パンドラの箱を開けるとちむがいた

書くスピード早いですが、誤字脱字多し。

18冊目

2006-06-02 00:34:38 | Weblog
◎18「ツチヤ教授の哲学講義」土屋賢二、2005、岩波書店


感想:
日経の朝刊に、面白い文章を書いている人がいると思い、その関連本として
本書を手に取りましたが、いい意味で期待はずれでした。本書はお茶の水女子大学の
講義をそのままライブのような語り口で、1、2年の初学者にも分かりやすように
哲学を説明してあります。ただ、内容は硬派で、語り口も軽妙な語り口ではありません。
頻繁にでてくるH教授がだれか非常に気になりました。

哲学を全く知らない人は、本書が必ずしもスタンダードの考え方ではないので
注意が必要です(筆者が本書のなかで言っています)。
本書では、形而上学としてのプラトンの流れに対して
土屋さんがとる立場の言語哲学の代表、ウィトゲンシュタインが、最後に、
これまでの哲学を全否定する形で終わっています。

私は昔少しだけ哲学をかじったことがあります。ウィトゲンシュタインは
難解そうな感じがして、また変人であることから、名前ぐらいは知っているけど
深く知ろうと思いませんでした。
しかし、本書では、ウィトゲンシュタインの言語ゲームという考え方を知ることで、
これまで私が、形而上学(=イデア)的な哲学書を読んでいて、
疑問に思っていたことが解消されました。
(要は哲学は言語ゲームであり、そのすべてはナンセンスであるという考え)

哲学本を読むにあたり、いつも気になっていたのが言語です。
哲学でも、文学でも伝えるためには、言語や文字が必要ですが、
それが古代ギリシアから、中世から、同じ言語体であるわけがないのに、
なぜ同じように語られるのか不思議に思っていました。

言語体系はそのまま思考体系にも直結すると思うので、例えば、ドイツで哲学が発達
したのはドイツ語が西洋的分析哲学に合っていたからだろうし、
一方で日本の哲学(西田幾多郎とか)が西洋人に理解できるとは到底思えません。
言語を抜きにして、哲学は語れないですし、さらには、言語の発音と書き方の
関係まで分析しないと、哲学は語れないと思っていました。

そんなこんなで、全部哲学書を原典で読もうと思ったら、英語、仏語、独語、ラテン語
とか、さらにその言語の古典の読み方も勉強しなくてはだめだと思い、
「やーめた」とさっさとあきらめたのでした。

この本で、疑問に思ったのは、
①哲学は別に西洋哲学だけではなく、東洋もインド哲学もあるということが書いていない
②哲学が否定されたあとに、何が哲学として呼べるのかほとんど書いていない
 (筆者も模索中?)
③ウィトゲンシュタインの考え方を真に理解すれば判明するかもしれませんが、
 例えば、産まれたときから耳・目が不自由な人は、哲学を語れないのかという問題
について、疑問に思いました。

数年ぶりに哲学書でも読むかという気にさせてくれた大変良い本でした。



  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする