惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

ひょっとすると(番外)

2011年09月11日 | 読書メモ
このシリーズで考えていたようなことを専門の精神科医がどんな風に見ているかは、この本にだいたい書かれているような気がする。

時代が締め出すこころ――精神科外来から見えること
青木 省三
岩波書店
Amazon / 7net

どうしてこの本が唐突に出てくるかというと、Webやtwitterをいろいろ検索しているうちに、ある人が「中井久夫センセイがこの本はいいと仰っていた」と呟いていたので、じゃひとつ読んでみるかと思って読んでみたわけである。もちろんわたしは精神医学についてほとんど何も知らないので、この本について踏み込んだコメントを書くことはしない。Amazonの書評にしてもWebのあちこちで書かれている書評でも、概ね好評のようである。

ひとことでまとめてしまえば「広汎性発達障害」ということになる。まあ文字からしてひどく漠然とした診断名ではある。著者にしても、そういう診断を下すには下すにしても、「世が世ならこれは発達障害でも何でもないし、普通に暮らせる人達であったはずだ」というようなことも繰り返し述べていて、それが題名になっているわけである。

この本の中で著者が書いている自らの体験の中に、わたしが言おうとしているようなまさにそのものに近いことが書かれているので、それを引用しておく。

彼を診察して、私(著者)は20年前、ロンドン郊外のベスレム王立病院にある青年期精神医学専門の青年期ユニットに留学していた時のことを思いだした。早口の英語でやりとりされ、断片的にしか理解できないミーティングに、朝から夕方まで参加していた。しだいに強い疎外感や孤立感を感じるようになっていった。それだけでなく会話の内容を充分に理解できていないことを皆に馬鹿にされているように思えてきて、恐怖感にも似た思いを感じるようになった。話の中で皆が笑い、その笑いに取り残された時、あたかも自分が笑われているようにさえ感じるようになった。日本で仕事をしていた時のような連帯感もなく孤立していた。少なくともそう思っていた。

いつまでたっても進歩しない自分の英会話能力に、自分のアパートから一歩も外に出たくないような気持ちにさえなったが、その中でひとつ分かったことがあった。理解できていないのは言葉としての英語だけではない。英語の背景にある、イギリス人の表情や態度、考え方、人間関係の持ち方、それに加えて議論のポイントや展開が日本でのミーティングと異なり、大きな流れが読めなかった。困っている人への姿勢、当たり前と思っていた治療や援助の文化も違っていたのである。まさにイギリスの文化そのものが、理解できていないということが分かったのである。それだけでなく、言葉の背景にある文化がその場面でかもしだす空気や雰囲気が読めないから、簡単な英語でさえ聞き取れないし、伝わる英語がしゃべれない、というごく簡単なことに気づいたのである。(pp.77-78)

むろん著者は日本人の言語能力がもともと低いという風には考えていないし、書いてもいない。あくまでも近年における日本社会の変化がもともとなかった種類の障害とその症状を生み出しているという線で見ている。

わたしの方は、専門家の冷静な見方というのはまずはこのへんにあるのだということを踏まえた上で以後も考察を続けたい。もっともこのシリーズ題(ひょっとすると)で書くのはこれで終わりにする。

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CSRもMSWも訳さないで批判的考察とはいい度胸だ

2011年09月09日 | 読書メモ
買う予定だけどな。
規範とゲーム: 社会の哲学入門
中山康雄
勁草書房
Amazon

題名の意味が判らない人のためにAmazonに掲出されている目次をコピペしておく。もちろん宣伝も兼ねているわけだが、題名の非難(そう非難だ)は機会あるごとに何度でも言う。

  まえがき

  I 言語哲学を基盤にした社会的現実性の分析

  第一章 言語ゲームと法
   1 ヴィトゲンシュタインの言語ゲーム
    「言語ゲーム」って何?
   2 ハートの法哲学
     ハートが言語ゲームに付け加えたもの

  第二章 言語行為論と行為の社会理論
   1 サールの言語行為論とその修正
    「言語行為論」って何?
   2 ハーバマスとサールの論争
     少しすれ違っているみたいだ
   3 ハーバマスの普遍語用論を批判する
     いいところと悪いところ

  第三章 サールの社会存在論
   1 サールの社会存在論の構想
    「社会存在論」って何?
   2 権力概念の分析
     権力がうまく説明できてるの?
   3 批判的考察
     いい線いってるけど、ちょっとおかしい

  II 規範とゲームについての哲学的分析

  第四章 規範体系とは何か
   1 道徳原理とは何か
     何が正しいか、どうやってわかるの?
   2 従来の規範的推論の分析とその問題点
     ちょっと変だなと思うところ
   3 規範体系論理学の提案
    「やらなくちゃ」、「やっちゃだめ」、「やってもいいよ」
   4 規範体系についての考察
     そんなことはやっちゃだめだと、みんなわかってるよ

