黒い瞳のジプシー生活

生来のさすらい者と思われた私もまさかの定住。。。

見るべき程の事をば見て

2022-12-30 22:49:47 | 思索系
幸か不幸か、今年も源平時代に気をとられているあいだにすっかり暮れた。
今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、そして、夏から秋にかけて
再放送された「人形歴史スペクタクル 平家物語」。
これらの放送当時は時間をやりくりするのに苦労しながら
どうにか視聴できているような状態だったものの、心に残る場面が多く、
振り返りもせずそのまま歳を越すのももったいない気がした。
多少、埼玉の女の身贔屓となってしまうが、少し感想を書いておきたい。

まず、通年放送された大河ドラマ「鎌倉殿の13人」。
サイコパスな義経、頭も性格も良かった木曽義仲、心優しい平宗盛、
そして、ひかえめな北条政子。このように斬新な人物設定が
目立ったものの、「登場人物に共感できない」という事態も起こらず、
ストーリーがよく練られてできているという印象をうけ、面白かった。

源平時代は、地元・埼玉に根ざした武士たちが綺羅星の如く居並び、
活躍した時代である。
当初はそういう時代が取り上げられただけでうれしく、
彼らがとりあげられるだけで充分だと思っていた。
しかし、放送回が進んでくると欲が出るもので、もう少し登場場面がほしい、
もう少し「良い人」に描いてほしいなどとだんだん思うようになった。
ついぞ一度も登場してこなかった里ちゃんの父上・河越重頼殿。
また、北条氏のライバル、そしてヒール役として描かれた比企能員殿。
これらの弊害はやはり、彼らが「歴史の敗者」であるがゆえ
史料が圧倒的に少ない事に起因するのだろう。
なお、人格者のように描かれ、比較的活躍していた畠山重忠殿については
まず彼が北条とつながっていた(北条時政の娘を正室にむかえていた)のと、
『吾妻鏡』で「坂東武者の鑑」のように伝えられていることから
比較的良いように描かれたのだろう。
何の落ち度もなく、ただ真面目に生きてきただけの重忠殿が
時政夫妻の欲望のために滅ぼされてしまう事に理不尽を感じたのは
きっと私だけではあるまい。

このドラマの最終回のタイトルは、「報いの時」である。
結局、幕府を守る過程で非情なことを多くしてきた義時にも
毒殺というかたちでその「報い」が訪れたが、
登場人物の最期は良きにつけ悪しきにつけ
相応の報いを受けておわる方が観ていて後味悪くならない。
また、史料が圧倒的に少ないけれど、非業の死をとげたことは
明白である場合も、そういう死に方に相応しい悪だくみをしたことに
しておけば、後味悪くならないだろう。

しかしながら、実際の歴史は必ずしもその人が相応の報いを受けて
終わるとは限らない。それをよく表している一例が畠山重忠なのだ
という意味では、彼の理不尽な最期などがこの「鎌倉殿の13人」の
物語に深みを与えているとも思えた。いくら娯楽とはいえ、
全ての登場人物が相応の報いを受けて終わるようでは、
見終えてスッキリはするかもしれないが、
同時に薄っぺらい印象も残ってしまうところだったかもしれない。

それにしても、やりすぎて一線を越えて失脚した北条時政はともかく、
そういう父親の背中をみてきたであろう義時や政子は
「世のため人のため」に動いてみせて結局は自分の立場も同時に守る
という事に長けた人たちに思えてくる。
少なくとも「鎌倉殿の13人」の義時や政子は何かあると
「(北条のためではなく)鎌倉のため」などと言ったが、
鎌倉幕府の頂点に立つ彼らは結局、そうして「鎌倉のため」に動く事で
自分の立場が守られる人たちでもあろう。
果たして「世のため人のため」という思いは真心からくるのか、
それとも下心あるものなのか、あるいは両方なのか。いずれにしても、
彼らには「歴史の勝者になるべくしてなったしたたか者」という
イメージが、私のなかで新たに上書きされたところである。

