高校での必修単位未履修の問題が発覚して大騒ぎになっている。
まず前提として、文部科学省が一方的にさだめる学習指導要領に全国一律にしばられなければならないというのは、そもそもおかしいと思う。役所の職員は国民が選んだわけではない。その人たちに学校のカリキュラムのほとんど一切を決められてよいのだろうか。やはり教育委員会の機能を再生させてそこがガイドラインを定め、最終的には現場の教師集団が責任をもってカリキュラムを編成するべきだろう。
もちろん今回の問題の本質は、現場の教師集団が高い教育理念を持ってあえて学習指導要領を踏み外したわけではなく、受験に必要な教科に時間を割くために必要でない教科を削ったにすぎないというところにある。
この騒動を聞いて忽然と思い出したのが私の高校時代の不満だった。私は必修単位は履修したと思うが、やはり選択の範囲はせばまれていた。確か高校2年から理系か文系かに分かれたと思う。理系コースに進むと卒業するまで日本史の授業がなかった。確かに受験で日本史を選択することはしないだろう。しかし日本人が自分の国の歴史を知らなくてどうする、と思った。それで先生にくってかかった覚えがある。
次に思い出したのが、何年か前、学生が教育実習に行った先に挨拶まわりをする役目を仰せつかった時のことだ。教育実習生が行う高校の物理の授業を見学した。「先生」は黒板に例題を解いて見せていた。次に生徒に問題をやらせる。以上終わり。えっ?物理はどこにいったの?と思った。物理とは自然現象の観察とそこから法則性を導き出すことにある、というのが大学で学ぶ物理学である。観察や考察はいっさいなく、淡々と解説→例題→演習と続く。そういえば自分が高校で習った物理もそうだったなと苦笑いした。私はそういうのに満足できずに大学の教養課程レベルの教科書を買って来て一人でしこしこ読んでいたものだ。わからないところを先生に聞いても「そんなこと今わからなくてもいい」と答えてもらえなかった。
そういえば試験に合格するための勉強というのはそういうものだ。大学の先生になってもう試験を受けることはないだろうとほっとしていたら、2度ほどあった。ひとつは運転免許をとるときの学科試験。もうひとつは業務上必要に迫られてとったX線作業主任者という国家資格の試験。確かに教科書を読む→例題を読む→問題を解くというパターンでたくさん問題を解いて本番の試験では一度は見た問題ですぐに答えがわかる、解き方がわかる、という状態になってはじめて合格できる。そして合格したとたん、ほとんど忘れる。
受験生を引き受ける大学の教員としては、高校でそんな勉強しかしないで来たのではたいへん迷惑というか心許ない。一方、高校の側から見れば大学の入学試験が悪い、ということになるだろう。大学全入時代といっても、むしろだからこそ、大学の「銘柄」競争は激しくなる。これもたいへん迷惑なのだが、大学の実態とはかけはなれた「偏差値」の序列をつけられて、よりランクの高い大学に入ろうと思えばより試験の点数が高くなくてはならない(同義反復だ)。
大学の側から言えば、入試という制度はどうやったって欠陥がある。それで学生の本当の資質を見ることはできず、ごく限られた能力を測っているにすぎない、と自覚しながらやっている。ただ公平性を保証するとか、大量に受験する学生に現実的に対応するためとか、そういうのに縛られて現在のような形の入試を行わざるを得ないのだ。
実は試験で高い点数をとるやり方は二通りある。一つは確かに試験勉強作業方式を究極まで追求すれば高い点数をとれるだろう。大学入試といえども当たり前だが学習指導要領にしばられている。問題を作成できる領域は限られているのだ。有限の領域で毎年無数の大学が入試問題を作っていれば、おのずと問題の数は限られている。パターン化されるのはさけられない。それを総なめするような作業をやればよい。
