デジカメを持って歩こう.

個人の 登山、トレッキング、散歩、海外旅行 の記録です。

 2012年9月 南米.ペルー周遊からブログ参加です

・中山道を歩く(19)②<関ヶ原宿>-<今須宿>-<柏原宿>-<醒井宿>醒ケ井

2018-03-19 20:41:14 | 中山道

次のルート:⑳醒井宿~武佐宿         前のルート:⑱鵜沼宿~赤坂宿

 【2日目】 
 曇り空の2日目、傘をさし関ヶ原古戦場の見学をしてから街道歩きを始める。
宿裏にあるJR関ヶ原駅前から陸橋を渡ると曇り空から小雨に変わる。傘をさし徳川家康最後の陣地等、合戦の史跡を見ながら決戦地へ向かう。かつては一面の野原であったであろうが今は畑になって整地されているがそれ成の雰囲気を残している。西軍の石田三成が陣を張った笹尾山まで上がると雨に煙る関ヶ原主戦場の広大な眺め全景が広がる。     この展望を見ると三成の方が良い位置にいて戦場全景を見て采配が出来、優勢に見える。 西軍を寝返った小早川秀秋がいなければ西軍の勝利になったかも知れないと思う。そうなると現代のあり方も変わったかも。色々な思いが馳せる関ヶ原古戦場見学であった。

関ヶ原駅前の観光案内所で身支度をし<関ヶ原宿>から街道歩き開始。
  雨は止み曇り空となる。暫らくは国道と沿って歩くため宿の名残はわずかである。壬申の乱の戦場近く、不破関跡へのルートに入ると色々と史跡が現れる。黒血川という川名称は壬申の乱の流血で川底を黒く染めたという凄まじい戦いの様子を伝え、「鶯の滝」は当時の人も我々も心を和ませてくれる気持の良い滝。常盤御前墓を過ぎ今須峠を越えると
美濃路最後の宿場今須宿>に入る。この宿は東の関ヶ原宿、西の柏原宿に挟まれ小さな宿という事だが常夜燈と適度にうねる中山道の通りが街道らしい風情を感じさせる。美濃と近江の国の境に「寝物語の里」というロマンチックな名称の地がある。岐阜県と滋賀県の境でもある。国境の細い溝を挟んだ2軒の旅篭で寝ながら他国の人と話せたという微笑ましい話。
 近江国最初の宿柏原宿>に入る。再び小雨がパラパラと降り出す。近江8宿の中で一番宿が長いという。本陣は残っていないが古い家屋が当時のまま数軒残っているのでカメラの良い被写体になる。国道と山道を通りながら行くと間もなく<醒井宿>に入る。最初は普通の宿だが、途中「居醒の清水」という中山道に沿って清水が湧き出し小川になっている場所に出る。綺麗な水が流れ気持ちの良い場所である。川に降りる石段が設けられ洗い場や魚のいけす、果物の冷やし場としても使われている様。また来てみたい場所である。宿の外れ、JR醒ヶ井駅に到着して今回の街道歩き終了。小雨が降ったり止んだりの天気だったがまあまあの街道歩き日和だった。     本日は歩数3万歩、15Kmの歩きである。

 

 <関ヶ原宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・関ヶ原   関ケ原は、北国街道に通じる分岐点であって、交通の要地として注目された。  広重も、この追分あたりを描いたのであろう。老婆のサービスする茶店に「名ぶつさとうもち」と書いた提燈が掛けられ、客の後ろの看板には「そばきり」「うんどん」の文字がみえる。広重は、「東海道五拾三次」でも、この「木曾街道六拾九次」でも、それぞれの宿名物を画中に取り入れている。彼の旅日記に、昼間、名物のもちを食べ、夜地酒を楽しんだという件があり、広重自身、旅をするときこうした名物を楽しんだ傾向があったと考えられる。

東山道時代からの要衝で、天武天皇が不破関を設けて関ヶ原の名が生まれた。1600年の天下分け目の戦から2年後に中山道の宿となる。

 関ヶ原駅                   各陣営、家紋の幟が立つ      東首塚 

            

徳川家康最後陣地 

        

決戦地へ向かう                               笹尾山、下

        

 石田三成・笹尾山陣地                          桃配山方面の展望       三成・陣地

            

丸太矢来(まるたやらい)の柵                                             戦場を振り返る

                

●●●●●● 街道歩き開始 ●●●●●●

脇本陣                     西首塚                 不破関守址                    間の宿・山中 

                

黒血川・壬申の乱 戦地               鶯の滝:                      常盤御前の墓          常盤地蔵

                

平野部にあり、中山道から直接見える落差5mの滝 「夏来ては鳴く音も聞かぬ鶯の 滝の水泡みなみ や流れ合ふらん」                      

 <今須宿> … 広重/木曾海道六捨九次之内・今須   今須から長久寺村の間が、美濃国と近江国の国境で、両国の人が壁ごしに寝物語したからというので、「寝物語の里」と呼はれ、また「車返し里」ともいったという。広重の図もこのあたりを描き、軒に「寝物語由来」「不破之関屋」などの掛札がかけられ、仙女香で有名な坂本氏の広告まで描かれている。遠くにかすかにみえる淡暴一の山は比良山地であろう。

伊吹山の影響で伊吹おろしの雪に悩まされ、「雪降り荒れまどふ」の記述が「更級日記」にあるほど、今須付近は昔も今も交通のネックになっている。今も国道・東海道本線・新幹線・高速道路など幹線が近くに集中し、不通になる時も生じる。 

JR上り・下りが分かれる           今須峠                        復元・今須一里塚

                

美濃・近江国境の宿場町、今須

                

金毘羅大権現永代常夜燈        「正月も 美濃と近江や閏月」芭蕉     寝物語の里…国境は幅一尺五寸の溝

                       

 <柏原宿> … 広重/木曾海道六捨九次之内・柏原   柏原で特に有名なもぐさ屋は亀屋。広重の絵にも、金太郎や伊吹山、そして福助の張り子の像が描かれ、大名も立寄ったという亀屋のたたすまいを描きつくしている。今も旧道ぞいに亀屋は商売しており、画中にみる福助の張り子も健在で、その大きさに驚かされる。

伊吹山に近く、伊吹山のヨモギで作られる艾もぐさ が特に上質のものとして有名だった。

                    

JR柏原駅                                       本陣…皇女和宮宿泊              

            

柏原宿の風情 … 

                

                        (復元)柏原一里塚

            

  <醉井宿> … 62 広重/木曾海道六捨九次之内・醉か井(さめかい)   大名が駕籠を休めたという六軒茶屋のあたりを描いている。十四、五年前にはまだその茶屋が残っていて、この図そっくりの風景であった。

日本武尊が清水で覚醒した「古事記」の記述から醒井の名が生まれた。鍾乳洞から湧出する清水は水温・水量とも一定で、宿の中を中山道と並行して流れ、珍しい梅花藻が繁茂、「ハリヨ」が生息する。

八幡神社                                   一色の一里塚跡     

                