これに対し、「鎌倉殿の13人」を機に私のなかで株が上がったのが
梶原景時であった。自分の有能さをひけらかしたり
過信するきらいはあったかもしれないが、
それは彼が血縁やコネをアテにすることができず
おのれの才覚一つを頼りに成りあがった生き様の裏返しにも思える。
血縁やコネがものを言うであろう時代に、才覚一つで汚れ役でも
憎まれ役でも何でもやって頼朝の信任を得、都の貴族から
「一ノ郎党」と言われるまでになったのは並大抵のこととは
思えなかった。


それから、「人形歴史スペクタクル 平家物語」の再放送。
まず、人形であるはずなのに表情豊かで
匂うようですらあることに驚きを禁じえなかった。
初回放送時、私はまだ小学生で、今に残る当時の記憶といえば
エンディングテーマと(誰とも分からぬ)女武者たちの活躍ぐらいだった。
先に述べた河越重頼殿も少しは出ていたということも分かったし、
思いがけずこの歳になって見ることができたのはよかったとは思うが、
いざ見終えてみると、男性は魅力的に描かれていることが多いと感じた
反面、女性の描き方に共感できないこともしばしばあり
面白いやら、モヤモヤするやら、少し複雑な感想になった。

私の眼鏡に色がついているのかもしれないが、この平家物語は
女性を極力、一途でか弱く見えるように描いてないだろうか??
まず、冬姫や巴御前は最初の夫に死なれても再婚したとされているのに
前者はなぜか木曾義仲に惚れた挙句に後追い自殺までして、
後者も再婚はせず、息子に死なれたのを機に登場しなくなった。
また常盤御前も、源義朝の死後は一度清盛に抱かれたぐらいのもので、
新たな夫の存在を感じさせる場面は描かれなかった。
さらに、妊娠中に夫が戦死したのを知って入水自殺した
平家の公達の奥方もいたが、タイムスクープハンターが取材した戦国時代の
奥方とは対照的である(彼女たちはむしろ、奥方の妊娠に気付いたことで
命を絶つことをやめ、生きて命をつなぐ道を選んだ)。
今となっては、木曾義仲の愛をめぐる「女の戦い」も、女武者たちの
男性に引けを取らない戦場での活躍ぶりから気をそらすための
「目くらまし」ではなかったか、と思うほどである。
その他、北条政子が山木兼隆との祝言から逃げる場面も、
政子自らの足で逃げたのではなく、兄・北条宗時が連れ戻しに来るなど、
女性を極力、一途でか弱く見せようとするかのような描き方には
事欠かなかったわけだが、果たしてこの原作が書かれた時代は
そういう女性が好まれる時代だったのだろうか。

一方、この平家物語で個人的に最も感動したのは
文覚が、袂を分かった「親友」清盛の危篤を知って館にかけつけ
清盛に聞こえるように大声で別れの言葉を伝える場面である。
栄華を極め、臨終の床でも多くの一族に囲まれていたにもかかわらず、
文覚が別れの言葉を叫んで初めて、
おのれの闘いの人生と志半ばで斃れる無念を語りだした清盛。
個人的に、この清盛の強がる姿は好きだったけれど、
自分の夢を理解し受け継いでくれる熱意と器量を持った人材に恵まれず
なんでも自分で切り盛りしないといけなかったであろう彼は、
人形劇のみならず実際も孤独だったのではないかという気がする。
今となっては、原作者はそんな清盛を孤独から救うべく
清盛に文覚という「親友」をプレゼントしたようにも思える
(なお、清盛と文覚が実際に親しかった、という類の史実は
今のところ見当たらない)。


人間の能力や幸運は、限りのあるものである。
たとえその幸運が身内の不幸と引き換えのものであったとしても、
結局はそれが仇となって長続きはできなくなる。
それが、私が今年最後に平清盛と源頼朝から受け取った教えであった。
この問題に有効な対策としては、個人の力に頼りすぎないこと、
例えば彼らの場合は法律や制度を整備することだと思う。
「鎌倉殿の13人」の最終回で「父上が死に物狂いでやってきたことを
無駄にしたくない」からと言って武士のためのルール作りを考え始めた
北条泰時も、なんとなくこのことに気が付いたのかなと思った。

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