今回はご縁があって、都市のフィールドワークを行った。名古屋市中村区大門。ここは大正時代に遊郭(中村遊郭)が置かれた場所だ。昭和の10年代に最盛期を迎え、たいそう賑わった。太平洋戦争の空襲で一部は焼けたが、残った建物もあったようだ。終戦後の1949年の空中写真を見ると、街区は碁盤の目になっていて、その外縁は周囲の街とは45度に交差する道路で区分けされていて、一見して周囲から切り離された特別な街であることがわかる。特徴的な中庭のあるロの字型の建物が街区に隙間なく並んでいるようすがわかる。売春防止法が施行される1958年までが戦後の最盛期だった。
街を歩くと、往時を偲ぶ大きな木造2階建ての建物が目を引く。今でもソープランドとして営業しているものもある。通りに面した側はケバケバしたイルミネーションが光っているが、裏から見ると古い大きな木造の建物だ。
売春防止法施行以降、旅館や飲食店に転業したものも多かったというが、その多くはすでに廃業している。飲食店が並んでいる街の一角にポッカリ「穴」があいている。大門小路と呼ばれるところで、そこに入るとトンネルのような通路の両側に小さな飲食店が寄せ合うように並んでいる。ただ多くは廃業していて、魔窟のような怪しげな雰囲気だ。
古い遊郭の建物は次々に取り壊された。現在その風情を通りからうかがうことのできるのは、高齢者向けのディサービスを行う施設になっているものとお蕎麦屋さん。蕎麦屋に入ると正面に端正に整えられた中庭がある。それを囲うように座敷があった。空き家になっているものはひどく傷んでいるのが外からもわかった。
遊郭の建物跡地は更地になって、今はマンションや一戸建ての住宅になっている。遊郭の街は、今では単身用マンションに住む若い男性や、一戸建てに住む小さな子どもがいるファミリーの街になった。
この街で老舗の呉服屋を営むご主人にお話を聞いたところ、まちづくりの方向性として、これまでは遊郭の独特な街の雰囲気を活かして外から人を呼ぶ観光の街にすれば良いのではないかと思っていたが、今は考えが変わったという。遊郭の建物を維持するのは多額の経費がかかり、オーナーは維持できない。一方、マンションや住宅用地として土地の値段が上がっており、オーナーは建物を壊して土地を売ることになる。その趨勢は止められない。また、オーナーは遊郭という負の歴史を残したくないという思いもある。「遊郭の街」で売り出すというのはいかにも無理がある。呉服屋のご主人は、今では古くから住む住民だけでなく、新しく引っ越してきた若い人たちにとっても住みやすい街にするのが良いと思うとのことだった。
この街では地域のコミュニティが活きているとのこと。確かに通りで立ち話している人の姿を何組か見かけた。普通の街では見ない光景だ。2年に一度開かれる地区の運動会は、誰でも参加でき大いに盛り上がるという。リレーにはお母さんたちがチームを作り、練習までして出場するそうだ。娘さんが旦那と子どもを連れて実家に帰って来る「娘ターン」が多いという。田舎でも「娘ターン」した若いお母さんたちが地域づくりに活躍している姿があるのと同様だ。
通りを歩くと倒れそうな空き店舗が目につくが、その中に新しい風も入りつつある。木工のDIYシェア工房が新しくできていた。中に入って話を聞くと、30代くらいの男性二人でやっていた。古い子ども服の店のビルを買い取って、1階を木工の機械を並べて工房にした。材料のストックもあり、そこで相談しながら自分が作りたいものを作ることができる。口コミやメディアの報道で見たという女性のお客さんが多いという。ここに店を構えるにあたっては、先の呉服屋のご主人を紹介してもらったという。呉服屋のご主人は、素敵な若者たちだからということで、近所の人たちとの繋ぎ役をかって出てくれた。このあたりは田舎のIターンを受け入れる場合と同様だ。
戦後すぐから営業を続けている喫茶店に入った。90歳を超えているだろうおばあさんが一人でやっている。かくしゃくとしてテキパキとコーヒーをいれてくれた。昔はとても賑わった街だったという。お客にはヤクザの親分も来れば、警察の私服警官も来たという。その賑わいのようすを話すおばあさんの目は遠くを見ているような感じだった。
今でも営業を続けているストリップ劇場の斜め前には中村観音がある。中を覗くと大きな観音像が祀られていた。身寄りのない娼妓が亡くなった時にそのお骨を祀ったという。
多くの女性たちの悲しい物語とそれがもたらした賑やかさ。その歴史が幕を閉じつつ、新しい街に生まれ変わろうとしている。これからこの街特有の深みのあるまちづくりが進むことを願いたい。
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