  第五章 ゲーム体系とは何か
   1 ゲーム体系の基礎理論
     ゲームはおもしろくてやみつきになる
   2 一人ゲームの分析
     クロスワードパズル
   3 二人ゲームの分析およびゲームの多様性
     将棋や百メートル競走
   4 野球の分析
     三番サード長嶋、三振、ワンアウト
   5 高校野球とプロ野球
     日本シリーズ優勝を目指して

  III 社会生活における規範とゲーム

  第六章 社会生活を支える規範とゲーム
   1 文化の基盤としての規範とゲーム  
    「アーメン」、「アラーの神」、「南無阿弥陀仏」
   2 言語行為と規範
    「これからは絶対、浮気はしません。約束します」
   3 科学活動とゲーム体系
     二番じゃだめなんです、一番にならなくちゃ

  第七章 社会組織とゲーム体系
   1 社会組織概念の規定
     大学の先生って暇でいいな
   2 社会組織のゲーム的構造
     僕のおやじはいまだに平社員さ
   3 錯綜するゲーム体系
     バイト優先か、授業優先か

  第八章 社会的行為と法体系
   1 法体系と規範体系
     故意に他人の権利を侵害してはならない
   2 法的推論
     人を殺したものは三年以上の懲役に処する
   3 裁判のゲーム構造
     第一審の公判手続きに勝訴する

  第九章 経済活動とゲーム体系
   1 経済活動におけるゲーム
     お菓子を買うことだってゲームだぞ
   2 ゲーム理論とその応用
     囚人のジレンマは深刻だ
   3 経済活動と法体系
     もうかったのはいいけど、税金を払わなくっちゃ
   4 〈規範とゲーム〉の哲学の意味
     やっぱり哲学は大切だ

  付録1 規範体系論理学の規定
  付録2 ゲーム体系の規定
  註
  あとがき
  文献表
  人名索引/事項索引

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世界破レテ平均寿命アリ

2011年09月07日 | 読書メモ
心細く言えば、人間は終わりが近づいているくらい悲観的なものですが、でもここまで来たら悲観しても収まりがつくものではないわけで、この道を行くしかないのですね。

人間は滅亡が近いよなと悲観したくなる中で、一つだけ奇妙に希望を持てる確かなことがあるとすれば、それは人間の平均寿命についてだと思います。人間の寿命は今後短くなることはないんです。不思議なことだと思いますが、人殺しの武器も発達させ、危険極まりないものを作っても、平均寿命の伸びが止まる兆候はないんです。人間の生物としての生命や寿命が衰える兆しはどこにもなくて、極端なことを言えば、宮澤賢治の言うように、いつかは宇宙と同じ長さの現象を生きることになるよ、という文句の方が通りがいいかもしれません。遠からず平均寿命が百歳以上になるのは自明の理だと思います。人間や人類はどこで終わるかを考えれば、宇宙が壊れたら終わりです。そのことをきちっと考えてゆけば、そんなに悲観することもないよということになると思います。個人的には、いいことは一つもないよと言いたいところですが、その中で希望があるとすればそのことだと思います。

(中略)朗らかな気分になるようないい兆候というのはこの日本でも世界を眺めても、どこにもないと思っています。あと何年生きるか分かりませんが、ではどういうつもりで生きるのかと言えば、現在の状況というのを反芻し、思いを改めたりしながら考えてゆくのだと思います。外から自分に被さってくる問題は、それをいい方向に向けることに力を注ぐよりも、突きつけられたことを一所懸命考えてゆくことはできると思います。その時に、自分で自分を萎縮させることは言ってもしてもいけないなと、自戒しています。

吉本隆明「人類は危ない橋をとぼとぼ渡っていくことになる」
/「思想としての3.11」河出書房新社
Amazon
/ 7net

わたしには吉本が「正しく絶望せよ」と言っているように聞こえる。平均寿命が希望だとは言いながら、近々の未来について言えば吉本はこの世界について今や絶望以外の何も見ていない。そうとしか思えない。にもかかわらず、どうも理屈もあまり通らなそうな平均寿命などを取り上げて希望だなどと称してみせるのはなぜなのか。わたしには、吉本は自身の戦中から敗戦にかけての心情を震災後の日本と世界に重ねているように思える。つまり敗戦はそのまますべての終わりであったはずなのに、実のところ何ひとつ終わりはしなかった異様な体験とその反省を、吉本はここでどうしようもなく行き詰まってしまったように見える世界と人類の文明すべてに拡大して再考している。わたしにはそう思える。



