今回の津波は、万里の長城と言われた宮古市・田老地区の防潮堤すらやすやすと乗り越えていった、
というのがよく報道されています。
津波が想定外の高さだったから、というのはもちろんですし、
どの港でどのくらいの高さの津波が起きたのか・・・と考えると「偶然」といったほうが良いかもしれませんが、
防潮堤のおかげで助かった村もあります。
それがダンナの実家のある村。
河北新報ニュース「東北一の水門、村守る」
お盆に帰省していた20代の頃、よく親戚の子を連れて泳ぎに行った白砂の普代浜。
今、NET上の画像で見る限り、自然が一杯だったキャンプ場と砂浜は跡形もないけれど、
その浜の入口にある、巨大なコンクリートの壁、高さ15mの防潮堤は部分的に壊れながらも残った。
東京しか知らない私には、ダンナの実家に張ってあった大きな地図も防潮堤も、
津波に関するもの、というだけで実感は全くなかったけど、村に通うようになって20年以上も経った今、
残念ながら初めてその重要さが解った。
村の津波ハザードマップNO.1(地図右下黄色のラインが防潮堤)
3/11、地震直後に消防署が遠隔操作で普代水門を閉めてくれたらしい。
実際はこの防潮堤も乗り越えて、200m先の小学校まで波が来たらしいけれど、
小学校も被害なし、勢いを最小限に食い止めてくれた事には間違いないと思う。
当時は税金の無駄遣い、と言われたらしいこの防潮堤。
だけど、こうなると何が無駄で何が無駄じゃないのか、仕分けの対象とそうでないものとは・・・
多分、今後考えなおされていくのでしょう。
【普代海岸(岩手県下閉伊郡普代村字宇留部地区)における津波対策】
・1972年(昭和47年)に着工された水門建設(高潮対策事業の中で実施)。
・当地は明治三陸(1896年(明治29年))と昭和三陸(1933年(昭和8年))の2つの大き
な地震津波で、1,200名もの人命を失った。
・昭和三陸地震津波(1933年)の被害以後、防潮林、防潮堤の整備を行った。その後、1962
年(昭和37年)三陸縦貫鉄道の開通、普代駅周辺の民家の密集、小中学校の建設等が進み、
それまでの対策では守りきれなくなった。そこで、普代川河口部に水門の建設を実施するこ
ととなった。
・計画対象津波は明治三陸地震津波(1896年(明治29年))とし、計画天端高(=津波高さ)
はT.P.+15.5mとした。総事業費35.6億円、10年の歳月をかけて建設。
(建設省河川局より引用)
岩手県下閉伊郡普代村
お勧めスポットの右端「普代浜園地海水浴場」が防潮堤のある浜でした。
ダンナの実家にいつも置いてあった「広報ふだい」の今月号
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もう一箇所、村の漁業基地、太田名部漁港。
ここにも津波が押し寄せ、村では一番被害甚大なエリア。
義母もわかめの時期になるとよく手伝いに行っていた。
地震の後、義兄が片付けの手伝いに行っている場所。
津波ハザードマップ NO.2(地図2枚目:黄色のライン)
ここの太田名部防潮堤も津波を食い止め、住民たちは無事だった。
画像上から二枚目が守った防潮堤
この左側の道路は景勝地・北山崎へ続く道、よく通っていました。
残念ながら美味しい磯ラーメンを食べさせてくれた太田名部レストハウス・食堂はもう跡形もないけれど、
住民がみな無事でよかった。
心優しい三陸のおとうさんたちは漁を続けると言う。
毎日JPニュース
ほかにもこんな記事が。
YOMIURIONLINE 宮古市:先人の石碑
全国ネットのニュースではあまり知られていないけど、被害だけでなく、助かったところもある。
そんな村もあったこと、お伝えしたいと思います。
ダンナの実家も震災から2週間後、やっとNTTが復旧しました。
NET環境は(ADSLなど)まだのようですが。
本当に少しずつですが、前に進んでいるようです。
【4/3 追記】全国ネットでもいくつか記事が出るようになりました。
★普代村の奇跡 日刊ゲンダイ3/31
★岩手県普代村は浸水被害ゼロ 日本経済新聞4/1
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