惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-Apdx(02)

2012年04月12日 | THN私訳
付録(承前)

わたしの考えでは、以上の結論を作れる可能性が存在するのは、「信念とは、(単なる考えである場合は別として)その考えとは区別することができるような、ある印象または感じである」と主張する場合だけである。(その場合)信念は考えを変化させない(修飾しない)。(考えを)より間近にすることもしない。強烈にすることもしない。信念はまったく考えに結びつけられているだけのものである。意志や欲望が個別的な善ないし快の考えに結びつけられているのと同じように、である。とはいえわたしは、こうした仮説は、以下のような考察で十分に退けられるであろうと思っている。

(I) 端的に、この仮説は経験に反している。また直接的な意識にも反している。すべての人が認めてきたように、推理とは単に思考ないし観念の作用にすぎない。そして、その観念を感じの上でどんなに変化させようと、観念すなわちより弱い(fainter)考えのほかに、結論に入ってくるものは何もない。たとえば、いまわたしは自分がよく知っている人の声を聞くとする。その音(声)は隣室の方から聞こえてくる。この感覚の印象は、わたしの思考を直ちにその人物や周囲のすべての物へと伝える。わたしは、以前にそれら(の物や人)が持っていたことを知っている性質(quality)や関係と同じ性質や関係を保ったままで、いまも存在するものとして、それら(の物や人)を自分に対して描き出す。これらの(人や物の)観念は、魔法の城(のような空想)の観念より素早く(しっかりと)わたしの心をとらえる。それら(前者と後者)は感じの上で異なる。とはいえ、別個な印象とか分離した印象がそれら(前者)に伴って存在するわけではない。わたしが旅行中の事件や歴史上の出来事を思い出すときも同様である。その場合は個別的な事実のすべてが信念の対象となる。その(事実の)観念は、夢想家が思い描くいい加減な夢物語とは異なる修飾を受ける。とはいえ、事実についての観念や考えのひとつひとつに別個な印象が伴っているわけではない。これは(あくまで)平凡な経験の主題である。仮にこの経験が議論の種になりうるということがあるとすれば、それは、もともと心が疑いや困難によってかき乱されていて、その後、対象を新しい観点から見直すとか、あるいは新しい論拠とともに示されるかしたことで、心がひとつの確固とした結論と信念に定着する(fix and repose)というような場合である。この場合には、考えとは区別され、分離された感じが存在する。疑いや混乱から平穏や平静への移行は、心に満足と快感を伝えるものである。まあしかし、別の例でやってみよう。いまわたしはある人の脚と腿(モモ)との運動を見ているとする。身体の残りの部分は何かで遮られていて見えないものとしよう。この場合、想像はその人の全身の姿を心に展開することは確かである。わたしは(想像の中で)彼に頭を、肩を、胸を、首を与える。わたしは彼がそれらの身体部位をもつと思うし、そう信じもする。これらの作用のすべては思考と想像によってのみ行われる。これより明白なことはありえないであろう。この推移は直接的である。観念はすぐに(presently)心を打つ。それら(観念と現在の印象)の習慣的な結合は、ある程度までは観念を変更し、修飾する。とはいえ習慣的な結合が、その考えの特質(peculiarity)と区別されるような心の働きを生み出すわけではない。ウソだと思うなら自分の心に訊ねてみてもらいたい。(わたしの言ってることが)本当である、とはっきりわかるはずである。

(II) この別個な印象なるものがどのようであるにせよ、心はそれが事実であるとするものをフィクションよりもしっかりと把握する、つまりより安定したかたちで思うということは、認められなければならない。だとすると、なぜそれ以上に探さなければならないのか。つまり、必要のない考えをさらに重ねなければならないのであろうか。

(III) 我々は、しっかりした考え(the firm conception)がどうして生じるかの原因を説明することはできる。けれどもそこに何らかの別個な印象が伴うことの原因は説明できない。それだけではなく、この「しっかりした考え」が生じる原因は、その全体が主題のために費い尽くされて、その後に他の何かの結果を生み出すものを残さないのである。事実に関する推論とは、現在の印象と頻繁に連接あるいは連合する対象の観念にほかならない。それが(事実に関する推論の)すべてである。すべての部分は安定した考えを類比によって説明する上で必須であって、別個な印象を生み出しうるようなものは何も残らないのである。

この(II)とか(III)は正直何を言っているのかわからない。

(IV) 信念の効果、すなわち信念が感情や想像に及ぼす影響は、すべてこの「しっかりした考え」によって説明できる。他の何らかの原理にすがらねばならない機会はまったくない。

以上の4つの論証は、先に公刊した2巻で列挙してきた他の多くの論証とともに、信念は観念や考えを修飾するだけのものであること、つまり別個な印象を生み出すものではなく、(観念や考えの)感じを違ったものにするものであるということを、十分に証明するものである。

かくして主題を通観すると、ふたつの重要な問題が浮かび上がってくる。敢えて哲学者の方々に考えていただきたいものである。

(1) 感じやキモチということのほかに、信念と単なる考えを区別する何かが存在するのか、しないのか。
(2) この「感じ」は、対象についてのしっかりした考え、つまり対象をしっかり把握すること以外の何かでありうるのか、それとも、他の何物でもありえないのか。

もし公平な研究の結果として哲学者がわたしと同じ結論(を得て、それ)に同意するのであれば、次の仕事は、信念と他の心の働きとの間に存在する類比を検討して、考えに確かさと強さをもたらすその原因を見出すことである。それは、そんなに困難な仕事だとは思わない。現在の印象からの推移はいつでもあらゆる観念を活気づけ、強める。ある対象が心に現れたとき、その対象に通常伴う対象の観念は、確固として実在する何かとして直接的に心を打つ。それ(観念)は思われるというより感じられるのであり、その勢いや影響力は観念のもとになった印象に近づく。これはわたしが(第三部諸節およびこの付録で)十分に証明したことである。(だから今や)つけ加えるべき新たな証明はない。ただ、次からの各文をそれぞれ指定した場所へ挿入すれば、原因と結果に関するこの問題の全体についてのわたしの推理は、おそらくより説得力を増すことになろう。(あと、ついでに)その他必要と思われる点について若干の説明を追加しておいた。※

※これ以下に書かれた挿入すべき内容は、訳文中の指示された通りの位置に挿入する(一部はすでに挿入してある)。挿入した個所には「付録の指示に沿って挿入」等の断り書きをつける。

(つづく)
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