上掲書は、後ろの方は反(脱)原発の戯言だらけである。お前らは要するに震災直後から地上波テレスクリーンばっかり見漬かってたせいでアタマがおかしくなってんだ、と言うよりほかにないことである。ゆえにこの本は全体としてはオススメする気には全然なれないのだが、そうは言っても最初の方の何人かはさすがに読みごたえのあることを書いている。大丈夫なのかと案じていた木田元の原稿も、読んでみるとそうひどくはなかった。ハイデガーが生きていたらもっとひどいトンチンカンなことを言っていそうな気がするわけで、まあいいじゃないか。

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吉本隆明「『反核』異論」抜粋

2011年08月25日 | 読書メモ
今日は特に何もする気がしない(THN私訳はあとでやるけど)ので、前々からやろうと思ってやっていなかった「『反核』異論」の抜粋をやってみる。

「反核」異論 (1983年)
吉本 隆明
深夜叢書社
Amazon

以下の文章は基本的にある人物(引用されている文章の書き手)の思想を批判しているものだが、その人名はすべて省略した。その理由はふたつある。まず、以下は30年前の文章である。吉本の方は基本的に変わっていない、最新のインタビューでも「発達してしまった科学を、後戻りさせるという選択はあり得ない。それは、人類をやめろ、というのと同じです」と語っているわけだが、批判されてる側の当人は考えを変えているかもしれない。そうだとすればいまさら名前を挙げるのは気の毒だということがひとつ。もうひとつは、ここで批判されている思想は現在の反(脱)原発左翼テロの全員がほぼ共有しているものだと言っていいから、自分が反(脱)原発支持だと思うものはここに自分の名前を代入して読んでみればいいと思うからである。



「『反核』運動の思想批判 番外」より(pp.58-62,1982)

「最近の核の軍事開発が、中性子爆弾や粒子ビーム兵器・レーザー兵器を産み出していることは、周知のとおりである。ところで、この核の軍事開発(プルトニウムの生産)にはじまり、核化学技術の開発(廃棄物の再処理技術・プルトニウムの再処理)、そして濃縮技術の開発(ウラン235の濃縮)とつながる一連の核エネルギー開発、すなわち核の平和利用だった。核の平和利用をめざす科学技術者の核開発技術、吉本流にいえば科学による物質エネルギーの解放は、そのまま核の軍事利用に応用されたのである。」(「週刊読書人」時評Oct.04,1982)

「岩波」式パンフレットをひき写したど阿呆の云い草にすぎぬ。この云い草を延長してみればそのど阿呆ぶりは、すぐわかるというものだ。例えば一本のネジ釘、ボルト、ナット、テレビや電子時計の材料部品や半導体素子は、すべてそのまま核兵器その他の軍事兵器の生産にすぐ利用できる軍事物資だ。だからこれらの生産や工作研究は、いっさいやめるべきだといったら、どんな人間でも失笑するだろう。だが(人名略)が主張しているのはそんなお笑い草なのだ。「核」エネルギイの「本質」を欠いた、こんな洞察では、どこまでいっても「反原発」の根拠へなどゆきつくはずがない。(人名略)の言辞に象徴される進歩や左翼を装った反動主義の錯誤は、もっと別の比喩でおき代えることができる。

マルクスの『資本論』は資本主義経済社会の本質的な解明にあたっている。それは資本主義的商品生産がどこから利潤を生みだすのかの基本的な根拠を明らかにしている。もちろん資本家が利用しようとして読めば、どうやったらより高い利潤をあげられるかの方途に利用できるのは当然だ。だからマルクスの『資本論』は敵に利用され、労働者の死を促進する。それを防ぐには資本主義の解明など一切やめて、マルクスの『資本論』は焚書にすべきだ。(あるいはマルクスは自民党とおなじだ。)こう易しく置き代えたら、どんなど阿呆な(人名略)でも、論議の反動性に気づくはずだ。もちろんマルクスが資本制生産の解明が「社会」の「科学」であると信じ、序文で宣明しているのは「科学」が政治や党派にたいしてニュートラルだといいたかったのではない。「科学」が本質的には自然の解明であり「社会」にも自然史の延長として解明して大過ない「本質」的な性格を示す部分があり、その範疇でだけ、「社会」の経済学的分析をじぶんがやっていると信じたのだ。もちろん「核」エネルギイの解放もまったくおなじことだ。その「本質」は自然の解明が、分子・原子(エネルギイ源についていえば石油・石炭)次元から一次元ちがったところへ進展したことを意味する。この「本質」は政治や倫理の党派とも、体制・反体制とも無関係な自然の「本質」に属している。この「本質」を政治や倫理と混同すれば、(人名×2略)のように暗黒主義や原始主義の陥穽にかかってしまう。(中略)

