11月28日 23:59 時点での国内のCOVID-19関連情報は、「日本国内の感染者数(NHKまとめ)」によると以下の通りとなっている。
■累積感染者数:14万5502人
■死亡者数 :2110人
■重傷者数 :440人
■退院者数 :12万259人
感染者数から退院者数を引けば、現在治療および療養中患者は25243人となる。
専門家の中には、「感染源が全くつかめず感染拡大を抑える効果的な手段がない」という人もいるらしい。
全国的に、いたるところで「クラスター」が発生し、しかも医療施設でのクラスターが多く、それに伴い濃厚接触者らが次々と発症し陽性患者になっている。
まさに1週間ほど前につぶやいた、「宿主(人)と一緒に移動するウィルスの感染を止めるには?」宿主(無症状者)を早く見つけ、かつ陽性者らしき主は移動しないことにつきる。
いくら政府の無策・愚策を批判や糾弾したところで菅義偉や西村康稔・経済再生相には「馬に耳に念仏」で「馬耳東風」になってしまっている。
ここで視点をかえて過去の歴史に学んでみよう。
★約100年前の「スペイン風邪」にどう対応したのか
おそらく現在の日本人で体験した人は皆無と思われる約100年前に日本に上陸した「スペイン風邪」。
日本でスペイン風邪が確認されたのは、1918年、当時日本が統治中であった台湾に巡業した力士団のうち3人の力士が肺炎等によって死亡した事が契機であるとされている。
その後、同年5月になると、横須賀軍港に停泊中の軍艦に患者が発生し、横須賀市内、横浜市へと広がり、当時、日本の報道でのスペイン風邪の俗称は「流行性感冒」と言われていた。
日本におけるスペイン風邪流行は「前流行」と「後流行」の二波に分かれるといわれ、「前流行」は1918年の感染拡大で「後流行」は1919年の感染拡大であったが、どちらも同じH1N1型のウィルスが原因で、現在の研究では「後流行」の致死率のほうが高く、この二つの流行の間にウィルスに変異が生じた可能性もあるといわれている。
このスペイン風邪によって、最終的に当時の日本国内の総人口約5600万人のうち、0.8%強に当たる45万人が死亡したと記録に残っているのだが、正確な数字は不明である。
1945年3月の東京大空襲による犠牲者は約10万人、日露戦争による戦死者が約9万人だったので単純にこの死亡率を現在の日本に当てはめると、120万人が死ぬ計算になり、これは大阪市の人口の約半分にあたる。
それではこの「スペイン風邪」に当時の政府や自治体はどう対処したのだろうか。
関連書物を紐解くと、様々な対処を行ったにもかかわらず根本的には無策だったということが明らかになっている。
なぜならスペイン風邪の病原体であるH1N1型ウィルスは、当時の光学顕微鏡では見ることが出来ず、人類がウィルスを観測できる電子顕微鏡を開発したのは1930年代だったので実際にこのスペイン風邪のウィルスを分離することに成功したのは、流行が終わって15年が過ぎた1935年であった。
つまり当時の人類や日本政府は、スペイン風邪の原因を特定する技術を持たなかったため、研究者や医師らは、このパンデミックの原因を「細菌」だと考えていたため効果的な治療もできずウィルスに対し全くの無力だったことがわかる。
それでも、政府や自治体が手をこまねいたわけではなく当時の内務省を中心に初めてのパンデミックに対し、公的機関は「それなり」に対処していたことが明らかになっている。
1919年1月、内務省衛生局は一般向けに「流行性感冒予防心得」を出して一般民衆にスペイン風邪への対処を大々的に呼びかけていたのだが、その内容は、スペイン風邪の原因がウィルスであることすらつかめていなかったにもかかわらず当時の人々の、未知なる伝染病への対処は、現在の新型コロナ禍における一般的な対処・予防法と驚くほど酷似している。
内務省衛生局の心得を現代語に分かりやすく直せばこうなる。
●はやりかぜはどうして伝染するか
はやりかぜは主に人から人に伝染する病気である。かぜ引いた人が咳やくしゃみをすると眼にも見えないほど細かな泡沫が1メートルほど周囲に吹き飛ばされ、それを吸い込んだ者はこの病にかかる。
●はやりかぜにかからぬには
