惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

THN1-3-14(10)

2011年11月29日 | THN私訳
3-14 必然的な結合という観念(承前)

だがもう一度、同じふたつの対象が常に連接しているような例をいくつか見てみる。そうすると(3-06)我々は直ちに対象の間の結合を思い、一方の対象から他方への推論を行い始めるのである。まさしく、こうした類似例の重複こそが、力や結合の本質を構成し、力や結合の観念を生み出すもとになっているのである。そこで我々は力の観念を理解するために、この重複について考えてみなければならない。一方、これまでさんざん苦しめられてきた例の難問に答えるにあたって、わたしはこれ以上を問わない。なぜか。次のように考えるからである。完璧に類似した事例のくり返しは、それだけでは、個別的な事例から見出されるであろう観念と異なるような、ある基底的(original)な観念を生みだすことはできない。このことはすでに(3-06)述べた通りである。あらゆる観念は印象から模写される、という本論の根本原理に照らして明らかにそうなるはずのことである。力の観念がいかなる事例のもとにもない、新規の基底的な観念であって、それが複数例のくり返しから生じるのだとしたら、その「くり返し」は単独でその結果を持つのではなく、その観念の源である、ある新規なものを発見するか、生み出すのかするのでなければならない。くり返しが新規な何も発見しないし生み出しもしないとすれば、このくり返しは観念を積み重ねるだけで、ただ1例から見られる以上に観念を拡大することはしないはずである。だから、類似例の重複から起こる(観念の)拡大はすべて重複ということから生じる何かの結果からの複写であり、また、これらの結果を知ることによって完璧に知られることになるのである。くり返しによって新しい何かが発見されるか生み出されかする、我々はそれに気づくと常にそこに力を認めるのであって、それ以外のどこにもありえないのである。

(つづく)
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