高知県宿毛(すくも)市を訪問。学生の頃以来30年ぶりの高知である。今回は、宿毛市片島(かたしま)出身でかつて名古屋大学で同僚として一緒に働いた山下博美先生のご縁で、地域づくりについて市役所や地域の皆さんと意見交換を行った。
宿毛市は四国の南西の端、足摺岬の根元にある。松田川の源流域から河口までの一つの川の流域圏がそのまま市域となっている。市街地は河口近くの低地の氾濫原にある。その先、河口の干潟の延長にあった島が片島と大島である。市街地から片島までをつなぐ干潟はかつては野鳥の宝庫だったとのこと。残念ながら1970年代に埋め立てられ、今は工場や住宅地となっている。
片島の港を歩いてみると、小高い山が海に迫り、岩場があったり浅瀬があったりと変化に富んだ美しい景観である。狭い路地に入るとお店が軒を連ねる港町の風情だ。かつての賑わいが想像できる。港の道端にたくさんの自家用車が駐車している。関西方面など遠くからの車もある。聞くと、ここは磯釣りのメッカで、釣り客はここに車をとめて磯の釣場に向かう連絡船に乗って釣りに行っているとのこと。また漁船が水揚げする水産加工場の界隈は早朝に賑やかだという。近海物はもちろん、ハマチや鯛などの養殖が盛んらしい。
しかし今は町の通りを昼間に歩く人はいない。商店街のほとんどは空き家・空き店舗となっていて、ゴーストタウンのような一角もある。港には廃船が傾いたまま係留されている。九州行きフェリーの発着場には錆の目立つ船体が埠頭に繋がれたままだ。最近運行会社が倒産したという。
片島は江戸時代まで製塩が行われていたが人は住んでいなかったという。明治に入り、宿毛出身で自由民権運動家として活躍し明治政府の閣僚にもなった林有造が片島を港として開発することを思いつき、明治20年に片島と市街地をつなぐ道路を作り、明治24年に宿毛汽船株式会社を設立して片島と高知との間の定期船を運行した。それ以来、片島は港町として発展した。大正9年から昭和の敗戦までは海軍の軍港となった。その際には軍艦に積む物資や乗組員向けの商店さらには遊郭まであり、町は大いに賑わったという。川で運ばれた木材を製材して船で出荷するということで製材業や炭づくりも盛んだったという。
戦後もその賑わいは続いたものの、海運からトラック輸送に移行する時代の流れの中で、町はしだいに衰退していった。1980年に約2,000人いた人口は減り続け現在は約1,300人。私が人口動態を分析した結果では、出生率が低く、また10代後半の若者は町を出て行き帰ってこない。このまま行けば2030年ごろにはおそらく小学校は維持できなくなり、2050年には子どもがほぼいなくなる。典型的な「過疎」の町である。商店街が空き店舗だらけになったのは、その結果でもあり原因でもある。何もしなければ町全体がゴーストタウンになるだろう。
さて、この現状からのまちづくりである。山下さんらは同じUターンの仲間や地元の友人たちに声をかけて、片島の将来を考える場づくりを始めた。地域交流と発見活動を促す「かたしまーず」という自主グループを立ち上げ、地域の様々な情報を取材し地域の人に向けて発信している。2017年に第1回片島ものがたり交流会を開催。古いアルバムを見ながら年配者が町の昔の姿を話せばそれを若い世代が受け止める。それから毎月「かたしま〜ずにゅ〜す」を発行、地道な活動を続けた。
また、2018年には自治会連合である片島区の承認を受けて「片島・海まちづくり検討委員会」が設立され、若い世代を中心にこれからのまちづくりを考えている。今年2月にはまちづくりのイメージをまとめた。「うみと・ひと・みらいがつながる・みなとまち」を標語として「自然の恵みを日々感じ、味わえるみなとまち」、「海を楽しむ憩いの場や集客の場があるまち」、「住民のあったかいつながりが感じられるまち」、「子どもたちに『ふるさと』と『思い出』をつくるまち」、「まちの魅力が増す減災・防災活動がすすむまち」、「外とつながり、まちづくりの担い手が育つまち」という将来像である。よく練られて地に足が付いている感じがする魅力的なイメージである。
これらはたいへん地道な活動であるが、地域の中で地域の将来を考え始めることがとても大事である。自分たちが動き始めれば、周りがじわじわと動き始める。最近ではUターンで帰ってきて家や店舗を改修して新しいお店を出す人もポツポツ出てきたという。空き家を民泊として活用し、外国人旅行客が来るようになったという話も聞いた。
Uターン者主体の取り組みは地域づくりの王道とも言える。うらやましい話だ。一方、片島にはまだIターンで移住してきた人はほとんどいないという。
宿毛市役所としては移住定住推進室をおいて移住者の受け入れを積極的に進めている。市全体で年間50組程度の移住があるという。今のところIターン者は主に山間部に移住しているようだ。Iターン希望者の中には海のそばで暮らしたいという人もいると思う。これからそういう人を受け止め、受け入れる活動が必要だと思う。
空き店舗を利用した小粒でおしゃれなカフェやショップが何軒かできれば町の雰囲気が変わるだろう。これらをまちぐるみでプロデュースし支援する。参考になる事例としては、徳島県神山町の空き店舗への出店者を「逆指名」する取り組み。空き店舗への出店を、リノベーションから経営計画づくりまで総合的に支援する名古屋市の円頓寺商店街の取り組み。海の魅力を活用するとしたら、三重県鳥羽市の海島遊民くらぶの体験型ツーリズムも参考になる。通りを歩いてそうした新しい動きが目に見えるようになれば、あとは自然に若い人が寄ってきて新しい賑わいが生まれてくるものと思う。そこまでもうしばらく、粘り強く地域の中で話し合いを進めることが必要だ。
片島・海まちづくり検討委員会では、「片島の心配ごと」もまとめている。なんといっても東南海地震とそれに伴う津波の襲来が予想されている地である。震災で犠牲者を一人も出さないよう備えることが第一の課題だ。避難経路の確保、避難体制づくり、避難訓練など、減災に向けた取り組みをまずは考えなくてはならない。
さらには津波で被害を受けたまちをどう復興させるのかという、震災後を見据えた視点が必要だ。空き家の改修・活用を進めていった先に、それらが津波に流されるかもしれないとしたら、これはなかなか難しい課題である。しかしながらどう考えてもゴーストタウンが被災しても復興されるはずがない。復興資金を積み立てておくとか、特別な震災保険を保険会社に作ってもらうとか、ここは知恵をしぼって、復興されるに値するまちを今から作っていくことが必要だろう。
減災の一つの取り組みとして、県は片島を取り囲む防波堤の嵩上げを計画しているという。ただし、津波を防ぐ防潮堤として役に立つ高さではない。それでいて大人の目線からも海が見えなくなってしまう高さになるという。それはいかにももったいない話だと私は思う。片島の魅力はなんといっても美しく豊かな海にあるのだから、それが見えなくなるのはせっかくの魅力を失わせてしまうことになる。海の見えないみなとまちに地元出身の若者が帰ってきたり、外から移住者が来るだろうか。地震がおきた時に高い堤防で守られているのはゴーストタウンだったということになりかねない。繰り返しになるが、ゴーストタウンなら高い堤防で守る必要はないのである。
持続可能な地域とは、美しい地域のこと。片島の美しさとは何か。住民一人一人の心の中ではもう答えは出ているのではないだろうか。今はそれをみんなで確認する作業が求められているのだろうと思う。
かたしま〜ず
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