜が生きた時代、
成るか成らぬか誰にも分からないような志を
一途に貫いていった者たちが歴史を動かしたせいか、
そうした者たちと対照的な生き方をした慶喜の
描かれ方は他の幕末人と比べて良くなかったり、
慶喜の配役すらも必ずしも上品な顔でなかったり
するようである。
だが、慶喜の内面や言動はともかくとしても
外見は気品あふれる貴公子であることが
写真で明らかになっているのだから、
やはりせめて慶喜役は端正な顔立ちの二枚目が
演じるべきだと思う。
私はまだまだ若造なのでそれほど時代劇を見てきた
わけではないが、1990年の大河ドラマ
「翔ぶが如く」での三田村邦彦さんの慶喜が
いかにも貴公子らしく感じられて印象に残っている。
慶喜は「翔ぶが如く」の主人公たち(西郷隆盛と
大久保利通)とは最終的に敵同士になるのであるが。

大河ドラマ「徳川慶喜」が1998年に放送されていた頃、
おそらく私はまだ高校生であった。
当時の記憶を今たどっていくと、
最も印象に残っているのは実は主人公の慶喜ではなく
水野真紀さんが演じていた
「たみ」という武家の女性であった。
彼女は「新三郎」という慶喜の家来の妻であるが、
実はこの「新三郎」という武士は結婚する前に
「みよ」という別の武士の愛人と恋におちてしまった
男で、慶喜はこの新三郎と「みよ」の道ならぬ仲を
引き裂くために新三郎と「たみ」を結婚させたのだ。
こうした結婚前の事情を「たみ」は知るよしもなく、
これから新三郎を自力で探していく。
この「たみ」が視聴者に見せ始めた「女の情念」。
それが、他の誰よりも印象に残っていたのである。

おそらく「みよ」は武家の女性ではないので、
たとえ「みよ」が人の女でなかったとしても
武士である新三郎と「みよ」は正式な夫婦には
なれないと思われる。
これは『風雲児たち』というマンガで得た知識だが、
江戸時代の武士は武家の女性としか結婚できない
決まりだからである。
ただ、同マンガによればこの決まりには抜け道があり
第三者の武士が女性を養女にしてくれれば
彼女は武士と結婚できるようになるという。
そこで、当事者ではない私としては
新三郎の同僚の武士が慶喜からお金をもらって
「みよ」を囲っている旗本と示談し、
「みよ」を養女にしたうえで
新三郎が「みよ」を娶ればいいのではと考える。
「みよ」には病気をかかえた実父も存在するが、
彼には名目上、新三郎の世話係の肩書きのみを
与えて看病していけばいいのではないだろうか。
ドラマでは既に新三郎と「みよ」は駆け落ちして
しまったので、今さらこんなことを述べても
「後の祭り」なのであるが。


別冊宝島の『よみがえる幕末伝説』(1999年)に
よると、徳川斉昭が支配し慶喜が育った水戸藩は
太平洋に面した広い海岸線を持った地理上、
西洋船の漂着やその船員との接触の機会が
多かったため、早い時期から海防意識の強い
藩だったそうである。
そのうえ、斉昭が他藩に先駆けて西洋文明を
受け入れたり質素倹約や文武を奨励するなどして
藩政改革をおこなっていたため、
水戸藩は幕末の初期までは思想においても
文明においても、日本の改革派諸藩のなかの
先端を行っていたという。
徳川斉昭が幕府の開国に反対していた事に
関しても、彼は単なる異人嫌いや無知ゆえに
反対していたのではなく、
日本が欧米並みの文明をまだ持ちえぬうちに
開国したことや、欧米の恫喝に屈するようにして
開国したことに反対していたのだという。
『徳川慶喜と賢侯の時代』(中公文庫1997年)
によると、この徳川斉昭なくして
松平春嶽も島津斉彬も世に出ることはなく、
また彼らの忠臣・諍臣や長州の吉田松陰らも
徳川斉昭や彼のブレーンたちに学ぶところ
多大であった――というほどの人物だったという。

しかし徳川斉昭が生きた時代、まだ幕府の権威は
彼の改革を妨げるに足るほど残っていたらしい。
これから江戸幕府は次第に政権担当能力を
失っていくことになるというが、幕府が
政権担当能力を維持していた時期というのは
井伊直弼政権の時代までか、せいぜい安藤正信・
久世広周政権の文久元年までだったそうである。
徳川斉昭が亡くなるのは井伊直弼が桜田門外に
斃れてから約半年後だそうなので、
斉昭が生きていたころはまだまだ幕府の権威が
残っていた計算になるのである。
ドラマの初回(もしくは2話目?)では、
幕府から突然斉昭に謹慎命令が下り、
斉昭が怒り狂うとりまきを沈めつつ従容として
その処分を受け、藩主の座を長子の慶篤に譲る
というシーンがあったが、
それは幕府と水戸藩内の保守派が結託して
斉昭の追い落としをはかったものだという。

ドラマでは、水戸藩が幕府よりの「保守派」と
幕府よりでない「改革派」とに別れて
内部抗争をしている事についてもとりあげている。
『よみがえる幕末伝説』によると、
この内部抗争は徳川斉昭が水戸藩主になろうという
時代から続いているものだそうで、
徳川斉昭と彼の水戸藩主就任を実現させた
藤田幽谷、および幽谷の息子で斉昭のブレーンたる
藤田東湖などが「改革派」に属したのに対し、
徳川斉昭でなく清水恒之丞(11代将軍の息子の一人)を
水戸藩主にしようとした結城虎寿などは
「保守派」に属していたという
(なお、『徳川慶喜と賢侯の時代』によると、
謹慎することになった斉昭の後を継いだ徳川慶篤は
主に保守派によって育成された人だそうである。
ドラマでは、この慶篤と斉昭の確執も描かれている)。
ドラマでは斉昭は既に「安政の大地震」で
藤田東湖などのブレーンを失ってしまっているが、
斉昭はこれによって藩内を統制する力も失う。
やがて彼自身も亡くなると内部抗争がいよいよ
凄惨なものとなり、人材を消耗した水戸藩は
幕末史から姿を消していく――


