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個人の 登山、トレッキング、散歩、海外旅行 の記録です。

 2012年9月 南米.ペルー周遊からブログ参加です

・中山道を歩く(18)②<鵜沼宿>-<加納宿>岐阜

2018-02-15 23:59:59 | 中山道

 【2日目】 
 曇り空の2日目<鵜沼宿>から18回目の街道歩きを始める。昨年12月に歩いた宿の東入口・東見附「地蔵堂」まで戻る。 この辺り明治の濃尾地震で壊滅的な打撃を受け、江戸時代の建物は残っておらず新しいものになっているとのこと。でも暫らく宿場風情がある場所を歩く。宿の西見附から先は見るべきものは少なく各務ヶ原になる。国道沿いに歩くが左手は「航空自衛隊岐阜基地」になっていて頻繁にまた突然に爆音を轟かせジェット機が上空真近を飛んで非常にうるさくまたビックリする。   各務ヶ原市役所の食堂で昼食。
間の宿 新加納からはパラパラと見るべきものが出てきて間もなく<加納宿>に入る。今まで聞いたことのなかった「御鮨街道」という道を歩く。また、何回も曲がる道が往時の街道を思わせる。   足の裏に豆ができた人が出てきたが、もうすぐ岐阜駅なのでほっとする。 

 本日は歩数3万4千歩、16.7Kmの歩きである。

 

 <鵜沼宿> … 無款(英泉)/木曽街道・鵜沼ノ駅 従犬山遠望   英泉描くこの図は、犬山からみた構図で、犬山城天守閣と大手門、木曽川越しの山麓に鵜沼宿の家並みが見え、緑の広々とした原は各務原、黄色の山は三井山であろうか。 この画角は『木曽路名所図会』の挿絵と殆んど同じで鵜沼の渡し舟まで同じ位置に描いている。

太田から二里、木曾川の北岸にあって、犬山とむかいあった宿である。  周辺の丘陵は大規模な新興住宅地となり変化が著しいが鵜沼宿は静かな佇まいが保たれ、脇本陣・町屋館・鉄門等がある。明治中期の濃尾地震の被害が大きく、地震以前の建物はわずかに残るだけ。

鵜沼宿・うとう峠道標          高札場(復元移設)

        

 鵜沼宿中央の大安寺大橋       鉄門(大垣城本丸から移設)               旧武藤家住宅の裏庭

            

大安寺大橋が江戸時代風に造られる

旧武藤家住宅:明治24年の濃尾地震で壊滅的被害を受け建物は新しいもの

 町屋館                  菊川酒造         桜井本陣跡に復元建物         二宮神社…円形古墳の上に建つ

                

菊川酒造…創業明治4年 銘酒「美濃地酒篝火」の蔵元

 茗荷屋                   鵜沼宿道標           衣裳塚古墳      津島神社/皆楽座        各務一里塚跡     

                

茗荷屋…梅田家 鵜沼宿で唯一残る江戸時代建築の旅篭

衣裳塚古墳…岐阜県最大の円墳(直径52m、高さ7m)

各務一里塚跡…塚の横に槍ヶ岳開山・播隆上人の名号碑が建つ 碑は濃尾地震で2つに折れた

 

神明神社                                                 神明神社:村社                                              

                             

石敢當

                

 <加納宿> … 広重/木曾海道六捨九次之内・加納   広重描く「加納」の図では、石垣の上に角櫓、そして天守閣までそびえる加納城を遠景に、城主の行列であろうか、威儀を正した行列が街道を行く。広重は日本各地の風景を描く時、大名行列を画中に描いている。しかしこの図のように威儀を正し、行列を整えた堂々とした行列を描いていることは少ない。長旅に疲れて列を乱したり、毛槍を天秤棒のように傾けた奴の姿などをよく描いている。それにくらべ、この図は整然とした行列であるが、何かそれだけという感じの作品
である。

徳川家康は西国大名の反乱に備え、岐阜城を廃して平城・加納城を築いた。そのため美濃16宿で唯一の城下町であった。城下町のため中山道は6カ所で複雑に曲がる。宿の主要部は戦災で焼失し、唯一残った加納新町に古い町並みが残る。

   

                      間の宿・新加納宿        中仙道道標           日吉神社:狛蛙…

                

日吉神社:狛蛙…往時は境内に瓢箪池があり、多数のガマ蛙が生息した にちなむ

                        新加納宿の一里塚跡                    御典医(今尾家)

                    

新加納宿の一里塚跡

御典医(今尾家)…江戸時代、幕府・大名お抱えの医者であった

 善休寺…徳川家が各務ヶ原で狩りの際、宿舎としたため「葵の紋」が許される

            

間の宿・新加納             鵜飼いのマーク                      手力雄てじからお神社 二の鳥居                                             

                             

浄慶寺                                                    切通陣屋跡

                             

切通陣屋跡…中世の長森城跡に陣屋を置いた

 伊豆神社                  細畑ほそばたの一里塚                  伊勢道追分       八幡宮と標石

                

細畑の一里塚…昭和27年に小さく復元され、榎が植わってる

伊勢道追分:地蔵堂と明治9年の道標「伊勢名古屋ちかみち 西京道 木曽路」と刻む(西京は東京に対比する表現)

 長屋門                    御鮨街道道標            加納大橋欄干

                

長屋門

 

御鮨街道道標(排水溝蓋)        加納宿東番所跡碑      加納宿道標          道標          加納城大手門跡

                 

「御鮨街道」…長良川の鮎鮨を5日間で江戸の将軍へ届けると食べごろとなった。岐阜から東海道宮宿までを御鮨街道と呼ぶ 

二文字屋                   脇本陣跡碑         加納天満宮                           岐阜駅

                             

二文字屋…旅篭として江戸初期に開業 欄間に宿賃替わりに左甚五郎が彫ったウサギがあった

       【3日目】  に続く   ……            



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