「放射性物質は、その放射能が半減する半減期が、いちばんみじかいものでセシウム137の30年、プルトニウム239にいたっては、何と半減期が24360年である。いま日本に蓄積されている放射性物質はドラム缶で50000本をとうにこえており、この南太平洋への海洋投棄がおおきな政治問題化しているのも、周知のことだろう。核エネルギー開発をこれ以上すすめていくのかどうか、この選択以上に政治的な問題はない。」(同前)

知ったかぶりをして、つまらぬ科学者の口真似をすべきではない。自然科学的な「本質」からいえば、科学が「核」エネルギイを解放したということは、即自的に「核」エネルギイの統御(可能性)を獲得したと同義である。また物質の起源である宇宙の構造の解明に一歩を進めたことを意味している。これが「核」エネルギイにたいする「本質」的な認識である。すべての「核」エネルギイの政治的・倫理的な課題の基礎にこの認識がなければ、「核」廃棄物汚染の問題をめぐる政治闘争は、倫理的反動(敗北主義)に陥いるほかないのだ。(人名略)の言辞に象徴される既成左翼、進歩派の「反原発」闘争が、着実に敗北主義的敗北(勝利可能性への階程となりえない敗北)に陥っていくのはそのためだ。こんなことは現地地域住民の真の批判に耳を傾ければすぐに判ることだ。半衰期が約24000年だから、約50000年も放射能が消えないプルトニウム廃棄物質にまみれて、あたかも糞尿に囲まれて生活するかのような妄想を、大衆に与えるほかに、どんな意味もない。いいかえれば開明によってではなく、迷蒙によって大衆の「反原発」のエネルギイをひき出そうとする闘争に陥るほかないのだ。

(一文省略の上、次文冒頭の人名略)は核エネルギイの開放の「本質」が、即自的に宇宙の構造の解明、いいかえれば物質の起源への接近の一歩の前進にあたっているという本質論を欠いている。そのため途方もない「核廃棄物終末論」の袋小路につんのめっている。あとは躓いて倒れるほか道はない。(人名略)に専門的認識を要求してもはじまらないが、現代物理化学のイロハでも知っていれば、「核」廃棄放射能物質が「終末」生成物だなどというたわけ果てた迷蒙が、科学の世界をまかり通れるはずがないのだ。宇宙はあらゆる種類と段階の放射能物質と、物質構成の素粒子である放射線とに充ち満ちている。半衰期がどんな長かろうと短かろうと、放射性物質の宇宙廃棄(還元)は、原理的にはまったく自在なのだ。この基本的な認識は、「核」エネルギイの解放が、物質の起源である宇宙構造の解明の一歩前進と同義をなすものだという本質論なしにはやってこない。(人名略)のような機能的な政治主義エコロジストに捉えられるはずがない。だから「放射性物質のような非更新性のエネルギーは、それ以上の再処理の仕様がないのだ」という「核廃棄物質終末論」に陥ちこみ、その反動として「のこされた道は、更新性のエネルギーに依存して(つまり石油・石炭・薪・木炭生活ということか?)生態系の物質循環のなかで定常的な生活」を夢みる暗黒主義者、原始主義者に転落してしまうのだ。

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W・ライカン「言語哲学─入門から中級まで」(勁草書房)

2011年08月01日 | 読書メモ
言語哲学―入門から中級まで
William G. Lycan
勁草書房
Amazon / 7net

思えば分哲系の本を買うのは久しぶりである。

ここしばらく、どっちかと言えば現象学系統の方に傾いてきた──ヒュームを読んでいるのも、どちらかと言えばその流れの上である──ので、そろそろまた「現代」の方に回帰しようかなどうしようかな、という気分になってきているわけである。

こういうことを気分任せにできるのは素人哲学の気楽なところではあるのだが、もちろん欠点でもあって、回帰するたんびにあらかた最初から思い出さなければならない(笑)。どうしようかと考えて、思えば言語哲学についてそれ自体の概説的な入門書を読んだことがなかった、と気づいて、とりあえず現時点で最新の入門書で、評判も悪くなさそうなのを見繕って買ってみたという次第である。しばらくの間はこれが通勤電車の中のお伴になるわけである(で、仕事場の始業前と昼休みが「人間本性論」の時間である)。

パラパラめくってみる限りだと言語行為論に関してサール先生への点がちと辛いなあ、という気はするのだが、それはそれでいいような気もする。肯定的な評価の方はご本人の本を読めばいくらでも書いてある(笑)わけだし、サールは「志向性」以後は言語哲学に半ば見切りをつけて心の哲学や社会存在論の方へ関心をシフトさせて行ったというのが大方の見方なのだろうから、見切られた方では辛い点をつけたくなるのは人情というものであろう。

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イバン・イリイチ3冊

2011年07月24日 | 読書メモ
  イバン・イリイチ「生きる思想」「生きる意味」「生きる希望」(すべて藤原書店)

