残酷な歳月
(七)
ジュノは、私生活では、元々、結婚願望はない人間だった!
加奈子も、又、以前は、同じく、結婚を望まず、お互いの仕事を優先して、一年に一度逢う事で、お互いの愛を確かめ、そして、愛し合える事の喜びを深く感じていたのだった。
その事では、ジュノの考えは今も変わってはいないはずだ!
ただ、ジュノ自身の気づかない、精神の疲れが、すべてのぬくもりを拒否してしまう、男であっても、女であっても!
突然、現われる、加奈子の行動にすこし、気が重いように、感じいる事を、ジュノは気づきはじめていた。
そんな感情を、押し隠して、ジュノは、加奈子に、日本滞在中は、ジュノの元の部屋で、一緒に過ごそうと、伝えて、追い返すように、話もろくにせずに、忙しく、仕事に戻って行った。
だが、その日から数日、ジュノは加奈子のいる部屋には戻らず、病院の近くの新しいマンションか、わざと病院の休憩室で休んだ、事実、手術のスケジュールは立て込んでいた。
そして、父の命日が近づいても、大杉さんからは同行するという連絡もないままだった!
夏の終わりにあの場所へ
再びの悲しみが
美しき人
都会の雑踏に安らぎはない
君は私を求めるけれど
今は誰も私に触れないで
この傷がうずき
消えることのない辛さ
どうかひとりにして
いつか又出逢える事を信じて
(思い出を奏でる)
いつ戻るのか、ただ待つしかない、加奈子には、あまりにも長い、残酷な時間が流れた。
加奈子はなにげなく、オーデオのスイッチを入れた!
ジュノが大すきな、アシュケナージの奏でる、
「ラフマニノフの「ピアノ協奏曲、第三番」がながれた。」
優しかったジュノの為に、以前、加奈子がプレゼントしたCDがセットされたままだった。
この部屋は、ジュノと加奈子が深い愛を交わした、あの頃と何も変わってはいない!、
加奈子は、なぜ、ジュノが、加奈子に冷たくするのか、理解出来ずに、悲しかった。
身に覚えのない罪を駆けられているような仕打ち!
この部屋は、ジュノから加奈子のすべてに愛のかたちを残してくれた、消す事の出来ない、ふたりで共につむいだ深い絆!
ラフマニノフの奏でる調べの強弱のような胸にせまる想い!
あの喜びはジュノから加奈子のすべてに刻まれた、ふたりが共に感じた、歓喜のしるしだったはずなのに!
ふたりで良く聴いた、ラフマニノフの調べも、加奈子の傍に、ジュノがいない今は、何の感動も無い、虚しい響き!、
加奈子はただ、涙が流れて、心が冷えて行く事を実感した。
『忙しいから、帰れない!ごめん!』
その一言で、切れる、ジュノの電話が、加奈子を益々、孤独にして行って、すこしずつ、決心させて行く、別れ!
数日、ジュノのぬくもりをさがし、この部屋で、待ち続けても、悲しみが増すばかりで辛い、加奈子の決心!
「ただ、貴方を待っていたの!」
その事を、たった一行、メモに残して、加奈子は、予定していた残りの日々を諦めて、ロスへ帰って行った。
残されていたのは、ジュノが好きな、シーフードのお料理が、冷蔵庫の中でラップがかかったまま、ここで、ジュノを待ち続けた、加奈子の姿をあらわすように、冷たくひえたまま、入っていた。
『あす、岳沢ヒュッテで待つ!』
何の前ぶれもなく、この一言を、ジュノの部屋の電話に留守電を残して、どうやら、大杉さんは、もう、出かけたようだった。
だが、確か、今、「岳沢ヒユッテは休業中のはずだ!」と、ジュノは独り言を言いながら、明日のあさの列車で、出かけようと、やっと、確かな決心がついた。
松本から、タクシーで、上高地へ入った。
やはり、八月も二十日が過ぎて、登山者は、少ないようだ、登山センターで、登山カードを出し、ひとりでジュノは、岳沢に向けて歩き出した。
すこし歩いた所で
「ジュノ!寛之!」と呼ぶ、大杉さんの声がした。
やはり、岳沢ヒュッテは、休業中だった、きのう、上高地に着いた、大杉さんは、上高地の宿に泊まり、ジュノが着くのを待っていたのだ。
岳沢ヒュッテが営業していない事は、あす一日で、あの事故の場所まで、ピストンすることは、ジュノひとりでもきびしい!
ましてや、今の、大杉さんの姿を見ていたら、とても難しい事は、すぐに分かったが、ジュノは素直な気持ちで、ここ、上高地で待っていて下さいとは言えない、大杉さんに対しての不信感が深くあった。
そんな時、ひとりの老ガイドを、大杉さんは、ジュノに紹介した。
今夜は、ここで泊まり、明日の朝早くに発ち、事故のあった場所まで、この人が案内してくれるからと言った、大杉さんは、この前、会った時よりも、かなり体調が悪い事は、ジュノにも分かったが、どうしても、素直な気持ちで、「大丈夫ですか」と、優しい言葉をかけて上げられない、いこじさが、ジュノ自身の気分を重くした。
翌朝、まだ、夜明け前の三時に、宿を発ち、岳沢に向かって歩き出したが、苦しそうに喘ぎながら歩く、大杉さんの様子を見ていて、とても、吊尾根の事故現場まで行くのは、無理な事だと改めて思うのだったが、素直に言葉に出来なかった。
なぜ、私は、大杉さんを、あの場所に立たせたいのだろうと、自問自答しながら、歩いている事に気づいた。
大杉さんには佐高さんが(ガイド)付いている事もあり、先が長いのだからと、ジュノは、ひとりで、岳沢を、重太郎新道を登り、十歳のあの時以来、はじめて、自分が落ちて行った場所をさがしながら、歩いたが!
記憶という物は、あいまいなもので、ましてや、逆の方向から、あの場所をさがすことは、そう簡単なことではなかった。
十歳のあの時から、すべての運命を変えてしまった事の、恐ろしさが、ジュノの足が掴むような全身を緊張感に襲われて、ジュノの体は自分の意志が伝わらない硬直したような感覚と、全身から血が引いて行くような怖さを感じた。
夜明け前の薄闇
私を通り過ぎて行った
いくつもの疑問
いくつもの不安
いま夜明けと共に
本当の私をつれてくる
美しき人は震える心で
この瞬間を待った
もう悲しみもない
苦痛も無い私になりたくて
(吊尾根、忌まわしい場所)
二十六年、いや、二十七年の歳月が過ぎようとしている、ジュノには、今の両親の愛情に包まれた日々ではあったが、ぎこちないほどの両親の気遣いが、ジュノをいらだたせる事も多かった。
十歳までの寛之としての自分をどうすれば、良いのかわからずに、自分の心の奥に閉じ込めておいても、突然、ジュノとしての自分を受け入れたくない感情で、心が爆発しそうになる。
十代の頃は、何もかもが信じられない、自分が誰なのかと、思い悩んだ日々が恨めしかった。
ソウルの母の、細やかな心遣いは、そんなジュノの苦しみや激しい怒りも、少しずつ静まり、今、おかれている自分の立場を気づかせてくれた。
「重太郎新道の細い岩道を歩く」苦しさの中で、何度となく、現われる。
『あの忌まわしい姿!』
ジュノにはどうしても、大杉さんが、父を突き落としたとしか、見えなかったあの時!!
つづく