Danchoのお気楽Diary

高校3年間応援団だった「応援団バカ」の日記。スポーツ観戦や将棋等の趣味の他、日常感じる事を、「ゆるゆる」綴ります。

記憶を繋げる仕事…。

2015-04-22 23:23:23 | 埼玉県六校応援団連盟関係
私が高校3年間、部活動で続けた「埼玉県立春日部高等学校応援指導部」…。





「規律、機敏、団結」の団則の下、そして、この幟と団旗が靡く球場の青空の下で、とにかくがむしゃらに、愚直に、選手達に力一杯の声援を贈っていた時が、こういう画を見ると蘇るし、懐かしい。


そのOB会が発足してから、今年で15年になる。

やはり、下一桁「5」と「0」は、節目になるのだと思う。
5周年の時は、「五周年記念誌」の出版が大きな事業だった。

とき、10年を経て、今年…。

5周年と同様に、今度は「十五周年記念誌」と表題を改めて、その事業が進んでいる。

今回出版予定の記念誌に、私達が現役だった時の様子を寄稿して欲しいとの要請を受けた。

そこで、4月11日…1個上のO先輩, K先輩と、オブザーバーで事務局を補佐している4個下の後輩と私の4人で、こんな「昭和の薫り」と「青春」が充ち溢れる、有楽町の居酒屋さんの「個室っぽい」ところで、寄稿予定の原稿の方向付け的な打ち合わせを急遽やることになり、私なりに準備して山口から出た。
(同じ日に、別のイベントがいくつかあったので、それにも出たんだけど…(汗)。)













控えめに流れているBGMも、ほぼ全て70年~80年代に大ヒットした日本の歌謡曲。
とりわけ上から2番目の「おニャン子クラブ」のポスターを眺めると、母校がCX系の「夕やけニャンニャン」の、「甲子園に行かなくても、校歌が歌える」コーナーに出演した時の事も思い出される。
(私自身も、一瞬ではあったが、結構大きく映る格好で「ビデオ出演」した。)

ともあれ、私達の「青春時代」を思い起こすには、そうは時間がかからないであろう、絶好な居酒屋さんだった。


私達が現役だった時の一番大きな「出来事」といえば、先日エントリーした記事ともリンクするのだけど、「第11回 日輪の下に」に尽きる。

もう拙ブログの読者の皆様なら御存知と思うが、この時から、松山高等学校應援團が新たに加盟し、今の「埼玉県六校応援団連盟」になった。
その時の事を思い出そう…という訳だ。
「大きく太い筋を通す」のは、実はこの事。
実際、「筋」は通していたので、いつでもここで書くことはできたのは確かだが、今回の事業で寄稿依頼があったのなら、こちらが先になるのは当然で、もうしばらくこちらで書くのは控えることにしたのは、そういう事情があっての事。



これ…数年前に、文化祭の展示で見つけた、その時のパンフである。
現代では考えられないと思うが、全部手作り。

ちなみに、全校のプログラムや小史(沿革)を1人で原稿を仕上げて印刷した、最初のパンフでもある。
その「1人で」…とは、実は私だ。懐かしい…。

字が変わるよりは見やすいだろうという事で、団長のT先輩や、この日出席いただいたO先輩, K先輩の1個上の先輩方から、同期の中で比較的字が上手との見解から、ご指名を受けて担当した。
練習が終わって帰宅して、眠い目を擦りながらの仕事で大変だったけど、今思うと、当時はこれを仕上げることも、「夢中」だった気がする。


さて、その当時の様子は、元々私がここで書こうと思っていたことを草稿として落とせば、話が進みやすいと思っていたので、それを4月に入って普段の業務から離れて帰宅後、粛々と進めた。
最終稿の提出に間に合わせるには、もう1ヶ月を切った状況に陥ったこともあって、かなり焦ったが、昨年から依頼を受けていたことではあったので、1個上の先輩方と協力して、何とか形にしたい思いはあった。

