「なぜあなたたちは着物のことで思い煩うのか。野の草花がどのように育つか、よく見つめよ。労することをせず、紡ぐこともしない。・・・栄華の極みのソロモンですら、これらの草花の一つほどにも装ってはいなかった。・・・『何を食べようか』とか、『何を飲もうか』と言って思い煩うな。・・・というのも、天のあなたたちの父は、あなたたちにはこれらすべてが必要であることを知っておられるからである。むしろまず、神の王国と彼の義を求めよ。そうすれば、これらすべてのものはあなたたちに付け加えられるであろう。」(『新約聖書』岩波書店2004年p.93-94)
新約聖書の中でイエス・キリスト自身の言動を記録した「福音書」を読んでいると、ブッダ自身の言動が記録されている初期仏教典とよく似た話がでてきて興味深い。この有名なイエスの「山上の垂訓」の一節は前に紹介した以下のブッダの言葉とまったく同じことを言っていると私は思う。
「『わたしには子がいる。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。」 (中村元訳『ブッダの真理の言葉・感興のことば』岩波文庫)
ブッダとイエスにはいくつか共通点がある。まず、自分では書いた物を残さなかったこと。たぶん、孫弟子くらいの人たちが一生懸命、師匠の言動を書き起こし、初期の教典を書いたのだろう。当の本人たちは目の前にいる人々に語り、世話することで手一杯で、書いてなどいられなかったのだろう。
それから、私が見るところ、人々をどこへも導かなかったこと。人々を律法や戒律を守るよう厳しく導こうとしていたのは、権威化し形骸化した当時主流の宗教集団であり、二人ともこれらの宗教団やそのやり方を激しく非難した宗教改革者だった。イエスは「思い煩うな、大丈夫すべてはうまくいく」、と言ってまわっていただけだ。ブッダは、「苦行など意味がないからやめろ」と言ってまわっていただけではなかったのか。
新約聖書の福音書には、イエスが人々の病気や障がいをたちどころに癒していく奇跡の事例がたくさん紹介されている。「悪霊」を追い出すことによって、病が治るという説明であるが、これはあながち荒唐無稽な作り話とはいえない。いつの時代も「病は気から」である。土橋重隆『ガンをつくる心治す心』(主婦と生活社2006年)では(これは現代日本の話)、患者の日常生活の中での心配ごとの種類によって、ガンの部位が違うという興味深い調査例を示している。例えば、人一倍健康を損なうことに恐怖心を感じる人が特徴的にかかるのが肺ガン、オカネの心配からくるのが大腸ガンなどである。つまり、「思い煩うな、大丈夫すべてうまくいく」と心から感じ、自らの心に巣くう不安や心配を追い出した時、難病が治る可能性があるのだ。イエスが「悪霊」と言っているのは自分で自分をしばる不安や心配なのではないだろうか。
「だから明日のことを思い煩うな。なぜなら、明日は明日自身が思い煩ってくれる。今日は、今日一日の苦しみで、もう十分である。」(『新約聖書』p.94)
これはイエスが語った言葉に著者が多少の脚色を付け加えたのではないだろうか。福音書を注意深く読むと、イエスの言動に、人生を重荷としたり、生きることを罪と考えたりする考え方はないように思う。すこぶる肯定的・楽天的にとらえているように思えてならない。イエスなら「今日は、今日一日の楽しみで、もう十分である」と言ったのではないかと私は思う。
新約聖書の中でイエス・キリスト自身の言動を記録した「福音書」を読んでいると、ブッダ自身の言動が記録されている初期仏教典とよく似た話がでてきて興味深い。この有名なイエスの「山上の垂訓」の一節は前に紹介した以下のブッダの言葉とまったく同じことを言っていると私は思う。
「『わたしには子がいる。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。」 (中村元訳『ブッダの真理の言葉・感興のことば』岩波文庫)
ブッダとイエスにはいくつか共通点がある。まず、自分では書いた物を残さなかったこと。たぶん、孫弟子くらいの人たちが一生懸命、師匠の言動を書き起こし、初期の教典を書いたのだろう。当の本人たちは目の前にいる人々に語り、世話することで手一杯で、書いてなどいられなかったのだろう。
それから、私が見るところ、人々をどこへも導かなかったこと。人々を律法や戒律を守るよう厳しく導こうとしていたのは、権威化し形骸化した当時主流の宗教集団であり、二人ともこれらの宗教団やそのやり方を激しく非難した宗教改革者だった。イエスは「思い煩うな、大丈夫すべてはうまくいく」、と言ってまわっていただけだ。ブッダは、「苦行など意味がないからやめろ」と言ってまわっていただけではなかったのか。
新約聖書の福音書には、イエスが人々の病気や障がいをたちどころに癒していく奇跡の事例がたくさん紹介されている。「悪霊」を追い出すことによって、病が治るという説明であるが、これはあながち荒唐無稽な作り話とはいえない。いつの時代も「病は気から」である。土橋重隆『ガンをつくる心治す心』(主婦と生活社2006年)では(これは現代日本の話)、患者の日常生活の中での心配ごとの種類によって、ガンの部位が違うという興味深い調査例を示している。例えば、人一倍健康を損なうことに恐怖心を感じる人が特徴的にかかるのが肺ガン、オカネの心配からくるのが大腸ガンなどである。つまり、「思い煩うな、大丈夫すべてうまくいく」と心から感じ、自らの心に巣くう不安や心配を追い出した時、難病が治る可能性があるのだ。イエスが「悪霊」と言っているのは自分で自分をしばる不安や心配なのではないだろうか。
「だから明日のことを思い煩うな。なぜなら、明日は明日自身が思い煩ってくれる。今日は、今日一日の苦しみで、もう十分である。」(『新約聖書』p.94)
これはイエスが語った言葉に著者が多少の脚色を付け加えたのではないだろうか。福音書を注意深く読むと、イエスの言動に、人生を重荷としたり、生きることを罪と考えたりする考え方はないように思う。すこぶる肯定的・楽天的にとらえているように思えてならない。イエスなら「今日は、今日一日の楽しみで、もう十分である」と言ったのではないかと私は思う。