上のリンク先はAmazonだが、アフィリンクとかではないので、書誌情報その他を知りたいだけの人も安心してクリックしてもらって結構である。「渡辺京二コレクション」の中にイリイチの追悼文があったのを読んで久しぶりに読んでみたくなって、イリイチ最晩年の3冊をまとめ買いしてみたということである。我ながら思いっきり釣られてんな(笑)。

上をアフィリンクにしないというのはまた、イリイチの本を誰にでもオススメするというわけには、到底いかない、ということでもある。特にわたしはそうするわけにはいかない。つべこべ言ってもイリイチというのは最終的には反文明主義者である。仮に今も生きていたらそれこそ日本の左翼テロ連中にそそのかされて「脱原発社会」なんて本を書きかねない。たぶんそんな下品な真似はしないだろうけど、根がそうだという意味でありえないことではない。

とはいえ、である。イリイチの著作は根っこのところで全部そうだとは言っても、この人が「学校」とか「病院」とか「ジェンダー」とかについて、その言論において、あるいは実践的にも主張したことの価値の一切が否定されるべきだとは、わたしは全然思っていないわけである。むしろ、あんな露骨な反文明主義者でさえなかったら、たとえばこのblogで日本学術会議とか日本医師会とかに「消えてなくなれ」宣告を突きつける時に、イリイチの本の角で2,3発ぶん殴った上でそうしてやりたいくらいのことなのである。

イリイチが生涯をかけて主張し続けたことを一言でまとめて言えば「機械が便利だというのは、それが触れる限り我々の生をすべて機械の一部にしてしまうからであって、かつ、それ以外の何でもありはしない」ということになると思う。機械はすなわち生(命)の否定、いやそれどころか「消去」「抹消」あるいは「抹殺」であって、だから、生きることの経験を機械に奪われたくなければ、それは結局捨て去らなければならないのだ、というわけである。そして、少なくとも上のカギカッコの中に限れば、それは紛れもない真実なのであって、今も昔もわたしはまったくその通りだと思っている。

実際このblogで、たとえば脳科学に「消えてなくなれ」と言っている、その根拠も基本的にはそういうところにあるわけである。脳科学の連中が我々の意識は脳神経機械の働きにすぎないなどと言うのは、上のカギカッコの中の露骨な、しかもイデオロギーとしての表明なのである。アンドロ軍団が世界を支配したらそれに追従する人間もいるということである。

我々は、アニメのキャシャーンほど恰好よくはいかないにしても、断固としてこれに対抗しなければならないはずである。ただその一方では、そのアンドロ軍団と直接刃を交わしているキャシャーンだってある意味では確かに機械人間なのだということを忘れてはならない。機械の支配を打倒するには彼も(今となっては「あの健気な少年も」と書くべきなのだろうが)また否定されなければならないのか。そうでなくても永久に孤独の中に置き去りにしておかなくてはならないのか。そうではあるまい。

では、どう考えるべきなのか。それが、わたしにとっては複雑性の科学研究だったり素人哲学だったりするところの、最も根本にあるモチーフである。もともとそこまで考えていたことではなかったが、わたしが計算機屋になったことの理由の中にさえ、その萌芽はあったことである。その萌芽の時代に読んだイリイチの指摘はひとつひとつ鮮明で目からウロコが落ちるものであった。ある意味ではニーチェやフーコーの主張に重なるそれは、しかしニーチェやフーコーの書いたもののようにややこしい、田舎町の中学生が読んだって全然判りもしないような種類のことではない、中学生の単純素朴なアタマにもわかりやすく、また実感の伴うものでもあったことである。

結局のところまだ宿題が残っているのだ。イリイチはたまたまカトリック神学の世界に生まれおちたからそういう形の言い分を作り上げただけで、読む側の内的に多少の置き換え操作を施せばそれは、わたしの両親や祖父母の生きていた世界の遺言のように響くところをもっているわけである。その子孫の世代が単なる遺言執行人として生きなければならないいわれもないし、その懐かしさの方へひたすら退却していくことが生きることだというわけでもない。とはいえ、我々にはその世界に対して報いるべき恩義がまだ何か残っている。

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中野重治詩集(岩波文庫)

2011年07月22日 | 読書メモ
中野重治詩集 (岩波文庫)
中野 重治
岩波書店
Amazon

※画像は岩波書店より拝借


また唐突だな、と思われるだろうが、この詩集を古本でわざわざ買ったというのは、ただただ以下の一篇を紹介したいがためである(ほとんど暗唱しているのだが、紹介するからには一字一句間違えたくないわけで)。もっと唐突なのである。

  待つてろ極道地主めら

  どいつとでもぐるになれ
  へんな立札を好きなほどおつ立てやがれ
  おれらは鎌をとぐんだ
  ゴシ ゴシ
  待つてろそこで
  てめえもいつしよに刈り取つてやる
  ゴシ ゴシ
  てめえの二本足かつ切つてやる

