循環型社会、というのも悩ましい概念である。容器包装リサイクル法、家電リサイクル法、自動車リサイクル法、食品リサイクル法・・と矢継ぎ早に循環型社会を現実化する法律ができて、社会的な体制が整いつつある。ではこれらが整えば持続可能な社会ができるか?というと、悩ましい。今向かっているのは持続不可能な循環型社会ではないかという疑問がある。
ペットボトルが登場したとき、こんな便利なものができたかと感心したものである。野外に行くときに、水筒を持って行かなくてよい。一気に飲まなくてもキャップをしめて持ち歩ける。そしてそのリサイクルがはじまったとき、それはよいことだと思った。当然、それはペットボトルをつくるための原料である石油を節約することにつながるだろうと思った。
ところが少し勉強してみると、ペットボトルはリサイクルされてペットボトルになるわけではないことがわかった。私たちは古紙回収や牛乳瓶やビール瓶の回収と再利用のしくみをよく経験しているので、リサイクルと言えばもとのものに戻るものだという先入観がある。ところが近年成立した各種法律でいわれているリサイクルとはむしろもとに戻らないプロセスに与えられた名前と思った方がよい。
ペットボトルは回収後、ラベル等をはがし、きりきざみ、溶融してペレットにするという工程をへて原料となり、それはシートや繊維にして作業服などになっていく。とすれば、ペットボトルのリサイクルをどれほどやってもペットボトルの原料の節約には一切ならない。ここで一般市民とすれば、なんだかだまされたような気分になる。
シートとか作業服の原料の節約にはなるかもしれないが、それらはリサイクルがはじまってから登場した製品がほとんどであり、それまで消費していたものを節約したというよりは、新たな石油の用途を開発したと言った方がよいかもしれない。しかも原油から石油コンビナートで直接生産するのと、いったんペットボトルとして社会に散らばったものを回収して原料に加工するのと、どちらが石油の節約か、というと微妙なところになる。ペットボトルの回収には、少々つぶしたところでたいしてカサのへらないものをトラックで石油を使って運ぶというとても効率の悪いプロセスをへなければいけない。もちろん、リサイクルを推進する立場からはリサイクルした方が節約になるというデータがでているが、そういうデータは常に論争のまとになり、しかも検証不可能な場合が多い。
さらに疑問に思えたのは、ペットボトルが登場した歴史を知ってからだ。これはそもそも燃やしても有害な物質がでないし、温度が上がりすぎず焼却炉をいためない容器として開発されたものである。焼却処分されることを前提にした材料というわけだ。また飲料業界では1リットル入りのものを売り出した後も、現在主流となっている500ml入りの製品を売り出さないよう自主規制していた。これはぽいすてされる可能性が高いという理由からである。その自主規制が1996年になくなり爆発的に普及し始めたのと、リサイクルがはじまったのは軌を一にしている。ペットボトルメーカーと飲料の業界団体によってPETボトルリサイクル推進協議会が設立されたのが1993年。リサイクルされるから、という理由で普及がはじまったと言えなくもない。
さらに疑問を決定づけるのはペットボトルの生産量と回収量のデータである。これをみると、自主規制がなくなった96年以降爆発的に生産量が増大し、一方リサイクル率も向上しているが、せいぜい60%で頭打ちである。ということは40%はごみになっており、大量にごみを増やした結果となっている。飲料業界が心配していたとおりの現実はちょっと大きな道路の交差点近くの草むらをみればよくわかる。車からぽいすてされたペットボトルが散乱している光景は日本全国津津浦々で観察できる。
さらに、ペットボトルが登場したことで、水筒を持ち歩くという生活習慣が失われた。リターナブル容器の仕組みもなりたちがたくなった(例えば醤油はその典型。ほとんどペットボトル入りになり一升瓶は姿を消した)。リサイクルの制度が整ったことで、というと言い過ぎかもしれないが、それと軌を一にしてむしろ使い捨て文化を強化したと言えるだろう。
このように使い捨て文化の中でリサイクルをしても持続可能な社会には近づかないと私は思う。持続可能な社会に近づくリサイクルとは(1)もとのものに戻ること(2)使い捨て文化を強める方向ではなく、いいもの大事なものを長く大切に味わってつかうことにつながること、という二つの条件があるようだ。この基準からすると、世の中で普及しはじめたリサイクルのほとんどは適合しないように見える。
仮にこの二つの条件が満たされたとしても、リサイクルの際、その回収率は100%には絶対にできない。仮に99%が回収されるとしても(今の技術や社会制度ではありえないレベルだが)、100回転はできないのである。回数を経る毎に消耗していき、最後にはなくなってしまう。できるだけ長く使おうとすれば、一回転の時間を長くするほかはない。つまり大事に長く使おうということである。リサイクルが切り札なのではなく、大事に長く愛着をもって使うことが重要だ。
ところで、ペットボトルのリサイクルについては最近事情が変わってきた。回収された使用済みペットボトルが高値で中国に輸出されるようになった。そのおかげで、国内の再生事業向けに材料が回らなくなって国内のリサイクル基盤が危機的状況にあるという(PETボトルリサイクル推進協議会から市町村長へのお願い)。なにごとも一筋縄ではいかないのが環境問題である。最終的にどこに向かって当面の一歩を踏み出すのか、しっかりと見定めなければ当面の状況の変化によって右往左往してしまうことになるのではなかろうか。
ブログ拝見しております。
市民レベルでの認識(リサイクル=環境や地球にやさしい)と真の意味での持続型の生活とは常にズレがあるようですね。このズレを解消するのは本当に難しいものであると思います。
経済のしくみを整え、市民社会全体の成熟も必要でしょう。
とにかく、たくさんのアイデアが必要ですね。
>リサイクルした方が節約になるというデータがでて
>いるが、そういうデータは常に論争のまとになり、
>しかも検証不可能な場合が多い。
では「正しいデータ」はどこに行けばあるのだろか?自分達で出すことはできるのだろうか?
リターナルも常に使い捨てよりも環境負荷が小さく良いといえるのだろうか?ボトルの中身が醤油かお茶かで戦略は変えるべきなのか?などなど。
中立的立場からのデータ評価も必要ですね。
また、もちろんリターナブルが無条件によいということはないと思います。ペットボトルもワンスルーで燃やして電気でも作ったほうがよいかもしれません。このあたりは、ある程度データが不確かなことを前提に、その地域の住民や企業の意向で(=責任で)やり方を決めるというのがよいのでしょう。そうすればおのずとデータも確かになっていくかと。おかみが全国一律こうやりなさい、というのは、結局誰も責任をとらないで、くさいものにはふたをしてものごとが進んでいってしまうと思います。