                              居醒の清水 源泉                加茂神社             源泉

                

加茂神社                                                                     延命地蔵堂

                

 

清流が流れる                 居醒橋            西行水 …   

            

駅への分岐に立つ道標           JR醒ヶ井駅 

    

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=おわり=


・中山道を歩く(19)①大垣<赤坂宿>-<垂井宿>-<関ヶ原宿>-<今須宿>-<柏原宿>-<醒井宿>

2018-03-18 23:59:59 | 中山道

2018年3月18日~19日  中山道歩き19回目、 美濃路・赤坂宿から醒井宿まで2日かけ約**Km歩きます。8名の参加です。

1日目午前中は大垣城を観光後 移動、午後・赤坂宿から街道歩き開始です。 2日目は朝、関ヶ原古戦場を観光してから街道歩きです。 

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近江路(琵琶湖周辺)Map

 【1日目】 … 大垣城観光・赤坂宿→垂井宿…

 大垣駅から10分ほど歩き「大垣城」見学。模擬天守閣を持つコンクリートの城。内部は資料館になっており、天守閣まで昇ると真近かに伊吹山が見える。先月より雪がだいぶ少なくなった感じがする。大垣城近くに 芭蕉「奥の細道」<むすびの地>記念館があるので立ち寄る。中には入らず外の建物を概観する。

<大垣城> …(巨鹿きょろく城・麋び城)… 関ヶ原の戦いの直前まで西軍・石田光成の本陣としていた

正面から見上げる大垣城                        天守閣から伊吹山

                

<奥の細道・むすびの地…大垣> … 記念館の周りにある建物

                                住吉燈台                   無何有荘大醒樹?      芭蕉と木因像

                

 大垣市内で昼食後、養老線で≪東赤坂駅≫まで移動、街道歩き開始。朝から好天で、絶好の街道歩き日和である。 記憶の新しい養老線・東赤坂駅前の中山道を西へ向かう。この辺りはすでに<赤坂宿>の入口である。壬申の乱の謂れや関ヶ原の戦の前哨戦があったという杭瀬川を渡ると、昔 杭瀬川が蛇行していた場所にあった「赤坂湊跡」。湊跡には江戸時代の川燈台が残り、その反対側にある大きな火の見櫓モニュメントが眼をひく。  ここから暫らく所どころに古い町並みが残り、宿場町の雰囲気を感じることが出来る。  中山道から脇道にそれた場所にある鎌倉時代の浄瑠璃「小栗判官おぐりはんがん」に登場する照手姫の水汲井戸は期待外れのチンケさ。    
 程なく<垂井宿>に入る。相川橋を渡り暫らく行くと中山道を遮る様に旅篭・亀丸屋がある。江戸時代中期から現在まで営業を続けていると! 細久手宿・大黒屋しかり、中山道にはこの様に昔の旅篭がそのまま営業している場所が多い。    「垂井の一里塚」は町中にありながら国指定だけあり立派なものである。関ヶ原合戦時、「浅野幸長」の陣所になったと。  <関ヶ原宿>手前に野上の松並木があり若い松が多いが結構長い距離残っていて目に優しい。松並木が切れると中山道から逸れ、国道を挟んで左手に徳川家康が関ヶ原合戦時に最初に陣を張ったという「桃配山」である。ちょっとした小高い丘になっていて合戦場方面が良く見渡せる場所になっている。 中山道に戻り30分ほど歩くと今日の宿・東山道時代から続けている旅篭桝屋。 襖で仕切られた畳部屋であり、細久手宿の大黒屋と同じ造りであるが、1階の部屋なので揺れる事はない。  本日は歩数2万2千歩、11.1Kmの歩きであった。

 

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 <赤坂宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・赤坂  宿の東側を流れる杭瀬川を描いたと思われる。 雨があがった直後で、傘をすぼめた女性と長合羽を着た旅人が土橋の上ですれ違う。橋の袂の榜示杭が赤坂宿の入口を示し家並みが続く。

東海道の三河国に同名の宿があり、ここを美濃赤坂ともいう。関ヶ原の戦の前夜まで東軍が陣を張り、杭瀬川で前哨戦があった。赤白い岩肌を見せる金生山に隣接し、大理石と石灰岩の産地として知られる。和宮降嫁に合わせ54軒が新築し、その時のお嫁入り普請が残っている。  街道筋の左右には、北に美濃国分寺があり、また天下分け目の関ケ原合戦の折、徳川家康が陣をしいた山があり、ここで勝利の報を得たので、それまで岡山といった山の名を勝山と改めたという。

 

村社 白山神社                                  杭瀬川:関ヶ原の戦い前哨戦があった

            

先方に赤坂湊跡の火の見櫓モニュメントが見える                 赤坂湊跡

                    

川燈台とオブジェ

浅間神社                  本陣跡碑                             脇本陣跡碑           妙法寺

                 

兜塚(杭瀬川前哨戦の東軍死者を兜と共に埋葬)          昼飯大塚古墳        照手姫水汲井戸        青墓宿:鎌倉時代の宿            

                             

国分寺道標                  教覚寺          青野ケ原の一里塚碑

        

 <垂井宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・垂井  広重描く図は、雨のばらつく中を宿はずれにかかった大名行列を正面からとらえた構図で、左右の茶屋や石垣をシンメトリーに描いているのも面白い。

欅の大木の根本から湧く清水があり、垂井の名が生まれた。古くから歌枕の地として知られ、この水を利用して美濃紙が漉かれていた。宿中央に南宮大社の石鳥居、桝形に旧旅篭が一際存在感を保つ。   赤坂と垂井の間の青野から名古屋街道を通って大垣へ抜けられるなど、交通の要地でもあった。

 

平尾御坊道道標               喜久一九稲荷      垂井美濃路追分道標     相川から見る伊吹山

                

                          旅篭亀丸屋      本陣跡碑             南宮大社石鳥居      西見附跡      

                    

(国指定)垂井の一里塚…南塚だけが残り規定1丈(約3m)をはるかに越える5m

    

                        

 <関ヶ原宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・関ヶ原   関ケ原は、北国街道に通じる分岐点であって、交通の要地として注目された。 

                                         伊富岐いぶき(伊吹)神社   野上七つ井戸

                

野上の松並木:樹齢300年の松を含め約70本あり笠取峠に次ぐ美しい松並木が続く 

        

桃配山・徳川家康 最初の陣地                       陣地上から関ヶ原合戦場方面を見る

        

桃配山

桃配山上から関ヶ原宿方面

若宮八幡神社                                              永長元年創業 旅篭ますや

                         

 