・・・ああそうとも。いい詩ではないよ。中野重治の中でも「これはひどい」なうちの一篇だと思うよ。しかし俺は、これは詩だと思うんだよ。

うちは萌え絵とかもたくさん紹介しているblogなんだから、中野重治だったら日本近代の萌え詩の嚆矢「あかるい娘ら」でも紹介した方が似つかわしいかもしれないよ。しかしそういう名篇はググりゃなんぼでも出てくるわけだよ。こないだふと思って上のを検索したら見事にまったく引っ掛からなかったわけだよ。それはいかんのだよ。

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「ビッグ・トゥモロウ」いまむかし

2011年07月21日 | 読書メモ
例のビッグ・トゥモロウの吉本隆明のインタビュー記事を読むために、生まれて初めてあの雑誌買っちゃったよ。ネット通販でだけど。俺が若いころはこの雑誌、なまじっかなエロ本を買うより恥ずかしい雑誌のひとつだったわけだ。あのイメージが今でも強烈に残っているから、近所の本屋で買うのは今もって躊躇われたというわけだ。吉本のインタビューが載ってるというのでもなかったら、たぶん買うこともなかっただろうけど。

でもまあ、せっかく買ったんだからというのでざっと読んでみると、対象読者の中心層は「20代前半の平サラリーマン」といったところで、これは昔とおんなじ。強いていうと「30代40代の方もどうぞ」といった感じが昔よりは強くなったかな、という程度。

一番変わったなと感じるのはまずネタで、昔のネタはだいたい平リーマンの処世術とかスケコマシとかを中心に、よくもまあこれだけ下世話なネタばっかしというようなののオンパレード(死語)であったものが、今だと「カネ!」一本に絞られてきてしまった感じである。また、昔は見出しひとつとっても字面から欲望まるだしの毒々しさというか、「(much more) smells like male twenties spirit (than teens)」というか、そういう臭気まで漂ってきそうな独特の嫌ったらしさがあったのだけれど、今はそんなんでもない、カネ儲け雑誌ならだいたい何でもこうだわなという感じの見出しが並んでいる。まあ今だとあれだ、下手に臭気まで漂わせたりしたら、それこそホモゲイ雑誌か何かかと勘違いされかねんわな。

つまりはまあ、普通の雑誌に近づいたわけで、要はこのくらいなら吉本のインタビューが載ってても違和感はないし、その見出しが「大人になるとはどういうことか。87歳になっても答えが見つからない」というような、いかにも今の吉本らしいけど平リーマンの意気は上がらなさそうなものであっても困らないわけである。昔のこの雑誌だったらさ、「反核バカインテリ共を向こうに回して百戦不敗!消費資本主義社会をず太く生き抜くオレの"超左翼"思想術」くらいの見出しがついたんだよ。

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辺見庸「瓦礫の中から言葉を」

2011年07月17日 | 読書メモ
たまたまうpされているのを見つけたのでリンクがわりに貼っておく。
from YouTube/ETV

とりあえずコメントはしない。上は5分割されたうちの1つである。全部見る人はYouTubeに飛んだ上で見ることをお薦めする。またNHKが削除するかもしれないので、見るならお早目にと言っておく。

以下は動画内の辺見庸氏の発言の一部(4/5の後半あたり)を「動画起こし」したものである。

  ・・・書こうと思う。
  僕の誠実さはそれでもって明かすしかできない
  拙いけれども、これだけの出来事、あるいはそれ以後のことを
  僕の筆力ぼくの表現は追いつかないだろう
  到底追いつかないことは判っている
  けれども心に[※聴き取り不能]
  それが亡くなった人たち、傷んでいる人たちに対して
  僕が出来る唯一のことではないかと思っている
  我々はもともと、あるかなきかの言葉を持っていたけれども
  それでも、この瓦礫の山、焼けただれた・・・
  汚水に沈んだ・・・放射能の水溜まり
  漬けられた瓦礫の中に
  我々が浪費した言葉たちの欠片が落ちている
  それをひとつひとつ拾い集めて、水で洗って
  もう一度丁寧に、抱きしめるように丁寧に
  その言葉たちを組み立てて行く
  それは可能ではないかという風に
  わたしは、いま、思っているし、そう思いたいと思うし
  焼けただれて撓んで水浸しになった言葉をひとつひとつ
  屈んで拾い集めて
  それを大事に組み立てて行って
  何か新しい言葉・・・
  それはとりもなおさず人に対する関心であります
  言葉というものは単なる道具ではない
  言葉っていうものは人に対する関心の現われだと思う
  自分が、自分たちが、あるいは失われた命が
  世界のどういう位置にいるのか、ということを判らせてくれる言葉
  を、発することができれば
  もっと人の魂、いま生きて行く魂
  そして、この宙に浮かぶ
  亡くなった人たちの霊がもっと休まるのではないかという風に思います
  それを持ち合わせていない
  から、こんなにも不安で切なくて苦しくて悲しくて
  そして空しい、空漠としている、とわたしは思う
  で、その中には、もう戻りはしないであろう日常を
  何日かすれば、何か月かすれば
  何年かすれば戻るに違いない、という暗黙の了解のようなものがある
  しかしわたしはそうは思わない
  わたしがまったく個人の、私個人の、物書きの予感というものを
  ここで誤解をおそれて(おそれずに?)言えば
  そのような日常は戻りはしない
  (わたしは不安を煽るために言っているのではないわけです)
  そのような規模ではなかった
  もし、かつての日常がかつてと同じように戻り
  また、文章家たちが商品を売るために文をひさいで
  魂を売る、万物を商品化していく
  そのような日常がまた舞い戻るとしたら
  (わたしは舞い戻らないと思うけれども)
  舞い戻ることにはほとんど意味がない、とさえ思う

