不適切な表現に該当する恐れがある内容を一部非表示にしています

惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

反倫理学講座(2-ε) ─カンニングしよう─

2010年10月31日 | げんなりしない倫理学へ
(1)の話は書いてて面白かったが、いかんせん男のわたしが女性の振る舞いについて書けることはそんなにないわけである。宇宙生物が電車の中で化粧していたといって文句つけるバカはいないだろうと、要はそういうことなのだ。

それで次(2)のネタがこれなのである。副題にそう書いてはあるが、別にカンニングを推奨しているわけではない。

カンニングのような行為が悪だとは、わたしは全然思っていない。でも悪ではないから叱られることもないかといえば、そんなことは当然ありえないわけである。

クビを切るために人を雇っている会社が(いまどきは特に)たくさんあるように、生徒なんぞ処分されるために入学してくるのだと、本音を吐かせたらそう思っているやつが、教師の中には昔から掃いて捨てるほどいるわけである。「かわりはいくらでもいるのだ」と、十代の頃にはわたしもさんざん言われたものだ。誰でもいいということは、自分がそこにいることは、勤め人ならクビを切られるため、生徒だったら処分されるためだというのと同じことだ。

このシリーズにつけられている副題は、そうしろとあるからそうすべきものではなくて、やろうと思えばいつでもできる選択肢としてそれが存在しているということを示唆する目的でつけているわけである。でもそう書くと長くなるから、ずばり「××しよう」と書いてるわけだ。

すでに別のところで書いたから、このシリーズには含めるつもりがないのだが、たとえば「赤信号で渡ろう」とかいうのもあるわけである。それは外れようのない物理法則ではなくて、外れようと思えばいつでも外れてしまえる、愚にもつかない茶番にすぎない。

ただ権力はすべからく、そのような愚にもつかない茶番を介して作用し、作用した先にいる人を愚弄する。なぜそんな形になっているかと言えば、茶番が権力の非対称的な作用関係を作り出す仕掛け(device)になっているからだ。普通に人を愚弄すれば、された方は同格で愚弄し返すこともできる。ところが茶番を介して愚弄された場合、された方は同格で愚弄し返すことができない。権力はすぐに茶番の背後に隠れてしまう。茶番を愚弄したってもともと茶番だから意味がない。

もっと具体的に言ってみる。たとえば権力が誰かを愚弄する文句を紙に書いてポスターとして貼り出したとする。愚弄された当人が怒ってそのポスターを剥がしたとしたら、権力は直ちにケーサツを(後からマスメディアと裁判所も)動員して、彼を「公共物破損の刑法犯」として処刑する。といってそれをそのままにしておけば、彼はいつまでも愚弄され続けることになる。

法治国家と言うが、要はそういうヤクザな仕掛けがいたるところ張り巡らされた暴力装置のことだ。そういう暴力装置の悪は見て見ぬふりをして、カンニングのような些細なイタズラの方はほとんど人の所業か何かのように言いつのるのが、結局は教師だ。

・・・本題に入る前のマクラが長くなってしまって、カンニングの話にならなかった。それで題名の番号からもイプシロン引くことにしたのだが、しかし改めて考えてみるとわたしはとうの昔生徒ではないし、これから生徒になることもたぶんないので、本題の方はそれについて書くほどの切実さがないのであった。どうしよう(笑)。
この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 人生のある人ない人(3) | TOP | 小田内隆「異端者たちの中世... »
最新の画像もっと見る

Recent Entries | げんなりしない倫理学へ