 次のルート:⑳醒井宿~武佐宿         前のルート:⑱鵜沼宿~美江寺宿 

 【2日目】に続 … 


・中山道を歩く(18)③岐阜<加納宿>-<河渡宿>-<美江寺宿>大垣

2018-02-16 23:59:59 | 中山道

 【3日目】 
曇り勝ちながら晴れ間もあり、街道歩き日和である。昨日、足裏を痛めた人もいるのでゆっくり歩くつもりだが……。     岐阜駅南口側から中山道へ戻る。この辺の<加納宿>は岐阜駅の市街地の真ん中でもあり古い建物はなく碑だけである。神社やお寺だけがそれとなく宿の風情を感じさせる。
河渡宿>へは長良川を渡る。江戸時代には河渡橋辺りの「河渡の渡し」とその上流「小紅の渡し」の2つの渡しがあったと。    長良川を渡る「小紅の渡し」が現在も運行されているので、乙津寺おっしんじ裏手から乗ってみる事にする。この渡しは県道扱いなので無料である。 小舟にゆられのんびりと清流・長良川を渡る。対岸の岸の上から伊吹山方面の開けた展望に感動する。    元の場所まで再度渡船、中山道に戻り今度は歩いて河渡橋を渡る。 河渡宿は中山道最小の宿ということで見るべきものもなく過ぎる。  
美江寺宿>も河渡宿と同じ様に小さな宿である。ただ、古代律令時代には条里制が取られ古くは十六条村と呼ばれていた場所で十四条、十七条などの地名が残る。地名になった美江寺という寺は斎藤道三や織田信長に翻弄された歴史を持つとの事。     昼食の場所を探し、美江神社の前を通り過ぎやっと鰻料理の店がある。逃がすものかとここで昼食。    濃尾地震の震源地に最も近い場所とあって古いものは少なく余り見るものがない。地理で習った「輪中」というのがこのあたり多いのだが、ただ歩いていると良く分からない。(上空から見れば分かるのだろう) 雪を冠った伊吹山が近い。    この頃から私も含め足裏が痛いのを訴える人が多くなる。   どうにか<赤坂宿>のとま口、養老線東赤坂駅に着いて今回の街道歩き終了。

 本日の歩数3万3千歩、16.3Kmの歩き、昨日より若干少な目。それでも3万歩越え。

 次のルート:⑲赤坂宿~醒井宿         前のルート:⑰大湫宿~鵜沼宿   

 加納宿西番所跡碑              阿賀多神社      加納の一里塚跡碑      多羅野だらり八幡宮

            

多羅野だらり八幡宮…多羅野はだらり餅(あんころ餅)が有名な立場であった

  <河渡宿> … 英泉/岐阻路ノ駅・河渡 長柄川鵜飼船   英泉は、「河渡」において、鵜飼の様子を描いている。前景に鵜をあやつる鵜匠と船頭が乗った舟を描線で描き、その使う鵜をはじめ中景、遠景の舟も、また背後の森や山岳までも墨の濃淡による陰影で処理している。この図は、木曾街道中の英泉由の傑作とされる。しかし、河渡には近くに山は存在しない。中央の山は金華山であり、『木曽路名所図会』と酷似する。

長良川の水害に悩まされた河渡宿は江戸後期、時の代官が洪水に耐えられるよう宿全体を5尺盛土し、神として祀られた。  脇本陣はなく、中山道最少の宿である。宿場としての面影は少なく、盛土の遺構と一里塚が残るのみ。

乙津寺おっしんじ(鏡島かがしま弘法 梅寺)

                

  …弘法大師が乙津おとつ島を陸続きにして乙津寺を創建。この地を鏡島と命名といわれる

 …空襲で本堂を全焼したが仏像3体(国重文)は住職が長良川に持ち出し無事だった

小紅の渡し                   乗り込む         舟の上から伊吹山       金華山・岐阜城      

                

毎月21日の鏡島弘法の縁日には、数百人の利用があるとのこと

対岸から金華山・岐阜城

 長良川対岸から見る 左端・伊吹山から右手・北方の山々

倉稲魂稲荷神社…乙津寺の鬼門の守護神 北野神社         河渡橋を渡る

                

伊吹山

長良川対岸から河渡橋方面       馬頭観音堂           河渡宿モニュメント     河渡一里塚跡碑      本田地蔵堂

                

河渡の渡し付近から河渡橋と金華山

 本田代官所跡

     

本田付近

   <美江寺宿> … 広重/木曾海道六捨九次之内・みゑじ   広重描く図は、坂道は五六輪中堤、川は犀川、屋根が見えるのが美江寺宿である。坂を下りかけた旅の僧が一人、里人に道を尋ねている。遠くの空はオレンジ色に染まり、道のそばの竹薮には雀が飛び帰ってくる。いかにも広重好みのひなぴた田園風景を、彼一流のムードある画法で描き出している。道にたつ二本の椿は今を盛りと花を開いているが、ポトリと落ちる椿の花とこの旅の僧のはかなさを重複してあらわしたのであろうか。この色あざやかな椿の赤の配色が、この図をさわやかな印象のものとしている。   今は竹藪や椿に代わり、富有柿が多い。  

古代に美江寺という大寺があったため地名となり、寺が岐阜に移された後も宿名となった。濃尾地震の震源地に最も近く、1軒を残して全壊した。

美江寺一里塚跡碑                美江神社                                           昼食

                 

美江神社…  <昼食場所を探すのに忙しく境内の見学はしない。残念!>

美江寺宿本陣跡                  開蒙学校跡                      墨俣すのまた道道標

             

千手観音像                                                     神明神社

                              

千手観音像 …

神明神社

長護寺橋から伊吹山             良縁寺           白鳥神社

                

近くなった伊吹山

蓮生寺                                  小簾紅園おずこうえん…「呂久の渡し」と皇女和宮記念公園

                              

小簾紅園おずこうえん…皇女和宮が「呂久の渡し」を渡る途中で詠む「落ちてゆく 身としりながら もみじ葉の 人なつかしく こがれこそすれ」

 …和宮が「身は武蔵野の露と消えゆくとも」と悲壮な決意で向かった幕府はその6年後に倒れる

 …揖斐川が東に移される前この辺りを呂久川として流れ「呂久の渡し」があった跡

中山道道標…「中仙道三回り半」                     素盛嗚すさのう社       中山道道標…「中仙道七回り半」

                         

 … 「中仙道三回り半」 「中仙道七回り半」 古代の条里制の遺構が残り、碁盤目地割を中山道が縫うために生じる現象

 次のルート:⑲赤坂宿~醒井宿         前のルート:⑰大湫宿~鵜沼宿   

=おわり=


・中山道を歩く(18)②<鵜沼宿>-<加納宿>岐阜

2018-02-15 23:59:59 | 中山道

 【2日目】 
 曇り空の2日目<鵜沼宿>から18回目の街道歩きを始める。昨年12月に歩いた宿の東入口・東見附「地蔵堂」まで戻る。 この辺り明治の濃尾地震で壊滅的な打撃を受け、江戸時代の建物は残っておらず新しいものになっているとのこと。でも暫らく宿場風情がある場所を歩く。宿の西見附から先は見るべきものは少なく各務ヶ原になる。国道沿いに歩くが左手は「航空自衛隊岐阜基地」になっていて頻繁にまた突然に爆音を轟かせジェット機が上空真近を飛んで非常にうるさくまたビックリする。   各務ヶ原市役所の食堂で昼食。
間の宿 新加納からはパラパラと見るべきものが出てきて間もなく<加納宿>に入る。今まで聞いたことのなかった「御鮨街道」という道を歩く。また、何回も曲がる道が往時の街道を思わせる。   足の裏に豆ができた人が出てきたが、もうすぐ岐阜駅なのでほっとする。 

