惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

〈分布〉論への展望なのか何なのか

2011年02月17日 | チラシの裏
ある対象をそれ自体として捉えようとすると、それが確定したひとつの像ではなく、ただ〈分布〉としてしか捉えることができないということがある。その典型的な、ある意味ではよく知られている事例のひとつが量子力学の不確定性原理である。

「ある意味ではよく知られている」ので、その不確定性原理を人文・社会的な領域の事柄にも適用して何か述べようとすることは、たとえば以前このblogでも途中まで論じた大澤真幸「量子の社会哲学」もそのひとつに含めて、しばしば行われているわけである。でもまあ、だいたいはなかなかうまく行かない。そしてうまく行かない分は全部「トンデモ」だという風に、読者の方からはどうしても見えてしまうことになるので、それを試みようとする人にはひどく損な戦略ではある。

不確定性原理は数理として見ればきわめて簡潔かつ厳密に定式化されているのだが、本当のことを言って一般的な論理形式としては今でもそれほどうまく定式化されているとは言えないような気が、わたしはしている。実際そうだからこそ、そのまま横滑りさせることなどできるわけがない物理学としての量子力学を、非物理学である人文・社会学的領域に横滑り的に適用してみようという無謀な試みが、ちょくちょく出現するのだろうと思われる。

わたし自身も似たようなことを考えているわけだから「気持ちは判る」と言いたいわけだが、そうとばかりも言っておられないのは、それは実際読者の大勢に「トンデモじゃないか」という反応しか引き起こさないし、それがひいてはある種の形而上学的反動とでも言うべきものを引き起こしてしまうからでもある。つまり対象が〈分布〉としてしか捉えられないということそれ自体を否定して、存在するものはすべて確定的な表象(記号)とその有限な(あるいはたかだか可算な)組み合わせに還元されるとみなし、あげくに当該の対象を概念ごと消去してしまうという形の反動である。

ややこしいのはそのまた反動というべきものもまた存在するということで、その典型のひとつがいわゆるポストモダン思想だということになる。要はその反動的な還元主義は結局成功しないということを、還元主義の方法が破綻するところを示すことによって示す、という、要するに背理法である。これ自体は必ずしもおかしな手口ではないわけだが、問題なのは、そうやって還元主義的反動を否定したからと言ってもとの〈分布〉が復活するとか、弁証法的により深化した形で現れるというわけでは全然ない、ということである。それこそ分布の形で言えば一様分布、つまりあらゆる可能性がまったくベタに均一に存在するという虚無主義をありとあらゆる場面で主張することに、結果的にはなってしまうことである。

現代思想・哲学は大勢としてはこうした還元主義と虚無主義の間を、それぞれの流行の機会的に行ったり来たりすることを反復しているわけである。だが現実は還元主義的な思考の行き着く有限要素と規則の茶番ではないし、もちろん虚無主義的な白色一様雑音でもない。誰もそんな現実を生きてはいないし、少なくとも自分はそのつもりではないと思える限り、〈分布〉論は何度でも再考されるべき理由を持っている。
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