この作業は個人的なものである。友人と協力しようがない。教師と生徒の関係は1対1×生徒数となって非常にたいへんである。授業を進める際に「平均的な生徒がついていける」水準でやろうと思えば、言葉の定義によって、半数の生徒はついてこれない。ついてこれない生徒に授業時間以外で1対1で個別に対応していてはきりがない。生徒は不満と不安を募らせ、先生はへとへとになる。
そのような作業は学力をつけるという観点ではきわめて非効率である。学力というのは学んだ結果ついた力ということもさることながら、大学の側が期待するのはむしろ学ぶ力だ。つまり何にでも興味や疑問をもつ旺盛な好奇心と、疑問を自力でそして隣人と対話しながら追求し解決する力だ。これらは試験勉強作業では身に付かない。
自然に対しても人間社会に対してもさまざまな観察を行い、疑問を感じ、データをとり、それを分析し考察する、という体験が少しでもあれば学ぶ力はぐっと身につく。そしてこれは友人との協力が有効だ。仕事を分担し、それをつきあわせ、疑問を出し合い、議論する。わからないことは先にわかった生徒が先生となって教えあう。人間は人に教えることによってもっともよく学ぶ。こうなると教師と生徒との関係は1対生徒集団となってずいぶん楽になる。
もちろんそこにはよく練られたカリキュラム・プログラムと適切な指導が必要だ。そんな余裕はない、と現場の先生方はおっしゃるかもしれない。しかし余裕がないのは1対1×生徒数という非効率なやり方をしているからではないか、と一度は振り返ってみてもよいことではないだろうか。そのようなプログラムを確立するにはたいへんな開発への努力と時間が必要だろう。しかしいったんできてしまえば、生徒たちの学ぶ力はのびる。そうすると、試験でいい点数をとるのは、試験前に少し作業をやればOKということになる。遠回りだが近道なのだ。
現にこういうやり方をして学ぶ力も伸びれば試験の成績もあがる、という実践例もたくさんあるだろう。私が興味深く話を聞いたのは岐阜県の高校で教師をされている浦崎太郎氏の実践だ。グループ学習や自主学習をとりいれた授業を受けた生徒は目の色が変わるし、試験の成績でも結果が数字ででているという。現時点でははやく気がついて方向転換したもの勝ちの状況である。
大学の教員としては、学ぶ力をつけて試験の点も高いという学生に来て欲しい。ところが入試では学ぶ力はないが作業をたくさんやって試験の点が高い、という学生を見分けることは不可能だ。そういう限界を自覚しながら入試をやっている。なので学ぶ力の弱い学生にも入学後にその力をつけてもらうようさまざまな工夫をしている。大学の都合ではなく、学生ひとりひとりの幸せと社会全体の幸せのために、高校で学ぶ力をつける生徒が増えていって欲しいと切に願う。
>なので学ぶ力の弱い学生にも入学後にその力を
>つけてもらうようさまざまな工夫をしている。
これが重要ですよね。知識+それを生かす力の双方がないと、厳しい社会を生き残っていけません。大学といわず、高校でそのことをきちっと教えればいいのですが。。。
しかし正直言って、高校教員の不手際が多すぎます。いじめの件も含めて、やりすぎましたね。今回の教育改革では、相当縛られるのではないかと思います。(偶然かどうか別として)タイミングが悪すぎで、もはや止むをえません。
あと、だいず先生は安心ですが、他の大学の先生達がちゃんとした教育がなされているかどうか、正直不安でもあります。これも不手際がすぎると改革の槍玉にあがることでしょう…
勝手なことを申しました。では。
大学でも学生の「学力低下」が指摘されて久しく、従来の授業がなりたたないということと、「外圧」もあり、大学での教育レベルを上げる(学生の現実の姿にちゃんと対応する)ということはかなり意識されてきました。ですが、もちろんその取り組みは始まったばかりで、まだまだこれからです。うまく教育レベルアップができた大学は学生の人気も出て生き残り、できなかった大学はつぶれていくでしょう(国立でもね)。大学でもはやく方向転換したものが勝つという状況だと思います。