 本日は歩数3万4千歩、16.7Kmの歩きである。

 

 <鵜沼宿> … 無款(英泉)/木曽街道・鵜沼ノ駅 従犬山遠望   英泉描くこの図は、犬山からみた構図で、犬山城天守閣と大手門、木曽川越しの山麓に鵜沼宿の家並みが見え、緑の広々とした原は各務原、黄色の山は三井山であろうか。 この画角は『木曽路名所図会』の挿絵と殆んど同じで鵜沼の渡し舟まで同じ位置に描いている。

太田から二里、木曾川の北岸にあって、犬山とむかいあった宿である。  周辺の丘陵は大規模な新興住宅地となり変化が著しいが鵜沼宿は静かな佇まいが保たれ、脇本陣・町屋館・鉄門等がある。明治中期の濃尾地震の被害が大きく、地震以前の建物はわずかに残るだけ。

鵜沼宿・うとう峠道標          高札場(復元移設)

        

 鵜沼宿中央の大安寺大橋       鉄門(大垣城本丸から移設)               旧武藤家住宅の裏庭

            

大安寺大橋が江戸時代風に造られる

旧武藤家住宅:明治24年の濃尾地震で壊滅的被害を受け建物は新しいもの

 町屋館                  菊川酒造         桜井本陣跡に復元建物         二宮神社…円形古墳の上に建つ

                

菊川酒造…創業明治4年 銘酒「美濃地酒篝火」の蔵元

 茗荷屋                   鵜沼宿道標           衣裳塚古墳      津島神社/皆楽座        各務一里塚跡     

                

茗荷屋…梅田家 鵜沼宿で唯一残る江戸時代建築の旅篭

衣裳塚古墳…岐阜県最大の円墳(直径52m、高さ7m)

各務一里塚跡…塚の横に槍ヶ岳開山・播隆上人の名号碑が建つ 碑は濃尾地震で2つに折れた

 

神明神社                                                 神明神社:村社                                              

                             

石敢當

                

 <加納宿> … 広重/木曾海道六捨九次之内・加納   広重描く「加納」の図では、石垣の上に角櫓、そして天守閣までそびえる加納城を遠景に、城主の行列であろうか、威儀を正した行列が街道を行く。広重は日本各地の風景を描く時、大名行列を画中に描いている。しかしこの図のように威儀を正し、行列を整えた堂々とした行列を描いていることは少ない。長旅に疲れて列を乱したり、毛槍を天秤棒のように傾けた奴の姿などをよく描いている。それにくらべ、この図は整然とした行列であるが、何かそれだけという感じの作品
である。

徳川家康は西国大名の反乱に備え、岐阜城を廃して平城・加納城を築いた。そのため美濃16宿で唯一の城下町であった。城下町のため中山道は6カ所で複雑に曲がる。宿の主要部は戦災で焼失し、唯一残った加納新町に古い町並みが残る。

   

                      間の宿・新加納宿        中仙道道標           日吉神社:狛蛙…

                

日吉神社:狛蛙…往時は境内に瓢箪池があり、多数のガマ蛙が生息した にちなむ

                        新加納宿の一里塚跡                    御典医(今尾家)

                    

新加納宿の一里塚跡

御典医(今尾家)…江戸時代、幕府・大名お抱えの医者であった

 善休寺…徳川家が各務ヶ原で狩りの際、宿舎としたため「葵の紋」が許される

            

間の宿・新加納             鵜飼いのマーク                      手力雄てじからお神社 二の鳥居                                             

                             

浄慶寺                                                    切通陣屋跡

                             

切通陣屋跡…中世の長森城跡に陣屋を置いた

 伊豆神社                  細畑ほそばたの一里塚                  伊勢道追分       八幡宮と標石

                

細畑の一里塚…昭和27年に小さく復元され、榎が植わってる

伊勢道追分:地蔵堂と明治9年の道標「伊勢名古屋ちかみち 西京道 木曽路」と刻む(西京は東京に対比する表現)

 長屋門                    御鮨街道道標            加納大橋欄干

                

長屋門

 

御鮨街道道標(排水溝蓋)        加納宿東番所跡碑      加納宿道標          道標          加納城大手門跡

                 

「御鮨街道」…長良川の鮎鮨を5日間で江戸の将軍へ届けると食べごろとなった。岐阜から東海道宮宿までを御鮨街道と呼ぶ 

二文字屋                   脇本陣跡碑         加納天満宮                           岐阜駅

                             

二文字屋…旅篭として江戸初期に開業 欄間に宿賃替わりに左甚五郎が彫ったウサギがあった

       【3日目】  に続く   ……            


・中山道を歩く(17)③<伏見宿>-<太田宿>-<鵜沼宿>犬山・(犬山城)

2017-12-08 23:59:59 | 中山道

 【3日目】 
 朝起きてみると曇り空。予報では午前中雨。    曇り空の中、日本ライン今渡(いまわたり)駅から中山道に戻り3日目の街道歩きを始める。
最初に木曽川左岸「今渡(いまわたり)の渡し跡」を見る。今まで見てきた岩の間を流れる激流ではなく広い川幅の大河になっている。  渡しの代わりに架けられた太田橋で木曽川を渡り太田宿へ。
 <太田宿>は飛騨街道や郡上街道の分岐点として栄えた町、現在もJR高山本線や長良川鉄道が集まる交通の要衝になっている。  旧道の宿入口・出口は枡形、交通量も少なくこじんまりとしていながら古い屋敷もあり宿場の雰囲気を保っている。  この先旧道は木曽川の変遷で特定できなくなり堤防の上、「日本ラインロマンチック街道」を木曽川を見ながら歩く。この頃から雨が本降りとなり傘をさして歩く。  対岸の山肌に若干紅葉が残っており雨の奇岩の間を流れる木曽川を見ながら歩く。  堤防を降り国道沿いを暫時歩くと山側の崖に登る細道があり「岩屋観音」に着く。雨に濡れた岩肌をくり抜いた中に観音像がある。  国道に降り左側から国道とJRの下をトンネルでくぐると「うとう峠」入口である。 うとう峠への道はこれまでの国道の喧噪とは別世界の静かな道。岩屋観音あたりから雨も上がり峠への深い緑の中を歩く。  中山道で土の道を歩くのはこれが最後ということで土の感触をかみしめて歩く。峠手前から石畳道になるが丘陵の上「うとう峠一里塚」の手前から右手が新興住宅街になり興ざめである。  この先も住宅街の中を下り、まもなく赤坂地蔵堂<鵜沼宿>入口である。今回はここでで中山道歩き終了。    昼食の乾杯後犬山城観光に向かう。
 危惧された途中脱落者もなく、代わりに当初予定より先まで歩くことが出来、絶好調のハイキングクラブ有志である。
歩数3万8千歩、19Kmの歩き。