昨年の6月にも、実は同じ場所で「座談会」的な事はしたのだけど、やはり「しっかりしたもの」とするには、対話式なものではなく、締りがある稿にすべきとの事から、「座談会」で話題に上った事も資料としながら、打ち合わせを進めた。

K先輩は、最初「ほとんど憶えていない」と仰っていたが、私が「たたき台」として作成した草稿を眺めているうちに…O先輩からもだが、

「Danchoは、よくここまで細かいことを憶えているなぁ」
「骨格みたいなものは、これで良いね」

と、私は「お褒め」と思ったお言葉を頂いた。
私の草稿は、当時を思い起こすには、それなりに効果があった様だ。
記憶を呼び戻す一助になれたことは、素直に嬉しかったし、山口から出てきて正解と確信した。
(まぁ、今回の打ち合わせは、「尻に火がついた」状況を重く見て、私から持ちかけた事ではあったが…。)

「ここ、こうだったっけ?」「いや、ここは私(=Dancho)、はっきり憶えています!」
「あいつ、こんなこと言っていたっけ?」「あ、そうでしたか、違っていますか…」


そんな建設的な会話が3時間弱続き、我々が寄稿する原稿の「方向性」は定めた。
普段私的(時に仕事でも)に使っているノートPC(Let'snote)を持参して出かけたので、それを広げて、私の草稿のファイル体に、今回の打ち合わせ内容も盛り込んで、議事録的なものもその場で作成して、一通りの仕事は終えることができた。
補うべき点に関しては、普段から親しく接して頂いている、2個上のKT先輩にO先輩がお聞きして、それも概ね補う事ができた。
期限も切っているから、あとはO先輩を中心に、私達の世代で稿を仕上げる段階に入っている。


そこで、今回思った事。


やはり、「青春時代」というのは、色褪せないんだな…と。この一言に尽きる。

今回の事業への参加は、タイトルの通り「記憶を繋げる仕事」である。
正直、もう少し苦しむかな…と、私個人的には若干の不安もあったことは否定できないが、O先輩も比較的記憶が鮮明で、「ここに至った経緯がないと、強い原稿にならないよね」といった、鋭くも的確なご指摘も頂き、その場に居た全員も納得できた。
最初、「全く思い出せない…忘れている」と仰ったK先輩も、話が進むにつれて思い出せた事が多かったようで、「あの時のあいつの心理は、こうだったはずだよな」といった、これまた貴重なご意見も頂けた。

そんな「記憶」を「繋げる」事は、きっかけさえできてしまえば、あとは立て板に水の如く、その時の様子が目に浮かび、話が弾んでいくものなんだな…と。

ある意味「同窓会」と一緒で、現役時の出来事を話題にすれば、その時一生懸命に一緒に練習した先輩・後輩の関係だから、リアリティーを出すまでに時間はかからないのは、当然の道だったとも思う。
不安に思う事は全くなく、むしろ、大きな力になって、より良いものに仕上がって行くのは、本当に楽しいものだ。


「仕事」の後の「懇親会」でも、もっと「細かい」ところで話が弾み、今回はオブザーバーとして出席してくれた4個下の後輩達の状況や苦労も俎上に上って、非常に有意義な時間だった。

そういう場というものは、時が経つことを忘れさせ、気づいたら「ラストオーダー」と店員に言われて、時計を見ると、なんと…6時間経過!!。

本件を「酒の肴」にして、こんなに時間が経っていたことにも、驚いた。


記憶、とりわけ「青春時代」のそれを繋げること…。

「過去を振り返る」ことは、時にネガティブな事も連想させるが、この場合は「温故知新」。
それは、その仕事自体が「青春」であり、楽しいものだ…と、余韻に浸りながら、今でも思っている。



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8月23日から、こちらの応援団ネタの粗を削って、バックアップする目的の「新館」を、Amebaに設立しました。
Danchoのお気楽Diary 新館
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(只今、私が幼少のころ、テレビに噛り付いて見ていた「マッハGoGoGo」のキャラクターをテンプレートにしています。先日他界した愛川 欽也 さんが声を担当していた「覆面レーサー」も登場しています。ど派手ですよ)

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