他家にもありそうな「御家騒動」程度では
済まなかったという、幕末水戸藩の内部抗争。
その要因には「御三家」という藩の格式の高さも
さることながら、徳川将軍家に対して
代々恨みも御恩も持ちえなかったという、
歴史的要因も含まれているような気がする。
水戸藩出身の徳川慶喜が幕政の表舞台に立つとき、
せめて藩論を一つにこれを活かしきることができたら
まだ水戸藩にとってプラスだったかもしれない。
たとえその結果水戸藩が歴史の敗者になったとしても
それはそれとして誰かが語り継ぐだろうからである。


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「前だけを見る」とは

2010-12-05 23:57:22 | 思索系
「龍馬伝」という大河ドラマは先週で終わり、
今週からは同じ時間に「坂の上の雲」の
ドラマが何度か放送される。
このたびはそのドラマのレビューを少し書きたい。
――とはいえ、熱しやすく冷めやすい私は
なかなか「坂の上の雲」まで勉強するエネルギーを
出すことができておらず、また大河ドラマよりは
放送内容をよく記憶しているわけではないので
ごく簡単に記していきたい。


「坂の上の雲」の時代の日本人は、
常に前だけを見つめて走り続けていた――
冒頭のナレーションに、おおよそこんなくだりが
あっただろうとは記憶している。
「前だけを見る」とは言いえて妙で
一見聞こえのいい言葉だが、
この言葉を意地悪く解釈すると
「横に関心を払う余裕がない」ということでは
ないかと思う。というのも、当時の日本人は幕末以来
欧米の餌食になるかもしれない恐怖のあまり
自国が欧米並みに強く豊かになることにばかり
関心を持つようになり、同じ東洋の清国人が既に
欧米の餌食と化してしまっているにもかかわらず
彼らに救いや協力の手を差しのべる余裕もなく、
それどころか逆に餌食にしてしまっているように
思えるからである。
ドラマでは清国で秋山好古が清国人の子供を
欧米人からかばうようなシーンがあったが、
あの秋山の姿が当時の日本人の実像だったとは
考えにくいのである。

なお、「前だけを見る」ということは
思うに「後ろも振り返らない」ということでもある。
明治時代はそれまで日本人が伝統的に培ってきた
日本の文化が過小評価された時代でもあり、
例えば日本の美術品は大量に海外流出した。
また例えば「廃仏毀釈」が行われ、
木でできた仏像は庶民の薪と化した。
いろいろあって閉塞感にさいなまれていると
「前だけを見る」という言葉は良い響きのようだが、
「前だけを見ていた」という明治人のこうした側面も
見逃せない。


どんなしがない一般庶民でも、なにかの理由で
自分が外国人の注目の的になれば自動的に
その人は自国の旗を背負った代表者にされ、
外国人はその人の言動を見てその人の国を評価する。
そうして評価する側としては、
もし一国の外国人たちに嫌な思いをさせられる
経験が多いとその国に対するイメージは悪くなるし、
もし一国の外国人たちの良さにふれる機会が多ければ
その国に対するイメージは良くなる。
――国民の対外感情の原理とは、
案外こんなふうにシンプルなものではないだろうか。


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ああ、貧乏性

2010-12-03 23:58:45 | 日常
このたびは、久々に私自身のことを話題にしたい。

私の小さな悩みの一つに、
季節を問わない手荒れがある。
そこでハンドクリームを少なくとも1日1回以上
つける習慣があるのだが、使うハンドクリームは
今のところ特に決まっているわけではなく、
残りが少なくなり次第、売り場で気になった商品を
購入し、手に塗るようにしている。

そして、今使っているハンドクリームは・・・、
「ロクシタン」というメーカーの
「ローズ・ベルベット・ハンドクリーム」というやつ。



「一度はロクシタンを使ってみたい」という
憧れが半分、「割高なクリームを使うのは
家族に申し訳ない」という罪悪感が半分。
そうして長いあいだ思い悩んだあげく、
「購買能力があるうちに一度買っておこう」と
思い至ったのである。
このハンドクリームを購入できたときの、
嬉しかったこと・・・!

商品名に「ローズ」とあるように、
実際手に塗ってみるとスーッと馴染むだけでなく
バラの自然な香りが適度に匂う。
このハンドクリームを寝る直前に塗って
顔のそばに手を置くようにして寝ると、
「香り」とはこんなにも心地よさをもたらすものかと
幸せすら感じてしまう。
最も肝心な効果のほども――
安価なハンドクリームを夜につけた時には生じる
朝のかゆみもなかったし、
支払うだけの価値はあるように思えた。


しかしながら、なまじ良質のハンドクリームを
使ったことにより、結果的には手荒れの状態を
むしろ悪化させてしまっている。
というのも、頻繁に使うとかえってもったいない
気がしてしまい、一度に塗る量や頻度を
ついついケチってしまうからである。
惜しみなく使うよう自分が意識すればいいだけの
話であるが――ああ、貧乏性。


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