1.病人または病人らしい者、咳をする者に近寄ってはならぬ
2.たくさん人の集まっているところに立ち入るな
3.人の集まっている場所、電車、汽車などの中では必ず呼吸保護器(マスクの事)をかけ、それでなければ鼻、口を「ハンカチ」手ぬぐいなどで軽く覆うこと
●はやりかぜにかかったなら
1.かぜをひいたなと思ったらすぐに寝床に潜り込み医師を呼べ
2.病人の部屋はなるべく別にし、看護人の他はその部屋に入れてはならぬ
3.治ったと思っても医師の許しがあるまで外に出るな
部分的に若干の認識違いはあるものの、基本的には「マスク着用」「患者の隔離」など現在の新型コロナ禍に対する対処法と同様の認識を当時の政府が持っていたことが分かる。
各自治体の動きとして、とりわけ被害が激甚だった神戸市では、市内の幼稚園、小学校、中学校等の全面休校を決めたという記録が残っている。
1919年には愛媛県が県として「予防心得」を出して、人ごみに出ない、マスクを着用する、うがいの励行、身体弱者はとりわけ注意することなど、おおむね内務省の「流行性感冒予防心得」を踏襲した内容で、学校の休校や人ごみの禁忌など、これまた現在の状態と重複する部分が多いことがわかり、そしてこれもまた現在と同じように、各地での集会、興行、力士の巡業、活劇などは続々中止か、または閉鎖されていた。
このようにして、日本各地で猛威を振るったスペイン風邪は、1920年が過ぎると自然に鎮静化していたという。
それは内務省や自治体の方針が有効だったから、というよりも、スペイン風邪を引き起こしたH1N1型ウィルスが、日本の隅々にまで拡大し、もはやそれ以上感染が拡大する限界を迎えたからであり、スペイン風邪にかかり、生き残った人々が免疫抗体を獲得したからだと推測されている。
つまり、スペイン風邪は突然の嵐のように世界と日本を襲い、そして自然に去っていったというのが実際のところなのだろうという。
それから100年余り経っても、政府の専門会の対策は「三密」とか「ソーシャルディスタンス」等、あたらしい用語を使うが中身は全く当時と比べても変わってはいない。
当時と大きく異なるのは、感染者に対する医療体制であり死者数が少ないことが実証しているが、交通手段が発達している現代社会ではウィルスの伝播速度は大きくなっていることは事実であろう。
典型的な例が、7月に「DoToトラベル」がスタートして、感染者数が皆無であった沖縄県が一気に感染者が増加したことを見れば、COVID-19が宿主とともに飛行機に乗って移動したという証であろう。
そしてウィルスというものは絶えず進化しながら発生しており、いくら科学の急速な進歩によっても未知のウィルスに対する完璧なワクチンや治療薬は容易には開発できないことは、同じコロナウイルスを原因とする、重症急性呼吸器症候群(SARS)や中東呼吸器症候群(MERS)に対するワクチンは実用化されていないことからも明らかであろう。
最近では外国では治験が不十分なワクチンが使用されているがまだまだ安全性は保障されていない。
ましてや今進められている新型ワクチンの主流はm-RNAワクチンと呼ばれワクチンそのものを作るものではなく、遺伝子を人間の体内に入れ、体内で抗原を作らせ、抗体を誘発するという、言い換えれば人間の遺伝子組み換えであり接種そのものが人体実験と言っても過言ではない。
豊富な治験を経なければワクチンの安全性は担保されず、なんらかの目的でワクチン開発を急いだところで、その副作用を恐れ、接種率も増えない可能性がある。
そもそも「ウィルスに勝つ」というのは人間の思い上がりかもしれない。
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欧米各国に比べれば感染者数や死亡者数はかなり少なく「日本モデル」など言っていた連中もいたが、欧米並みに市中感染が広がり、従来のクラスター対策は無効となっている。
もはやジタバタしないで完全な「終息宣言」が発せられるまでは油断はせずに「3密」を避けるといった基本的な対策を国民一人一人が愚直に実行しながら生活をすることが残念ながら最善の防衛策かもしれない、とオジサンは思う。