次のルート:⑱鵜沼宿~美江寺宿             前のルート:⑯中津川宿~大湫宿   

 

 <大田宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・・太田   広重の図は、「木曾で桟(かけはし)、太田で渡し、碓氷峠がなくばよい」と馬子歌に歌われたという太田の渡し場を描いた。この太田から一里ほど上で木曾川と飛騨川とが一つになったという広い川幅の水面を筏が下り、渡し舟が急流に舳先をたてて漕ぎ渡る。こちらの岸には大きな石化石林」にどっかと腰をおろして旅人が次の舟をまつ。

ここ太田、あるいは今渡から峡谷の急流を犬山まで下る″日本ライン下り″は有名であるが、大正十年、岐阜から高山線が開通した際、その名付け親である志賀重昂博士の発案から起こったものだという。

                          今渡(いまわたり)の渡し場跡

                             

木曽川を越える太田橋                                            対岸 太田宿側       太田の渡し場遠望

                

大田宿                                                     祐泉寺

                   

祐泉寺:日本ライン命名者「志賀重昂」、槍ヶ岳開山者「播隆上人」の墓碑。 太田宿の代官所役人の子供であった「坪内逍遥」、芭蕉、白秋の歌碑がある

                       卯建の上がる旧家

        

木曽川・日本ライインの景観

            

岩屋観音                                                                    中央西線に沿って歩く

                             

うとう峠へのルート トンネルを潜る                                                     うとう峠登り口 

                             

国道、JRの下をくぐるトンネル

うとう峠登り口

                

うとう峠登り口:国道を離れこれまでの喧噪とは別世界の静かな道。深い緑である。

うとう峠一里塚

                                          

鵜沼宿入口 今回はここで終了 … 犬山城観光へ向かう

 

※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ( 犬 山 城 観 光 ) ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ 

今年9月にも城郭巡りで 犬山城 を観光している

木曽川超しの犬山城                              木曽川左岸を犬山城へ向かう

            

木曽川、犬山城、ライン大橋

 

 

                

 

                

                

 

                

 

 次のルート:⑱鵜沼宿~美江寺宿         前のルート:⑯中津川宿~大湫宿   

=おわり= 


・中山道を歩く(17)②<細久手宿>-<御嵩宿>-<伏見宿>

2017-12-07 23:59:59 | 中山道

 【2日目】 
 大黒屋の朝、スッキリとした青空である。2日目<細久手宿>の街道歩きを始める。今日は初実施の朝から夕方までまる1日の街道歩きなので全員が順調に歩けるか気がかり。 
 細久手宿から御嶽宿の間はほぼ山道、深い緑に包まれた道を下り登りの繰り返しで歩く。所々東海自然歩道が中山道と同じところを通り、案内標識が間違えやすい。 
 御嶽宿入口、物見峠先の御殿場跡展望台から恵那山、御嶽山、笠置山が見えるはずだが、樹木が生い茂り笠置山以外は良くわからない。   謡(うとう)坂石畳を下り、そして登り西洞坂を下ると平坦地・田圃・国道に出て<御嶽宿>になる。蟹薬師・願興寺東側にこじんまりと当時の面影を伝える旧家が残る。願興寺は質素な雰囲気だが立派な本堂と広い境内を持ち時代を感じさせる建物。この宿が願興寺の門前町として繁栄したことは名鉄線の終端駅があることからもわかる。      みたけ郷土館紹介の店で昼食。    この先、すぐに伏見宿である。

朝の大黒屋                 本陣跡            馬水池                             平岩辻の風景

                 

秋葉山の三尊石窟            鴨(こう)之巣の一里塚:南塚と北塚が地形の関係から東へ16mずらされている

                 

 

 <御嶽宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・御嶽  広重描く御嶽の図は、宿からはなれた木賃宿の情景である。木賃宿というのは野宿から旅寵に移る過渡期の休泊所で、旅人たちは食糧を携帯し、宿からは湯をもらうだけであったという。その後米を買って自炊し、煮たきをするようになったという。一つ釜を囲んだ貧しい人々の和気藹々たる雰囲気が伝わってくるような図である。

宿の西はすれに蟹(かに)薬師の名で有名な願興寺があり、門前町として誕生した。この寺は、一寸八分の薬師さまの体を数千のカニが取り巻いて池から現われたという話が伝えられ、ここから蟹薬師の愛称が生まれた。本陣から東に連子格子の家並みが残る。  地域名は御嵩、宿名は御嶽と表記し、御嵩町御嵩に御嶽宿がある。

 

物見峠への入口                               唄清水         一呑ひとのみ清水      この辺りが広重描画の場所

                             

謡(うとう)坂石畳:余りの急坂に苦しさを紛らすのに唄いながら    耳神社:錐を奉納すると耳の病にご利益が 

                         

謡(うとう)坂石畳:険しい石畳のため、歌を謡って元気をつけた 花崗岩の割石で200m余りを修復

                       西洞坂:牛の鼻欠け坂                       まもなく御嶽宿に入る 水田地帯

                             

牛の鼻欠け坂あたりを境にして、東は山間地域の入口となり、西は比較的平坦地になる。地理的にこの辺りが山間地と平坦地の境界になる。

               

和泉式部の墓                                 旧旅篭吉野家         商家竹屋跡       脇本陣跡

                    

●●●   この辺りで 昼食  ●●●

蟹薬師:願興寺                                                                名鉄広見線終点:御嶽駅

                             

願興寺:平安時代開創の古刹。本堂は天正期の再建で400年。重文級の仏像も多数擁する。

 

 <伏見宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・伏見 この広重の図はどの辺だかわからないが、街道の一本杉の根元に憩う旅人や往来する人々を主題とした図で、「人のいる風景版画」といえる。   木陰で弁当を使う夫婦。笠を枕に仮眠する男。どこを目差すのか瞽女三人。左の道からは傘をさし、薬箱を背にした医者がもっともげな瀕をして歩を運ぶ。簡単な描線で描かれた人物ではあるが、よくそれぞれの職業、生活状態までも描き分けており、広重もやはり浮世絵師だなと感じさせる図である。こうした一本杉の根元に憩う人々を扱った図は、保永堂版「東海道五拾三次」中の「浜松」が有名であるが、本図の方が温か味があふれている。

 御嶽から一里五丁の西に伏見がある。木曽川の渡し場変更により木曽川南岸の土田どた宿から宿が移ったため、他の宿より90年余り遅れ、中山道では最も遅く誕生した。明智光秀や森蘭丸の出身地に近い。今は国道が通り抜ける。

 