動画の中では311後に辺見氏が書いた詩のいくつかが紹介されていたのだが、それはそれとして、このあたりの、あちこち混乱が残っていないこともない即興の方に、わたしなどは(わたしは詩的な表現が本当は苦手だからというせいでもあるだろうが)もう少しばかり感じるものを持った、ということである。

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マルクス2冊

2011年07月09日 | 読書メモ
先週の「土曜日の本」は他にネタがなかったのでこれを買った。出たのが少し前であることと、これ1冊を誰にでもオススメするというわけには、到底いかないということがあって、「土曜日の本」扱いにはしなかったのである。

経済学・哲学草稿 (光文社古典新訳文庫)
K・マルクス著・長谷川宏訳
光文社
Amazon / 7net

「ケイテツ」あるいは「経哲手稿」という略称の方が有名かもしれない本である。読みやすいことでは定評のある長谷川宏訳である。新訳でもあるし、訳文そのものは間違いなく読みやすい。どうせ読むならこれで読めという気はするわけだが、そうは言っても、そもそも「ケイテツ」と言ったら難解で知られた本なのである。難しいことが難しく書かれているというよりも、訳者長谷川宏の言をかりれば「心あまりて言葉たらず」で、何言ってんだかハッキリしないところが多いのである。昔に別の訳を読んだときもそう思ったのだが、今回もやっぱりそうなった。

原書はドイツ語だし、さすがに自分で訳してみようという気にはならない。こういうのはよい解説書で読んでみるべきだ、というわけで探したらこんなのがあった。

マルクスを「活用」する! (自分で考える道具としての哲学)
高橋 洋児
彩流社
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反(脱)原発などは「左翼テロ」だ、などと言って詰ったりする割にマルクスは読むのかと言って、そら当然読むわけである。マルクスを専ら「左翼」文脈で読むような時代は、50年前には終わっているわけである。ちゃんと終えた人が異常に少ないだけである(笑)。また、ヘーゲルや現象学は読むのにマルクスを読まないというのは、つまらない観念論者だと自ら白状するようなものである。

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D・ヒューム「道徳・政治・文学論集」(田中敏弘訳・名大出版会刊)

2011年07月09日 | 読書メモ
人間本性論の訳本は買わないのにこれは買ってしまった。
ヒューム 道徳・政治・文学論集 [完訳版]
田中 敏弘
名古屋大学出版会
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これも8400円と安くはない本だが、私訳はTHNで手一杯だしな。

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合田正人「吉本隆明と柄谷行人」(PHP新書・May19発売予定) 

2011年05月11日 | 読書メモ
ていうのが出るそうな。この場合は題名よりも俄然著者に注目だ。PHPもたまには面白そうなことをするな。ちょっと期待してみよう。

吉本隆明と柄谷行人 (PHP新書)
合田 正人
PHP研究所
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何がそんなに、と言って、合田正人と言えばレヴィナスやベルグソンの翻訳で知られた人であるわけで、そういう人が吉本やら柄谷やらについて書くということ自体が、わたしにはちょっと意外に思えるわけである。しかもこんな、誰だって書くのを躊躇うであろう因縁の対決である。「そんなネタで大丈夫なのか」と尋ねたくもなることである。

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吉本隆明「『反核』異論」(深夜叢書社)目次+初出一覧

2011年04月20日 | 読書メモ
てなわけで、思い立ったが吉日で何とかしてみることを考えることにした。さすがに中身をまるまるうpしたら、いくらボッタクリでも古本屋が可哀想なので、そういうことはしない。具体的にどうするかはこれから考えるので、さしあたり、このblogの恒例で詳細目次というか、目次と初出一覧を合体させたようなものを作ってみた。

