わけの判らないことを言っているわけだが、実際、この先わが国がとめどもなく衰退しっ放しにならないことがあるとしたら、多少無理してでも守った方がいいことのふたつは肉食と科学だと俺は思っている。つまり、わが社会は放っておくとこのふたつをやめてしまいかねない社会だと、俺はみている
肉も食わず、科学を推進することもしないで、互いに倫理的偽善の格好よさそうなことばかり要求しあって、しかもそれにナショナリスティックな自己満足をおぼえるようになったら、それこそ一巻の終わり、最後は何もかも焼け野原にされるだけだ
ゲームって個人で楽しむもんだったろ?いつから置き換わって個人的なステータスで争うようになったんだ?(HighGamers) highgamers.com/archives/37833… 確かにそういう時代はあったのだが、それは相当昔のことだぞ・・・
またその「個人で楽しむ」ものだった時代でも、本当の意味で個人に閉じた行為だったかというと、必ずしもそうでなかった。楽しむのはひとりで楽しんでいるにしても、やってるゲームはなぜそれをやってるかと言えば「みんながやってるから」であったことが多かったはずだ
ゲームでなくてもたいていの娯楽はそうしたものだったはずだ。つまり出版物や放送やなんかと同じ「メディア」としての性格を、ゲーム市場がある程度発達するともつようになっていたということだ
今のゲームがそうでなくなっているとしたら、だから、それはゲーム自体の変化というよりは、メディア伝達ということの全般的な停滞とか衰退とかを反映しているとみるべきなのかもしれない
メディア伝達というのは伝達としては一方向性だが、実際には大気循環のように巨大な、また開かれた循環だ。一方向性だからそうなるのだし、そこに意義があったのだが、それを双方向とか対戦型とか「ステータスの争い」とかにすることは、循環の規模を際限なく小さく、コンパクトにしてしまうことになる
もちろんそんなことは個々のゲームの面白さということとは直接かかわりのないことで、循環が小さくなったからいけないということはない。メディア的性質を持っていたのはおまけであって、ゲームはゲームなのだ
ただ、その変化によってゲームのようなものが社会に占める位置とか、その性質とかがずいぶん変わってしまうことになるのもまた避けられないことだ。そしてそれは確かにずいぶん変わってしまったのだろう
ゲームというほどのゲームはやらなくなって久しい年寄りの俺から見れば、ゲームの世界がどうなっているかということは一義的な関心を惹かないことになってしまっている。それはだいぶ前からゲーム業界とその顧客で閉じられた世界で、その外にいる者には真剣にどうでもいいものにしか見えない