伏見宿>からはほぼ平坦な道を歩く。宿内を国道が通っているため、当時の雰囲気はほとんど感じ取れない。 旧家がほんの少し残っているだけで後は碑だけである。  予定では「上恵土神社」先から新可兒のホテルへ行く予定だったが、見るものが少なく時間も早いので1駅先まで約1時間余計に歩く。 名鉄今渡駅から新可兒駅に戻りホテルへ。 
 危惧された途中脱落者もなく、代わりに当初予定より先まで歩くことが出来き絶好調のハイキングクラブ有志である。 
  歩数3万8千歩、19Kmの歩き。

鬼の首塚               比衣ひえ一里塚跡            本陣跡碑                     兼山道道標:右御嶽 左兼山 八百津

                 

伏見宿本陣碑 ・ 「是より東尾州領」の領界石

旧旅篭三吉屋             名号碑:槍ヶ岳開山の播隆上人が建立      子規句碑「すげ笠の 生国名のれほとゝぎす」

                         

上恵土神社                                                                恵土の一里塚跡碑

                  

上恵土神社 裏手から中山道に蛇行してきた木曽川が望める

    【3日目】  に続く   ……                


・中山道を歩く(17)①釡戸<大湫宿>-<細久手宿>-<御嶽宿>-<伏見宿>-<太田宿>-<鵜沼宿>犬山

2017-12-06 23:59:59 | 中山道

2017年12月6日~8日  中山道歩き17回目は美濃路・大湫宿から鵜沼宿までを3日かけ約**Km歩きます。今回から新幹線を利用してのアクセスになるため<2泊3日>の街道歩きです。7名の参加。

 【1日目】    
塩尻駅構内で立ち食い蕎麦の昼食。中津川駅から≪恵那駅≫に移動し「広重美術館」で浮世絵を見る。生憎中山道の浮世絵はやっていなかったが版画印刷を体験。 
 釡戸駅からタクシーで<大湫宿>へ14時到着。晴天だが高地であることで冬の寒さがキリリ。1週間前に来た宿だが季節がだいぶ進み冬枯れの景色。「観音堂」と「神明神社の大杉」を再度観光。     美濃路で標高が一番高い琵琶峠540mの石畳道へ向かう。      この辺り「隆起準平原」といって河川の浸食の最終段階「準平原」が隆起した場所。再び浸食が始まると旧河川が残した山砂利が分布し、二つ岩の様な特異な姿が現れるという。     巨岩・二つ岩を右手に見、すぐに琵琶峠石畳道に入る。峠は以外と近くすぐである。和宮の歌碑や文学碑が置かれる。御嶽、白山、伊吹山が見えるというが今は樹林が生茂り展望はない。昭和45年に発見された日本一長い旧石畳を下り、初夏にカキツバタが咲く弁天池をすぎると細久手宿>である。 
今も旅館を経営している旅篭の大黒屋に着く。尾張藩指定の本陣で、卯達のある外観、上段の間があり当時の雰囲気を色濃く残す宿に泊まる。2階の上段の間に宿泊したが良く揺れる建物で寝返りをするだけで2階全体が揺れる。  今日は短め歩数1万6千歩、7.8Kmの歩き。

次のルート:⑱鵜沼宿~美江寺宿             前のルート:⑯中津川宿~大湫宿

 <大湫宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・大久手   なだらかな高原で背負子で自分の丈より高い柴を運ぶ夫婦が、今にも落ちそうな露出した大きな岩を見上げている。大久手と細久手間にあった二つ岩とする説が多いが、形が異なる。花崗岩の露頭が大洞にあって背景も一致する。
 この図をみるたびに、浮世絵版画における配色の妙によって、遠近感、立体感を表現する色面構成の微妙さを再認識させられる。

山間の別天地、桃源郷のような宿は美濃高原の窪地(湫くて)にある。大湫の「くて」は湿地の意味で、谷間の中央に水田が広がる様は、その名の印象と一致する。琵琶峠への道に長い石畳が敷かれたのも、この辺りに湿地が多かったためである。

中央線車窓 南アルプス       甲斐駒                          恵那駅を起点とする「明智鉄道

                         

左方:鳳凰三山    右方:甲斐駒ケ岳

1週間ぶりに訪れる大湫宿      観音堂              神明神社の大杉 1週間で季節がだいぶ進んでいる

                       

                             大湫宿内を歩く                  高札場の南天の実が赤くなった

                       

 大洞小坂碑                      二つ岩                        琵琶峠石畳道の「東上り口」

                

琵琶峠石畳               琵琶峠 頂部:中山道美濃路の最高地点540m          八瀬沢一里塚

                             

峠から八瀬沢集落まで730mの日本一長い琵琶峠石畳(昭和45年に発掘された)

 

琵琶峠石畳道の「西上り口」                                          焼き坂の馬頭観音:三面六臂                               

                         

 

 <細久手宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・細久手   広重描くこの図は、丘陵地のひっそりした道端に、ポツンと一軒置き忘れたような家があるため、地名も「一ツ屋」と呼はれるあたりから見下した風景である。画面の左右から中央へその頂をよせ合う松の大木、その間から望まれる美濃平野、そして中間の山山、さらに藍で摺られた遠山。一点を凝視するかのように展開する野や山の描写に、巧みな遠近透視画法が活用され、また巧みな配色によって広がる空間の伸びやかさを表現している。それは、刀の柄に水筒とした竹筒をひっかけて旅する武士の姿に通ずる和やかさがあるといえよう。

美濃高原の窪地(久手)に40軒になった宿がひっそりと残る。旅篭大黒屋は江戸時代の建築を生かし、今も旅館を続けている。本陣は地下水路が、脇本陣は土蔵が残る。 

弁天池                                        奥之田一里塚                     夕暮れ迫る

                

細久手庚申党から宿を見る      <宿>大黒屋:問屋兼旅篭 尾張藩の定宿                        上段の間 ここで寝る

                

大黒屋 尾張藩定宿のため玄関門・式台・上段の間があり本陣の建物に準じた造り … 当時の面影を残す貴重な遺構

豪華というのではないが手作りで心のこもった料理


     【2日目】  に続く   …… 


・中山道を歩く(16)②<大井宿>-<大湫>釡戸

2017-11-29 21:34:16 | 中山道

 【2日目】 
 恵那峡を望む高台にある宿、朝起きてみると曇空である。当初予報で晴天のはずが昼前後に雨が降るという予報に変わっている。タクシーで恵那駅に戻り<大井宿>の街道歩きを始める。大井宿のはずれ、中央西線の踏切を越えると十三峠という上り下りの続く森の中の土道になる。槇ケ根一里塚で雨が降り出し傘をさす。この後、雨が降ったり止んだりの天気である。途中、間の宿・深萱(ふかがや)立場は開けた田園地で国道も通っている。すぐに山道に戻り、再度史跡・石仏が多く残る峠道の上り下りになる。小さな坂にも名前が付けられ昔の人が苦労して歩いた坂に対する思いが伝わる。

最後の寺坂を下ると十三峠も終わり<大湫おおくて宿>に入る。山間の別世界、桃源郷の様な宿と言われこじんまりしていながらしっとり落ち着いた雰囲気。「神明神社の大杉」は樹齢1300年と推定され圧倒される巨樹である。 この後、車道の下り坂を45分歩き釡戸駅へ着く。    歩数2万9千歩、14.6Kmの歩き。

