惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-4-05(01)

2012年03月23日 | THN私訳
4-05 精神※の非物質性

この節題は原書では「Of the immateriality of the soul」となっている。当初この「soul」は「魂」あるいはカタカナで「タマシー」と訳していたのだが、本節の大槻訳を打ち込んでいるうちにこれは「精神」と訳した方が通りがいいと思われてきたので、以後そうする。

我々はふだん、外的な対象に関する体系とか、物質の観念といったものは、まったく明晰かつ明確なもののように思っている。けれども(前節で見た通り)それらはとんでもない矛盾と困難をはらむものであったわけである。そうすると自然に期待されることは、内的な知覚に関するすべての仮説、(したがって)また心の本性ともなれば(それらはもともとぼんやりして不確実なものだと想像されがちなものであるわけで、)もっとひどい困難と矛盾に満ちているであろう、ということである。それは、しかし、思い違いなのである。知性的世界(the intellectual world※1)はどこまでもぼんやりしたものではあるが、自然的世界について発見されてきたように矛盾に満ちたものではないのである。それ(知性的世界)について知られるものはすべてつじつまが合う。そして、知られないものについては放置しなければならないのである※2。

※1 これは従来「叡智的世界」と訳されてきたものである。大槻訳もそうなっている。しかしいまどきintellectualを「叡智的」とは、ひどく大袈裟に感じられる。またヒュームに限らず経験主義の伝統は大袈裟を嫌うものであると思う。わたしはそう思うので、ここは現代の常識に沿って知性的世界と訳してみる。実際、このためもあって第一部の表題にあるunderstandingを極力「知性」とは訳さないようにしてきたのである。
※2 この言い回しはどっかで聞いたような、というか、ヴィトゲンシュタインの例のあの「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」を想起させる。分析哲学とか言語哲学とか英米哲学とか、近年の展開をひとまずおけば、要はそれらの根柢にあるのはヒュームの経験主義哲学なのだというのは、きっとこういうところなのである。

(もっとも、)何人かの哲学者の言い分によると、彼らは(主題に関する)我々の無知を減らすと請け合っていたりするわけである。それは安請け合いではあるまいか。(それを鵜呑みにすることは、)せっかく主題自身が免れている矛盾に、かえって我々を陥いらしめることになると思われる。(だいたい、)これらの哲学者は、心的な知覚が(ある本体に)固有である(inhere)として、この本体なるものは物質的なのだ、いや非物質的なのだ、などという珍妙な考察を行う人々なのである。どっちもどっちである。あの延々と続く重箱の隅の突っつきあいを打ち切らせるにはどうすればよいか、わたしが知っているよい方法はひとつしかない。それは、これらの哲学者に向かってこう問いかけることである「その本体とか固有性(inhesion)というのは何のことだ?」と。彼らがこの問いに答えられるものであるなら、大真面目な顔して論争に加わることも悪くはあるまい。答えられないなら(答えられるとは思わないのだが)放っておけばいいのである。

本節内のinhere/inhesionを固有(である)/固有性と訳す。大槻訳では内属と訳されていて、たぶんわが国の哲学では伝統的にそう訳されてきたのではないかと思われる。それを用いないのは、例によって「何のことかわからない」からである。これらの英単語は通常「生まれつき」あるいは「固有の」という意味で用いられるが、ここでの議論を考慮すると「本体」は生き物であるとは限らないので、後者がより適切であろうと判断した。

(さて、)この問いはすでに(4-03)見てきた通り、物質や物体に関しては答えることができない。そして心に関して同じ問いを向けたとすれば、同じ困難をそっくりそのまま負わなくてはならない上に、さらにこの主題に特有の困難まで、いくつか余計に背負い込む羽目になるのである。すべての観念は先行する印象に由来する。(したがって、)我々が心的な本体の観念をもつものとすれば、それに先行する印象もなければならないことになるわけである。そんな印象を思いつくかと言って、それは不可能ではないとしても非常に困難なことである。なぜなら、ある印象が本体を表象するということがありうるとして、それは前者が後者に類似することである以外にありえようか。件の哲学によれば、印象は本体ではない、それは本体に特有の性質とか特徴というようなものは何も持たないというのである。だったら印象が本体に類似するということもありえまいことである。

しかし、何が存在しうるかしえないのか、そう問うことはやめておこう。そうではなくて現実に存在するものは何なのかを問うてみよう。これらの哲学者たち──我々は心的な本体の観念をもつのだと言って承知しない人々──に対してわたしが望むことは、その観念を生み出す印象は何か、それを示すことと、それから、それ(印象)は(心に)どう作用するのか、それが由来する対象は何か、それをよく判るように言ってくれ、ということである。それ(印象)は感覚の印象なのか、反省の印象なのか。快なのか、苦なのか、あるいはなんでもないのか。それは常に我々(の心)の中にあるものなのか、ときどき心を訪れるだけのものであるのか。後者であるとして、だいたいどんな時にやってくるものなのか、そもそも何しにやってくる(どんな原因によって生み出される)のか。

(あるいは、)この問いに答えるかわりに、次のように言って上の困難を回避しようとする人がいるかもしれない。すなわち「本体とはそれ自身で存在するようなあるものである」と。我々はこの定義で納得すべきなのであると。こんな(ちょぼくさい詭)弁を弄する人に対してはこう言おう。こんな定義は思うことのできるものなら何にでも当てはまってしまうわけである。(したがって)本体とおまけが、あるいは精神とその知覚が、この定義によって区別されることもありえないのである。わたしの考えは次の通りである。

(1a) 何であれ、明晰に思われるものはすべて存在する。
(1b) 何であれ、あるしかた(manner)によって明晰に思われるものは、すべて同じしかたによって存在する。
(2) すべての異なるものは区別でき、すべての区別できるものは想像によって分離できる。

いずれも承認済みの原理である。このふたつの原理から引き出すわたしの結論は次の通りである。すなわち、すべての知覚は互いに異なり、かつ、宇宙の(※自然の?)他のいかなるものとも異なる。したがって、それら(知覚)は別個で分離できるのであり、分離して存在すると思うことができるのであり、(実際)分離して存在できるのであり、それらの存在を支持する(※それらに先立つ)他の何物も必要としない。ゆえに、それら(知覚)は(以上の定義が本体を説明するものである限りにおいて)本体である。(※だがこれは、件の哲学者たちが「印象は本体ではない」としていることとは相容れない)

(つづく)
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