黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

関ヶ原古戦場探訪

2023-05-11 19:31:18 | 旅行記
今年のGWは、関ヶ原古戦場と岐阜城に行った。いずれもそれまで行ったことがなく、今年の大河ドラマが家康を題材にした「どうする家康」だからという事もあって行った。だが蓋開けてみたら、関ヶ原古戦場の史跡めぐりは家康の東軍ではなく西軍中心になってしまった。

しかも、西軍の宇喜多秀家の陣跡も、彼の八丈島の墓を訪ねた事もあり行ってみたかったが、迷子になって結局行くことができなかった。下の画像が八丈島で撮影した宇喜多秀家の墓で、手前にある石は、関ヶ原の戦いの時代の彼の城だった岡山城の礎石の一部だという。彼は流刑地の八丈島ではのびのびと暮らしたのだろうだが、関ヶ原は無念の地というべきではないだろうか。



関ヶ原古戦場位置図(開戦時)


まず、小早川秀秋が陣をしいた松尾山城だが、これが片道40分もかかる山登りだった。のぼった先の掲示によると、美濃地方最大級の山城だそうで、戦国時代に浅井長政が家臣を派遣させていた城だったのを、石田三成が東軍の西進に備え、大垣城主・伊藤盛正に命じて改修させた。三成は毛利輝元を招き入れようとしたが、来なかったので小早川秀秋が入ったという。想像するに、麓にいる家康の問鉄砲など頂上にいては聞こえなさそうな感じ。沢があり、いたる所から水が沸き、本丸からは関ヶ原をバッチリ一望できる最高のロケーションだと思った。

松尾山・小早川秀秋陣跡より石田三成陣跡と島津義弘陣跡を望む
 

また、こちらは笹尾山の石田三成陣跡と、その手前にある家臣・島左近の陣跡。三成の陣跡の見晴し台までは、麓から歩いてわずか5分。関ヶ原が一望できるだけでなく、容易に戦場まで降りられる距離感で、他の大名とも連絡・指揮が取りやすそうだと思った。

笹尾山・石田三成陣跡より小早川秀秋陣跡と島津義弘陣跡を望む
 

それから、三成の盟友・大谷吉継の陣跡。小早川秀秋の裏切りを警戒していた大谷吉継は、秀秋の陣のある松尾山を監視できる位置に布陣。石田三成と同様、麓から歩いて10分の位置にあり、容易に戦場まで降りられる距離感だと思った。画像は吉継の陣跡からの松尾山の眺め。ここからさらに登ったところに吉継の墓もあるのだが、同行していた夫が連日の山登りに根をあげはじめたのでここで断念した。

大谷吉継陣跡より小早川秀秋陣跡を望む
 

一方、こちらは家康の最初の陣跡、桃配山。そのむかし、壬申の乱に勝った大海人皇子が兵士に山桃を配った縁起の良い場所だったのでここに陣を張り験を担いだそうだが、やはり戦況は見えにくそう。「葵・徳川三代」で津川雅彦さん扮する家康が「あぁ〜勝っているのか負けているのか(戦況が分からない)」とイラついていた光景が目に浮かんだ。

桃配山より関ヶ原方面を望む
 

家康はその後、陣を戦場の最前線に移した。写真は、その最後の陣地の様子である。

家康最後の陣地
 

最後に、島津家関連の史跡を二ヶ所。
まずは島津豊久の碑。烏頭坂の途中にあり、その坂を見下ろすところに碑が立っている。坂をくだる敵を狙い撃ちしやすいそうな場所でもあった。

烏頭坂より島津豊久の碑が立つ場所を望む
 

碑が立つ場所より烏頭坂を見下ろす


関ヶ原観光ガイド」によると、「毎年、島津家に縁のある鹿児島県の小中学生が必ずここを訪れている」という(途中電車等も利用)。また、江戸時代に「宝暦治水木曽三川工事にやってきた薩摩の藩士たちも、この塚に必ず立ち寄ったともいわれて」いるそうだ。
なお、個人的に誤解していた事だが、掲示によると島津豊久はここで討死したとは限らず、関ヶ原を突破した後「白拍子谷」という所で自刃したともされる。



それから、こちらは島津義弘の陣跡。そこの掲示によると、戦いの終盤に敵中に取り残された義弘は当初討死も覚悟したものの、豊久の説得で撤退を決めたという。どうやら撤退は豊久が言い出したらしい。また別の掲示によると、現在鹿児島県日置市には、青少年で組織された「関ヶ原戦跡踏破隊」なるものがあるそうで、彼らは毎年関ヶ原から大阪までの撤退ルートを踏破するという。「その労苦を称えるとともに、郷土の先輩方に負けぬ立派な大人に成長できるようにとの自戒の念をこめて」、踏破した参加者の名前が陣跡の碑の傍の石に刻まれていた。
先ほどの島津豊久の碑にもあるように、宝暦のむかしも現在も一部の鹿児島県民が訪れているというし、郷土愛が強いと思った。

島津義弘陣跡


一番心に残ったのは、こうした島津家関連の史跡であった。宝暦治水事業を題材にした漫画『風雲児たち』の影響が大きいのかもしれない。その漫画では、宝暦治水事業を任された薩摩藩家老・平田靭負が、彼らにとって「史上最も壮絶な戦い」である関ヶ原の戦いを引き合いに出し、困難を乗り越えようと周囲に働きかける姿が描かれていた。例えば、悔しいからといって血気にはやった挙句、薩摩一国を滅ぼしてしまえば、関ヶ原に散った先人たちに何と言って申し訳が立つのか。…というふうに。
だが、たとえこのような「命のやりとり」レベルの話でなくても、郷土の先人たちが流した汗と涙に思いを馳せ、誇りに思うことも、一つの郷土愛のかたちではないだろうか。


←ランキングにも参加しています