恵那峡の朝 宿のベランダから   恵那駅に戻る   中野村庄屋・和宮通行で刃傷沙汰      西行塚           中央西線を渡る

                

難所・十三曲峠 登り口                         槇ケ根一里塚:この辺りの一里塚から両塚とも残っている

            

●●● 雨が降り出し、傘をさしての歩きとなる            槇ケ根立場            姫御殿・お姫様通行時、仮御殿を建てた

                

首なし地蔵                      乱れ坂・大変急な坂で大名行列も乱れた

                             

紅坂一里塚                                                                   三社灯籠

                             

 <大湫宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・大久手   広重描くこの図は、前の雪の大井とその画趣を一変させた明るい草原の風景をとらえ、美濃平野に多くみられるなだらかな曲線をみせる山や丘のたたずまいを描いている。自分の背丈より高い柴を背負った農民の夫婦が通りかかった道の左手の崖に今にも落ちそうに露出した岩は、大久手と紳久手間にあったえばし岩か、母衣(ほろ)岩であろう。
 この図をみるたびに、浮世絵版画における配色の妙によって、遠近感、立体感を表現する色面構成の微妙さを再認識させられる。

大久手は、大湫と書く。『木曾路名所図会』に、次の宿細久手と共に、「細久手、大湫共に宿賎し」と簡単な記載があるにすぎない。この「湫」というのは、くぼ地、湿地という意味で、ここでは山の上の湿地ということだという。そしてここは狭いながらも水田もあり、地名どおり水に困ることはないそうだ。

藤村高札場                   深萱ふかがや立場跡近辺                みつじ坂            中山道碑       

                

山裾の段々畑脇を歩く           観音坂                  炭焼立場跡付近

            

 権現山一里塚:江戸から九十里目                 順礼水          阿波屋の茶屋跡、観音石窟 で昼食

                             

江戸からちょうど九十里にあたる        

 しゃれこ坂               山之神坂             童子ケ根          寺坂の石仏群

            

大湫宿入口 是より東 十三峠        宗昌寺

                

大湫宿の町並み                                                脇本陣

               

神明神社・大杉 観音堂と共に「大湫宿に過ぎたるものが二つあり」と言われた杉 樹高60mあったがH16年落雷で上部を欠く

                                  

                   

観音堂 

            

                       復元高札場跡                           釜戸駅へ車道を下る

                             

次のルート:⑰大鍬宿~鵜沼宿         前のルート:⑮三留野宿~中津川宿 

=おわり=


・中山道を歩く(16)①中津川<中津川宿>-<大井宿>

2017-11-28 23:59:59 | 中山道

2017年11月28日~29日  中山道歩き16回目は美濃・中津川宿から大湫(おおくて)宿まで2日かけ約25Km歩きます。2日間晴天の予報です。今回は8名の参加になりました。

 【1日目】    
中津川駅へ11時過ぎに到着。気持の良い晴天。駅前の鰻屋で昼食後、12時から街道歩きスタート。 
 <中津川宿>は岐阜県の都会地であるにも関わらず古い建物が残り、落ち着いた雰囲気。駅前メイン道路から前面に少し雪を冠った恵那山が大きく見える。  氾濫を繰り返したという四ツ目川橋を渡ると本陣跡、旧民家や商家、枡形道が多く現れ宿場町の風情が出てくる。恵那山を源とする中津川を渡り、中津一里塚跡を過ぎると景色が開け恵那山が大きく見える様になる。このあたりの北方に「リニア新幹線の車両基地」ができるとか。 <間の宿>茄子川村を過ぎると間もなく大井宿になる。 
短いが急な登り坂、北に御嶽山を望む素晴らしい展望が待つ甚平坂。その先に恵那市として広がるのが<大井宿>である。 
枡形が6カ所も存在するという江戸時代の戦略的要衝地の大井宿、本陣跡は表門だけが現存しているとのこと。16時近く、陽が傾き始め恵那駅からタクシーで宿へ。街道歩き終了。 
本日は短めの歩数2万3千歩、11.5Kmの歩きである。

次のルート:大鍬宿~鵜沼宿             前のルート:三留野宿~中津川宿

 <中津川宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・中津川    この「中津川」の図には、俗に「雨の中津川」と愛称される図と「晴れの中津川」とする図の二種類ある。 前者の「雨の中津川」と称される作品は、稀少価値という点から、また広重の傑作が多いという雨の景であることから、この「木曾街道六拾九次」中、五指にはいる傑作とされる。
 それに対して、「異版」とされるこの図、中津川と橋を前景とし、橋を渡って田圃の中を縫って通る中山道が中津川宿に吸い込まれていく様子を描いている。宿場の背後に焦げ茶色の上金丘陵と、その背後に長く連なる木曽の山々が見えている。

中山道は中津川宿から本格的な美濃路に入る。地理的には落合宿が美濃路東端であるが、昔から中津川が文化的にも経済的にも木曽路と美濃路の接点の役割を果たしてきた。宿内で渡る四ツ目川の由縁は氾濫の度に川筋が変わりこの部分が四つ目にあたることから。

    

 

中津川駅前              駅前通りから恵那山                      四ツ目川橋と恵那山    中津川宿 本陣跡碑

                             

庄屋跡                 銘酒「恵那山」蔵元      栗きんとん 川上屋     石標:右・木曽路 左・なごや      桝形

                

                                                                            中津川 駒場村の高札場                    上宿の一里塚

                                                           

恵那山                   小石塚立場跡         六地蔵石憧           中央西線と恵那山

            

坂本神社 八幡宮                                             指さし石標:大井宿・坂本駅     残月と

                

                       三ツ家の一里塚碑    三面六臂馬頭観音      <間の宿>茄子川村    茄子川村の高札場跡碑

                    

 

茄子川小休所 篠原家 …和宮が休憩した建物が現存

         

 <大井宿> … 広重/木曾海道六捨九次之内・大井    遠くの連山も、街道脇の松の木も、そして街道も降り積もった雪に自一色である。膝まで没して行く人も馬もうつむいていて身を切る寒さに耐えている。雪の図の多い広重作品でも特にすぐれている。右の松の後方が恵那山、左の山が笠置山、最奥の白い山は御嶽山である。

東美濃の戦略的要衝にあり、6カ所に枡形がつくられていた。旅篭は美濃16宿中最多で繁栄を物語り、本陣や旅篭が健在である。
 中山道は西行塚を過ぎたあたりから西行坂、みたらしの坂、うつ木原坂、べに坂、黒すくも坂、はばが茶屋坂、新道坂、権現坂、鞍骨坂、炭やきの五郎坂、稚の木坂、寺坂といった多くの坂があり、道も狭く次の大久手までいかに起伏に富んだ地形であったかがわかる。

 

甚平坂から御嶽山          関戸一里塚跡碑        復元高札場                大井宿本陣跡

                

大井宿内                   一神神社                             恵那駅             夕食

                             

