だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

私を世界の中に解消する(1)

2008-09-11 23:51:51 | Weblog

 「『わたしには子がいる。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む。しかし、すでに自分が自分のものではない。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか。」 (中村元訳『ブッダの真理の言葉・感興のことば』岩波文庫)

 私が学生の頃、「アイデンティティ」という言葉がはやった。自分とは何者か、という問いが私個人としても切実なテーマとしてふりかかってきた時期である。少し前のはやり言葉で言えば「自分さがし」であろうか。最近では大学生はリクルートが敷いた就職活動のレールの上で、いやおうなくつきつけられる。「あなたが本当にやりたいことはなんでしょう?」それがわからないとうまく就活ができないと言われてしまうと、おろおろと悩むしかない。そういうときには「ナンバーワンでなくともオンリーワン」というような歌の歌詞が心に響く。
 個性的に生きろ、と言われる。あなたのオリジナリティはどこにあるのか、と問われる。自立しなくては、一人前になりたい、と切実に思う。
 
 ワカモノは一人前にならなければならない。それはいつの時代でもそうだ。しかしながら、その意味するところは時代とともに変わる。宮本常一の著作を読んでいると、かつての村の中で一人前になるということは、端的に言って、一日のうちにある定められた量の仕事ができるようになるということであった。田起し、田植え、草刈り、稲刈り、土木仕事、山仕事、などである。というのは、かつては村落ではこれらの仕事を共同作業や結(ゆい)で行っていた。共同作業の場合は、一世帯に一人がでてきて仕事をするのに、一日にこなす仕事の量がばらばらでは不公平となる。また、結とは労働の貸し借りである。隣家に助けてもらうときにはたくさん働いてもらい、返すときには少ししか働けないとすれば、結という制度そのものが成り立たない。
 ここでは一人前になるとはオンリーワンになることではない。逆に皆と同じになる、ということである。

 新井喜美夫氏は『転進・瀬島龍三の「遺言」』(講談社2008年)の中で、明治維新がワカモノたちに立身出世という夢を与えたとしている。長州藩の高杉晋作が組織した奇兵隊が、武士でなくとも兵士となって戦場で功をを挙げ、出世することのできる道筋をひらいた。明治になると、軍隊に入ってそこで昇進することが誰にもひらかれた立身出世のコースとなった。「ふるさと」という童謡は立身出世をはたして「いつの日にかかえらん」という志を歌ったものだという。

 昭和の戦争によって軍隊そのものが消滅した後、高度経済成長期になると、会社の中での昇進が立身出世の夢をひきついだ。大企業に入りさえすれば、誰もがそれなりに昇進して郊外に一戸建てのマイホームを建てて「社会的成功」を享受できた時代である。

 そして平成の時代。企業の終身雇用・年功序列の制度が崩壊した中で、身近なところにモデルとなるオトナの背中は見えない。見えるとすればメディアの中の「成功者」の姿である。ミュージシャン、タレント、スポーツ選手、さらにはベンチャー企業の若手経営者、コンサルタント、はては占い師。彼らをモデルに、ワカモノたちは「個性的」に生きることを強いられているのではないだろうか。そして悩む。自分が本当にやりたいことは何だろう。

 そこには、自分が望み努力するならばなんでも実現できる、ということが前提となっている。実現できたとしたらそれは自分の力であるし、実現できなければ自分に力がなかった、努力が足りなかった、ということになる。

 本当にそうだろうか?

 他人と違う自分を証明するために、私たちはたいへんな努力をし、その結果いろんなことを成し遂げる。人間の力は本当に偉大だ。本当に思いもよらないことを成し遂げることができる。成長型社会の進歩の原動力はそこにあったのではないだろうか。
 しかしながら一方では、そのことが人間の際限のない欲望を開放し、その結果として持続不可能な現在の世界を作りだしたのではないだろうか。

 自分が努力してなにかを成し遂げた時、それは自分の力によるのだろうか。自分の力ももちろんあるけれども、その前提として、私たちは40億年の生命の進化の成果として、さまざまなことができるようになる潜在的な力を授けられて、この世に生まれて来ているのである。その力に比べれば、自分がつけくわえたものなど、無視できるほどほんのわずかなものだろう。ささやかながらでも何かを成し遂げることができたのは、そもそも生命の進化の最先端としての人間として、たまたまこの時期の地球に生まれてきたことによると考えるべきではないだろうか。

 「自分が身も心も十分開いてその場に在ることができれば、自らが風通しのいい道具となって、直観が冴え、最も自然でその場にふさわしいファシリテーションが展開していくだろう。自分が『する』というよりも、『自分を通して起こる』という感覚かもしれない。」(中野民夫『ファシリテーション革命』岩波アクティブ新書2003年)

 学者というのは言葉が商売道具である。最近、いろんな場面で、とっさにコメントをもとめられることがある。事前に十分に準備をしたプレゼンテーションならいざしらず、まったく準備なしに、何を言えばよいかまとまらずに、でも発言しなくてはいけないという時、とにかくしゃべりはじめると不思議と言葉がでてきて、終わってみればそれなりにスジの通った話をしていて自分でもびっくりすることがある。その言葉は私が語った言葉とは思えない。なにか大きな力が私の口を借りてしゃべったのだという感覚になる。そしてそういう時は、なんともいえない安心感に満たされる。

 ワカモノよ、一人前になりなさい。自分の力でなにかができるようになりなさい。しかしそれはオトナになるためのイニシエーションであり、出発点にすぎない。そして一人前になったら、次は「自分を通して起こる」媒体になりなさい。それには「自分がやるんだ、自分にはできるんだ」と力んでいては不可能だ。自分はすでに自分のものではない。心も身体もリラックスさせて、宇宙を渡る風に身を任せなさい。
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1 コメント

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ほっとしました (to-fu)
2008-09-12 17:59:27
まだ半人前でもまかり通ってしまう環境に甘えてしまってはいけないと、妙な焦りを感じていました。

「まだ半人前だなぁ」

と言われれば悔しさが

「もう一人前だね」

といわれれば不安がこみ上げてきて、一人前ってなんだよ!ってもやもやすることが多々あります。

でもいつか、こんな風に思うことが減っていって、いつかふと、
「あぁ、自分も成長したなぁ」
と気づくときがおとずれると信じて。

明後日にひとつイベントがあったのですが、肩の力を抜いて迎えられそうです☆
あ~。読んでよかった(笑
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