「反核」異論(深夜叢書社刊)目次

I
停滞論
  初出:「海燕」(1982年4月号)
  →「マス・イメージ論」
「反核」運動の思想批判
  初出:「読書人」1445~1447号(1982年8月)
「反核」運動の思想批判 番外
  初出:「読書人」1453号(1982年10月)
現代と若者(聞きて 三浦雅士)
  初出:「平凡パンチ」第19巻第14号(1982年4月)
情況への発言──「反核」問題をめぐって
  初出:「試行」59号(1982年9月)
  →「情況へ」(宝島社刊)
  →「情況への発言 全集成2」(洋泉社刊)

II
ポーランドへの寄与──レーニン以後はじめての社会主義思想
  はじめに
  1. 社会主義の理念と現実
  2. 〈連帯〉の根底的要求とは何か
  3. 〈連帯〉指導者、理論家たちの構想
   ワレサの自在さ/クーロンの構想/唯一の政治革命構想
  4. 〈連帯〉運動の孕む矛盾
  初出:「中央公論」(1982年3月号)
国家と言葉(対談 J=P・ファーユ)──「開かれた国家」の可能性
  初出:「海」(1982年7月号)
先進資本主義社会の動向と日本の行方
  初出:「都学労十年」(1982年3月)
  (東京都学校事務労働組合結成十周年記念報告集)

III
崩壊の検証(討議 鮎川信夫)──反核をめぐる〈戦後〉理念の終焉
  初出:「現代詩手帖」(1982年8月号)
  →「鮎川信夫全集 第8巻」
  →「吉本隆明全対談集 第7巻」
  →「全否定の論理と倫理」(思潮社刊)

後註
初出ノート

なんでこれを作ったかというと、この本に収録されている文章は上の通りすべて初出があって、そのうちのいくつかは他の本にも収録されている。その中には比較的入手しやすい(あるいは図書館で探せば見つかる)ものもあるはずだからである。「マス・イメージ論」は古本が安く手に入るようだし、「情況への発言 全集成」は新刊で買える。「平凡パンチ」のバックナンバーは・・・さすがに無理だろうかな(笑)。

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なんじゃこの値段は・・・

2011年04月13日 | 読書メモ
素直に喜べねえよ。この絶版本、前からこんな高かったっけ?

『人間本性論』が入った。めでたし。書物復権 http://bit.ly/fNNDdM
(mskota)

上の短縮URLのリンク先ページを以下に引用しておく。言うまでもないが強調は引用者である。

『人間本性論 第1巻(新装版)』D.ヒューム/木曾好能訳(法政大学出版局)
初版1995・最終版1995年◆A5判◆666頁◆税込16800円(本体16000円)
ISBN978-4-588-12080-0

経験と観察に基づく〈人間の学〉を目指し、観念・記憶・想像・感覚・印象・信念・習慣・人格の同一性等々広範な精神領域を考察する。イギリス経験論哲学の最高峰。

(書物復権2011:哲学・思想・言語・宗教/紀伊国屋書店)

以前、ロールズの「正義論」の新版が出た時も「これ買うのは度胸試しだな」と書いたことがあるが、この値段はその倍以上である。さすがにこれは、わたしでも買うのを躊躇う。

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ヒューム「人性論(全四巻)」(岩波文庫)

2011年03月20日 | 読書メモ
世間が地震だ停電だと言ってるさ中にわたしはこんな本を注文していたりするわけである。いまさっき届いたのでとりあえずリンクだけ張っておく。


(一)知性に就いて〈上〉
Amazon

(二)知性に就いて〈下〉
Amazon
 

(三)情緒に就いて
Amazon

(四)道徳に就いて
Amazon
 
デイヴィド・ヒューム著/大槻春彦訳「人性論」全四巻/岩波書店

前々から入手したいとは思っていたのだが、とにかくこの本は絶版状態で、古本も時にとんでもない法外な値段がついているわけである。どうしてこの本の新訳が出ないのか、いやせめて用字と書体を改めた新版を起こさないのか、わが国の哲学における謎というか、ここまでくるとほとんど恥の一種ではないかと思う。

今回わたしが入手したのは2006年にリクエスト再刊された版(刷)で、出るや否や忽ち品切になってしまったというものである。それでも定価の倍以上の値段がついていたが、万単位のカネを払って半世紀も前のボロボロなやつを買わされるよりは全然ましである。



で・・・いまわたしのオツムの方は現象学の方に振れているわけである。バランスを取るために、たとえばこの訳本の現代語訳を勝手に作ってみるというのはどうだろうか、というようなことを、実は考えていたりする。それをするとなると中公の抄訳と英語の原書も入手して対照しながらということに、たぶんなるのだが、まずは最初に手に入れたこの4冊を読んでみることにする。まあ、状況が状況だから、検討だけしてやらないかもしれないけれど。

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