瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

別世界の住人たち

2024-03-17 07:14:12 | 随想
数年、いや十数年ぶりかもしれません、「風の谷のナウシカ」を読み返しています。
その4巻。ユパが森の人セルムに言う。

貴君にぜひ会わせたい人物がおる
ナウシカという少女だが

セルムがこたえる。

森がそのように望むなら
私たちは出会います

こういう言葉があたくしのなかに降り積もって、あたくしは出来ているんだなと思います。「森がそのように望むなら」という人の意思を超えた何か、大いなる存在というか、必然というか、運命というか。漫画だの小説だの映画だの、そういったもので描かれる私たちを超えた私たちを統べるもの。そのような存在を意識させる表現が積もり積もってあたくしを形づくる。

いや、順番は逆かもしれない。あたくしの資質がそのような表現を心に留め、大いなる存在を意識させる。上記の台詞を読んでスルー人も多いわけで、この台詞に反応するのはあたくしの資質ゆえ、と考えるほうが当を得ているような気がします。あたくしがスルーしてしまう台詞も多いわけで、スルーしたその台詞に反応する人たちもいることですし。
資質といいますか、受信器といいますか、読み手が持っている受け皿しだいで物語はどう汲み取られるかが決まりますね。

ってなことを考えますと、人と人が解り合えないのはもっともだと思います。資質が違う、それが水と油なら混じりあいようがない。
資質が違う、異質なものはどうしようもなく混じり合わない。互いに理解しようもない。どちらが正しい間違っているでもなく、どちらにも一理あり理屈は通っている。ただどの理屈を採用するか。それはその人の資質による。資質というか価値観、世界観というようなもの。
その異質のせいで解り合えないのであれば、せめて争わないように住み分けよう。と考えるのも万人共通の思考であるはずもなく、これもその人の資質。別の資質を持った人であれば、異質なものは排除するとか屈服させてやるとか、争いごとへと発展させる方向に持っていっちゃうことになる。
個性というと語弊があるのかもしれませんが、個々人がもつ性質、資質、特性といったもの、それが違うのはあたり前で、だから人は解り合えたり合えなかったり、仲良くしたり争ったり。

人は解り合えない、というのはあたくしの考えで、あたくしとは別の気質の持ち主なら人は解り合える、と考えるでしょう。人を信頼しているんでしょうね、そういう人は。逆にあたくしは人を信頼していないってことになる。あらら、なんてことだ。寂しい世界に住んでいるのだなあ、あたくしは。

ま、あたくしのことはともかく、世界は異質なものの寄り合い所帯なので、争いが絶えないのも当然。異質だから住み分けようという人たちは異質なものは屈服させようという人たちに屈服させられる。で、争いは絶えない。
理屈じゃないのよ。個々人の資質なんだもの。個性なんだもの。

悲しいけれど、みんな仲良く平穏にってわけにはいかないのが世の中なのよね。
コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 本来の実在はどうあれ…… | トップ | 読書メモ(なかたに ゆうす... »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。