認めたくはないが、人は一人では生きていけない。
が、世の中には、配偶者や友達に恵まれない人もいる。
いけもとのように泣き言を家族や恋人、そして友人にいえるような贅沢な身分の人ならともかく、そうでない人もいる。
そのような人に、「あなたを憐れんでくれる神様がいる。人がいる。そしてそれをあなたに教えるためにあなたに宿るご聖霊さまがいる。」
うん。
地上の肉あるものはすべて移ろいゆく。
そんな中で、已今当変わりない愛で自分を愛する他者がいると言うことこそ、まさに福音ではないだろうか?
何やら日本の教会神学では、恵みとか罪のあがないとかを説教する。
私を教え諭してくださった、副牧師の先生の言うように、「実存的客観的他者」簡単に言えば、赤の他人だ。
その全くの赤の他人が自分が何であっても愛してくれると言うことに、私は福音に感じるのである。
友好的隣人としてのイエス。
そしてそれを私に教えしらす聖霊。
私にとっては、恵みや罪のあがないも大事だが、胸にしみる孤独を癒やす、「実存的客観的他者」としての三一の神こそありがたい。
そう、何があっても私の味方である、存在。
そのありがたみは、いじめられっ子しかわかるまい。
重ねて言うが、これこそ、集団つるし上げもどきに合い、孤立無援を味わったものでしかわからない、三一の神のありがたさであろう。
とはいえ、いけもとはクリスチャンではないのだが。
そんなわけである。
以上、いけもと。