    【2日目】  に続く   ……  


・中山道を歩く(15)②<妻籠宿>-<馬籠宿>-<落合宿>-<中津川宿>中津川

2017-10-18 23:59:59 | 中山道

 【2日目】 
 前夜、川の音がうるさかったが宿の人が濡れ縁の板引き戸を閉めると、静かに。 その引き戸を開ける音、そして明るくなり目が覚める。    快晴の<妻籠宿>大妻籠の朝を迎え出発する。今日は昨日より晴れる予報である。   宿から出て程なく山間の石畳道を歩きそして中山道をそれる。 鬱蒼と木々が茂る中の男滝・女滝を見る。最近の雨続きで両滝とも水量豊富、豪快である。   滝脇の道を車道へ、中山道に戻り馬籠峠に向かう。      山の開けた所にある外観が美しい一石栃(いっこくとち)の立場茶屋で休憩。     

ほどなく馬籠峠に着き車道と合流。  景観が一変し先に美濃の平野が望め、狭い木曽谷とはうって変って明るく伸びやかな斜面が前景となり木曽をようやく抜けるのだという感慨がおこる。  旧道から江戸時代の建築遺構民家が残っているという集落を抜けると恵那山が良く見える「馬籠上陣馬跡」の公園に出る。 <馬籠宿>は高札場すぐ、石畳の下り坂、両脇に軒を重ねる町並みが始まる。木曽五木の実物を見、島崎本陣跡・藤村記念館に入り藤村の『夜明け前』原稿や初版本を見る。  水車小屋手前の店で昼食後、馬籠宿を離れ中津川方面の展望が開けた場所に「子規句碑」、新茶屋一里塚に着くと「芭蕉句碑」や「北木曽路碑」<是より北木曽路>がある。   

一部江戸時代の石畳が残る歩きずらい「落合の石畳」十曲峠を下る。平坦になり落合川を渡ると<落合宿>、宿場風情は少なく常夜灯と本陣跡が残る静かな街並みである。宿を出ると中山道は国道に分断され、急な上り下り坂のある道を歩く。  

街道歩き終盤、疲れた脚を鼓舞、やっと<中津川宿>に入り中津川駅・終着である 。    歩数2万7千歩、13.8Kmの歩き。

次のルート:⑯中津川宿~大鍬宿         前のルート:⑭上松宿~三留野宿  

大妻籠・宿を起つ                              倉科祖霊社

                     

男滝・女滝:吉川英治「宮本武蔵」で武蔵とお通ロマンスの場所                                     マムシグサの実

                

神居木(かもいぎ):樹齢三百年サワラの大樹            一石栃立場茶屋跡

                         

 <馬籠宿> … 無款(英泉)/木曾街道・馬籠駅 峠ヨリ遠望之図   英泉描く図は、『木曾路名所図会』に、「十曲嶺・落合と馬籠の間にあり、里人は十石峠と云う。十曲とは坂路九折多ければ名に呼ぶ」とあるあたりを描いたものである。山の陰に落ちる滝は男滝、女滝であろう。遠景の処理に広重調があって面白い。

木曽11宿南端の宿は木曽谷から離れ、美濃国が見渡せる位置にある。長野県馬籠宿はH17年、全国唯一の越県合併で岐阜県となった。   標高約600mの高地にある宿は山の斜面に石垣を築いて建てられ、石畳の坂道に沿って広がっている。妻籠宿の様な古い建物は残っていないが、島崎藤村の出身地で、『夜明け前』の舞台ともなっていることから中山道を代表する観光地となっている。

馬籠峠:801m            正岡子規句碑:白雲や青葉若葉の十三里

    

妻籠宿と馬籠宿の中間の間の宿

美濃の平野:空が広い        十辺舎一句狂歌碑         秋空             恵那山遠望

                

                                            陣馬坂

        

馬籠宿・復元 高札場         中山道馬籠宿碑

                

                                               木曽の五木:ひのき、さわら、こうやまき、あすなろ、ねずこ

                         

                                   島崎本陣跡・藤村記念館(中庭)

                             

          水車が回る車屋坂 枡形

                

 

                                      諏訪神社                           正岡子規:

                   

中津川を眼下に見る                             芭蕉句碑:                          北木曽路碑:

                             

中津川を眼下に望み、信州サンセット百選の一つ

北木曽路碑:島崎藤村揮毫「是より北木曽路」

   <落合宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・落合   広重の描いた「落合」の図は、現在の国道十九号線と旧中山道とが交差したあたりの風景に近い。長かった木曾の険路の旅を終えて坂を下ってくる大名行列も間延びして長い列となっている。それにしても、前の「馬籠」の図では、遠景の処理に広重風がみえるのに対して、この落合の図は、連なる丘の描写、そして凹凸を表現するための茶の陰影の描写法などは、広重の画法というより英泉の作風に近く、スケッチを基とした作画であるためともいえようが、興味深い図である。

「木曽路を出てここに出れば、まず我家に帰り着きたる心持する」貝原益軒はこう表現した。空が急に広く感じられる。      南北に2つの枡形、宿場用水も寄せられ残る。宿内には加賀藩から贈られたと伝わる門構え、上段の間など、旧態をよく留めた本陣跡が現存している。

 新茶屋の一里塚           信濃・美濃 国境       新茶屋の一里塚碑        十曲峠の石畳           へび

                

「信濃美濃国国境」碑~(県境を信濃→長野県、美濃→岐阜県としたいが馬籠宿の村が岐阜県中津川市に合併されてる)

十曲(じっきょく)峠の3ケ所に江戸時代の石畳71mが残っており、昭和63年以降に840m復元。さらに120mを石畳に変えた

                      医王寺             芭蕉句碑                            落合川

                             

医王寺・山中薬師:虫封じの薬師 芭蕉句碑~「梅が香に のっと日の出る 山路かな」

                                        落合宿・下の枡形         脇本陣跡           井口本陣跡

                   

卯建のある家              助け合い大釜       善昌寺「門冠の松」       

        

与坂立場跡                                                                   子野の一里塚

                   

御嶽神社 

 <中津川宿> … 広重/木曾海道六拾九次之内・中津川    この「中津川」の図には、俗に「雨の中津川」と愛称される図と「晴れの中津川」とする図の二種類ある。
 前者の「雨の中津川」と称される作品は、稀少価値という点から、また広重の傑作が多いという雨の景であることから、この「木曾街道六拾九次」中、五指にはいる傑作とされる。
 それに対して、「異版」とされる図は、凡々とした草原の中を蛇行する街道が伸び、中津川の宿、その背後に折り重なった木曾の山山、苦労の多かった山間の旅の感想がより深いものとなったことであろう。

四ツ目川橋を境に、宿場町本町と商人町新町からなり、本町界隈には卯建をあげた家並みや枡形の道が残っており、昔を偲ぶことができる。

尾州白木改番所跡              高札場                             中津川駅

                 

 次のルート:⑯中津川宿~大鍬宿         前のルート:⑭上松宿~三留野宿

=おわり=