でぇごんさんの大子日和♪

旧名「大子のでぇごん」。でぇごんさんの茨城県の大子町での日々つれづれ。
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大子のお盆。

2015年08月13日 | 日々つれづれ♪

珍しくお盆に雨曇り模様の茨城県の大子町からです。
お盆です。
おじいちゃんおばあちゃんのいる実家へ帰省するなどして祖先のお墓参りをする日本ならではの夏の行事。
ここ大子町では、毎年8月14日には「大子町花火大会と灯籠流し」があります。
夏の夜空を彩る大輪の華、山に響く轟音、川面にはゆらめく灯籠、そして日本一大きなお地蔵さんの子安安産祈願水難供養の祭礼。
これらを合わせて、大子の花火大会といいます。



元々は、こちらの日本一大きなお地蔵さん「大子地蔵尊」の祭典から始まります。
このことは、大子の商店街「まちうち」の泉町に伝わる伝統をつづったしおりにあります。




「大子地蔵尊の由来」
今からおよそ410年前、慶長3年(1598)久慈川が氾濫したとき、大子村字横谷川原の渡船場近くの原野に、どこから流れ着いたのか、高さ3尺くらい(役90センチ)のお地蔵様のような自然石が横たわっていた。
近くに住む人たちは、「これこそ天の授かりものだ」といって、この自然石を子安・子育てのお地蔵様として安置し、月待ちの二十三夜を縁日として信仰してきた。
明治23年(1890)8月7日、2,3日前から降り出した雨は豪雨となり、久慈川は未曾有の大洪水となった。
当時の記録によると、水高2丈2尺(約6メートル60センチ)に達し、金町から横谷川原にかけて防水林として植栽されていたケヤキの大樹などが流されたのをはじめ、泉町渡船場近く太田警察署大子分署、民家、久慈川流域の田畑や原野が流され、瀬戸田から渇久保にかけて海のようであったというから、被害ははかり知れないほど大きかった。
この大洪水でお地蔵様は流され、横谷川原の桑畑の中に頭だけを出して埋もれていたのが発見された。
なにしろこのお地蔵様は、高さが3尺もある自然石で重量もあり、人の手で運ぶのは困難であったから馬を使って運び、泉町側の渡船場入り口近くに再び安置された。
当時、渡船場を中心とした金町や泉町は、保内郷(現大子町域)の交通の要所、物産の集散地、商業の中心地であったから、大子町(明治24年立町)を訪れる多くの商工業者や旅人もお地蔵様に向かって旅の安全を祈る姿が見られるようになった。
町の参詣者も増え、泉町のお地蔵様のご利益が近隣の人たちにも知られるようになった。
明治26年産婆さん達が発起人となり、町の婦人達に働きかけて寄付金を募り、お堂を建てお地蔵様を祀った。
また、新たに地蔵菩薩の石像をつくり、大子町の「子安地蔵尊」と名付けて安置した。
お地蔵様の縁日である月の二十三日になると、泉町の地蔵講のおばあさん達がお地蔵様にお灯明を上げ、団子を供えて祈願した。
参詣者にはおばあさん達が作った団子を配った。
この団子を食べると、「よい子が生まれ、よい子が育つ」といわれ、また、妊婦が「お灯明に使用して短くなった蝋燭をもらい受け、お産の時に灯すとお産が軽くなる」というご利益があるといわれ、遠くからも参詣者が訪れたという。
地蔵様の縁日の行事は、太平洋戦争中も続けられていたが、戦時体制により物資が乏しくなり、お灯明をあげたり、段をつくったりすることはできなくなっていった。
現在は、参詣者には「おごふ」を配っている。
昭和36年(1961)6月26日、大子地方は近年まれな豪雨にみまわれ、松沼橋(地獄橋)は洪水で流された。
お地蔵様とお堂は、永久橋建築工事の関係から松沼の現在地に遷座された。
同38年5月、松沼橋が完成した。
松沼橋建設が進められているころ、町内の有志によってコンクリート造りの大地蔵尊を建設し町の名物にしようと、大子町地蔵尊建設委員会が設立され、日本一大きな地蔵尊の建設が進められた。
同39年11月23日、高さ9メートル62センチの日本一大きい地蔵尊が建立された。
現在は「大子地蔵尊」の名称で花火大会の一連の祭典として、毎年8月14日に行われ、大子町の観光名物になっている。
(原文まま)


連合若連の皆さんによって流される久慈川の灯籠流し。


花火と灯篭流し。

地蔵尊祭典に合わせて灯籠流しが始まり、さらに昭和8年、花火が打ち上がります。
このことも、地蔵尊祭典しおりにあります。

「大子の夏の祭典 花火大会」
昭和8年の地蔵尊の祭礼に、大子町ではじめて仕掛け花火が上がるというので、久慈川の護岸の周辺は凄い人出で賑わった。
合図と共に夏の夜空を彩る打上げ花火、仕掛け花火にたちまち歓声が沸き起こった。
続いて八溝の山々に響きわたる尺玉や連続打上げ花火に老いも若きも大喜びであった。
当時、満州事変、支那事変と戦局拡大中の為、昭和12年には火薬製造禁止令が出て同22年まで続いたので花火大会は行われなかった。
現在の花火大会は、昭和60年(1985)の「つくば万博」の開催を記念し、大子町のイベントとして始められたもので毎年8月14日実施しております。

「灯籠流しの由来」
灯籠流しは、大正時代のおわり頃、京都の宇治川で行われていたのを見てきた地元の人が、その幻想的な風情に感動し、ぜひ地蔵尊の供養を久慈川でとの思いで始めたものです。
灯籠流しは、灯油を使用したので戦時中は禁止となったが、板に釘を打ちローソクで流したりした。
現在は環境汚染に配慮したトレー型灯籠や紙型灯籠を使用し、大子町連合若連の皆さんが準備から後片付けまで心をこめて実施しております。
(原文まま)


栄町通り(駅前中央通り)で縁日の賑わい。


本町通りの「あんどんまつり」。
地元町内会からの「本町夢プランの会」が自主的に行っています。

今年で「花火が打ち上がって」83年を迎えます。
灯籠流し、地蔵尊祭典までさかのぼればよりずっと歴史の深い行事です。
本命は、水難供養・子安安産祈願。
催行形態が変わろうとも、今に受け継がれた流れは、少子高齢化となった現代でもしっかりと受け継いでいくべき大切な行事です。

つくば万博を記念して町(観光協会)の主催となったあたりから派手な昼間行事として、かつてはサンバカーニバルやものまねショーなどもありました。
いつしか予算だったり人手だったり様々の事情から今では駅前通りでYOSAKOI踊りが代わりになっているだけとなりました。
時代も本来の意味合いを大切にするべきときになってきつつあります。
灯籠を流すだけでもたくさんの準備・後片付けや人労が必要です。
いくらお金があっても、いくらおもしろいイベントがあっても、あるべき姿を変えられては意味がなくなってしまいます。


久慈川の灯籠流し。

観光協会主催のもと、連合若連、地元若連の皆さん、泉町町内会の皆さんが中心となって地蔵尊祭典・花火・灯篭流しを受け継ぎ文化を守るために奉仕しています。
奉仕して働くのは、地元である大子町を守るために他なりません。

ぜひ、大子の花火を鑑賞する際は、お地蔵さんへのお参りをかかさずにお願いしたいと思います。
まだまだ暑い日が続きます。準備万端でお越しください。


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