だいずせんせいの持続性学入門

自立した持続可能な地域社会をつくるための対話の広場

林勝和尚との対話(1)

2015-03-23 21:51:36 | Weblog

  先日、たまたま岐阜県梨本村にある林勝寺という禅宗のお寺の住職と知り合いになり、いろいろお話したところ、とてもインスピレーションのわく対話だったので、多少脚色を加えつつ再現してみる。和尚はまだ40台半ば、サラリーマンをしていたのだが、脱サラして修行をして住職の資格をとり、無住になっていた山寺に入って住職となったというおもしろい経歴である。脱サラのタイミングで離婚もされ、今は一人で寺に住み、田んぼと畑をやりながらの半農半仏生活である。

私:私は仏教に興味があっていろいろ本を読んだりして勉強してきましたが、どうも腑に落ちないことがあります。人生にいろいろ苦しみがありますが、これは煩悩というか、欲望があるせいである。これはそのとおりと思います。でもその解決策として、欲望を消してしまえばよい、というのはある意味では自明ですが、それでは元も子もないというか、それができないからこそみんな苦しむわけで、なんら解決策になっていないのではないかと思うのです。ブッダも、おそらく欲望を消そうとして、激しい苦行を行ったのだと思うのですが、結局、ブッダはそのような修行は何の役にもたたなかったと否定しているわけですよね。

和尚:おっと、いきなり本質的な話ですね。どこからいきましょうか・・・あなたの欲望というのは例えばどういうものなのですか。たくさんお金をかせぐとか、大きな家に住みたいとか、そういうことではないようにお見受けしますが。

私:そう聞かれると、一言では答えられないですね・・・やっぱりいい仕事をしたいということでしょうか。

和尚:今はお仕事ではどのようなことをされているのですか。

私:大学の中に臨床環境学コンサルティングファームというコンサル部門をつくって、持続可能な地域づくりに取り組む自治体とか企業とか市民団体とかの相談にのって、地域づくりを学問的に支援するようなことをしています。

和尚:それは大切なお仕事ですね。やりがいを感じておられるのですね。

私:はい。これまで大学や学問が持続可能な地域をつくるという点では、あまり役にたたなかった。それでも学問的な知識や方法論の蓄積は必ず役に立てるだろうと思ってやっています。

和尚:あなたがいい仕事というときの「いい」というのはどういうことなのでしょうか。

私:やる意味がある、それが多くの人に理解される、ということだと思います。どこの世界でも同じだと思いますが、大学の仕事の中にはやる意味がわからないことがたくさんあって辟易します。

和尚:なるほど。ではそういう新しい試みをやることにはどんな意味があるのですか。

私:そうですね、大学が社会に貢献するということでしょうか。

和尚:なるほど。では大学が社会に貢献するということにはどういう意味があるのですか。

私:うーん、持続可能な社会をつくるための一助となるということでしょうか。

和尚:では、持続可能な社会をつくるというのはどういう意味があるのですか?

私:みんなが将来にわたって安心して幸せに生きることができるようにするということですね。

和尚:なるほど。では、そのためにあなたが努力するということにはどういう意味があるのでしょうか。

私:うーん、生きている証というか、自己実現というか、そういうことでしょうか。

和尚:ではあなたがそのように自己実現することにどういう意味があるのでしょうか。

私:充実した人生を送り、死ぬときには後悔のないようにしたいということでしょうか。

和尚:死ぬときに後悔のないようにしたいということにはどういう意味があるのでしょうか。死んでしまえば死ぬ前のことがどうであっても意味がないのではないですか?

私:・・・

和尚:あなたはいい仕事をしたいという欲望があり、その「いい」ということは、何か意味があることだ、ということでしたよね。

私:はい

和尚:でもその本当の意味は何かとさかのぼってみると・・・

私:最後は意味がよくわからなくなってきますね。

和尚:ということは、そもそもどんなにいいことでも、すごく意味があるように見えることでも、実は少なくともあなたにとっては意味がないということではないでしょうか。

私:確かに最後は死ぬわけですからね。でもそれだと、何をやってもむだということになりませんか。何かをいっしょうけんめいやるという気になりません。

和尚:もう一度同じことを別の言い方で言いますね。あなたは今のお仕事にいっしょうけんめいに取り組んでおられる。

私:はい

和尚:でもそのことの意味を考えると、よくわからない。つまり意味がわからないことをいっしょうけんめいやっているということですね。

私:・・・

和尚:私は毎日薪を割って、薪風呂をたいてはいります。これにどんな意味があるでしょうか。意味はありませんね。ただ一日を暮らしているだけです。でもいっしょうけんめい薪を割ったり、火をつけたりしなければ風呂に入れません。私は毎日いっしょうけんめい風呂だきをやっています。

私・・・

和尚:つまり、いっしょうけんめいやるということと、意味があるかないかは別問題ということではないでしょうか。意味があるからいっしょうけんめいやる、意味がないからやらない、ということではないようですね。

私:そうかもしれません。

和尚:私の理解では、仏の教えというのは、あらゆる意味がありそうなものには、実は意味がないということです。何かあることに意味があるとしたら、そこからはずれるものには意味がないということになります。あることを肯定してあることを否定することになります。それは世界の認識としてまちがっています。世界はすべて「ある」のですから、それをそのままに受け止める、受け入れることが必要です。つまり肯定も否定もしてはならない。評価してはいけないのです。なぜならすべてのものに意味がないのだから。

私:なるほど、そういう考えかたもできますね。

和尚:仏教は欲望を消すことによって苦しみを消しなさいと言っているわけではありません。そもそも欲望というのは、あるものを手に入れたり実現したりすることに、本当は意味がないにもかかわらず、意味があると思いちがいをしているということなのです。それこそ意味がないからやめよう、と言っているわけです。

私:それで苦しみもなくなるのでしょうか?

和尚:欲望が思いちがいなら、苦しみも思いちがいです。苦しみというのも、本当はそういうものはないことを、あるように思いちがいをしているにすぎない。

私:でも、欲望が私たちの行動の原動力というか動機をもたらしていると思うのです。それがなくなってしまったら、私たちは無気力になってしまうのではないでしょうか。

和尚:意味がないことをいっしょうけんめいやる。これが修行です。すべてのものに意味がないのですから、すべてのことをいっしょうけんめいやればよいのです。仏教はこれを僧職にある人間だけでなく、仏を信じるものすべてに求めます。私が薪を割って毎日薪風呂をたいているのは、私の修行です。あなたもご自身のお仕事をいっしょうけんめいやればよろしい。それは意味があるからやるのではなく、それがあなたにとっての修行だからです。そう思って日々をすごすなら、別にお寺の檀家でなくても、それだけであなたは仏教徒であり、悟りへの道の途上にいるというわけです。

私:なるほど。まだうまく消化できませんが、なんだか気持ちがすっきりしてきました。意味があるからやるということでは、意味がわからなくなったら続かなくなりますね。こういう意味があると思ってやってみたら、そうでもなかった、ということはよくあります。そういうときに逆にモチベーションが下がってしまいますね。意味があろうがなかろうが、なにごとも修行と思っていっしょうけんめいやればいいのですね。そう思ってやってみたくなりました。

和尚:ぜひ心がけてみてください。

 


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1 コメント

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梨本村 (小島喜子)
2015-04-11 22:41:28
梨本村というのは、実在の村ですか?
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