昨日今日と翻訳がちっとも思うように進まないので、自分でこのblogの過去の書き込みを眺めたりしていたのだが、我ながらひどい文章ばかりだ。それも下手とかなんとか言う以前の問題で、なんというか正気ではないといった感じが、自分で読んでてわかるくらいである。
昨年末にblog再開を予告したときにも書いたことだが、たぶんわたしの頭は耐用年数が尽きかけている。それが気分としては、たぶん老人性のそれに近い「うつ」に、また書いたものの上にはどうしようもない頭の悪さと混乱した文章になってあらわれてきている。
文字通り憂鬱になるしかないような話だが、考えようによってはここからが素人哲学の本領だと言うこともできる。プロの哲学は、特に物理主義者のそれは脳が壊れたらおしまいだろうが、わが素人哲学は最初から「脳はどうでもいい」ので、脳が壊れたら壊れたなりの哲学が、通信工学の用語を使えば「graceful degradation」しながらも続くのである。行き着く先が「優美なる退廃」なら、それは割と望むところであるようにも思える。
しかし仕事はなくなるかもしれない。たとえ哲学は終わらなくても、預金残高的な意味での人生は、それよりずっと前に終わってしまうに違いない。ああ。
昨年末にblog再開を予告したときにも書いたことだが、たぶんわたしの頭は耐用年数が尽きかけている。それが気分としては、たぶん老人性のそれに近い「うつ」に、また書いたものの上にはどうしようもない頭の悪さと混乱した文章になってあらわれてきている。
文字通り憂鬱になるしかないような話だが、考えようによってはここからが素人哲学の本領だと言うこともできる。プロの哲学は、特に物理主義者のそれは脳が壊れたらおしまいだろうが、わが素人哲学は最初から「脳はどうでもいい」ので、脳が壊れたら壊れたなりの哲学が、通信工学の用語を使えば「graceful degradation」しながらも続くのである。行き着く先が「優美なる退廃」なら、それは割と望むところであるようにも思える。
しかし仕事はなくなるかもしれない。たとえ哲学は終わらなくても、預金残高的な意味での人生は、それよりずっと前に終わってしまうに違いない。ああ。