惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

※ケチャップ注意※

2010年11月10日 | 他人様の絵貼らぬでもなし
ケチャップだから仕方がない「フランちゃんウフフ」なイラスト。

(リンクと画像は「ニコニコ静画」/スギメノ様)
※縮小・背景色調整済

原寸大の(背景色が純白の)原画像はリンク先でどうぞ。

作者の人は、普段は可愛いらしい絵を描いていらして、そっちも大変いいのだけれど、なんでかわたしはこれが気に入ってしまった。グロ耐性は低い方なのになぜか時々こういう絵が気に入ってしまう。生来がヤンデレ好みなのかもしれない。



いくぶんか弁解めくことになってしまうが、わたしの考えでは(描く側はともかく、眺める側にとっての)萌え絵というのは、その人の自己愛の(対象化ではなく)それ自体(こちら側の、つまり主体)にほかならない。もっとはっきり言えば、たとえば上の「ケチャップまみれ」なイラストがわたしには大変好ましい絵に見えるのは、その絵の上に非常な美化された自分自身がいるからである。

世の中にはたとえば、手足バラバラのぎったんぎったんなグロ絵みたいなものばかり好んで眺める、あるいは蒐集する人がいたりするわけだが、その人にとってそれが「萌え」であるならば、それもその人の自己愛の(対象化ではなく)それ自体(こちら側の、つまり主体)である──そうだとすれば、それはある意味で非常に恐ろしいことを示唆していることになるわけだが、この示唆が実際に何かを意味するか、しないのかは、そのグロ絵大好きな当人が考えるべきことである。かわりに考えてくれる人はいないのだから。

グロ物体が「視覚的な対象物(object)として」美を構成するということはありえないとわたしには思える。にもかかわらず、それがある人にとっては疑いようもなく美を構成するのだとすれば、それは対象ではなくそれ自体(こちら側の、つまり主体)であって、主体(subject)が美を構成するとはすなわち自己愛だと考えるのが最も妥当な解釈ではないだろうか。そういう理屈である。まあ、他人のことなんてほんとは判らないけど(笑)。これでも結構真面目に考えた素人哲学の「萌え美学」における結論なのである。

描く側にとってはどうかというのは、わたしは自分でそういう絵を描いたことがないし、描こうという気になったこともないのでよく判らない。そういう絵の上手な人が絵描き友達の中にいればよかったんだけど、いなかったんだよ。残念。
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