瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

読書メモ(曾野綾子 その3)

2024-04-28 14:17:40 | 随想
私はすでに、さまざまの死に方を見た。(中略)私はどれもよかった、と思うことが多かった。(中略)人生はほんとうに原形としてはろくでもないところなのである。しかし、この世には初めから完全ということがないので、ろくでもないものにも、所々、割れ目のように希望の薄陽がさすところが、私にはおもしろかった。

人生はろくでもないって言っちゃうところがすごいですね。正直な人だ。
でも、希望の薄陽がさすってフォローはちゃんとしてます。ただただろくでもないだけならやってられませんわなあ。
で、曾野綾子はつづけます。

どんなにささやかであろうと、まず、身近の人々に寛大で、優しく、それらの人々の希望を叶えるために努力し、あたたかいのどかな社会を作るために働いて行った人の死は、思い返しても暗いものがない。
反対にどんなに社会的に偉大な仕事をしていた人でも、身近な人々を少しも幸福にしなかった、という点で、激しく暗く、冷たい死がある。

と書いたあとで「コリント人への第一の手紙」を引用します。

たといわたしが、人々の言葉や御使(みつかい)たちの言葉を語っても、もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢(にょうはち)と同じである。たといまた、わたしに預言をする力があり、あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、また、山を移すほどの強い信仰があっても、もし愛がなければ、わたしは無に等しい。たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、もし愛がなければ、いっさいは無益である(13・1〜3)

聖書で言われる言葉はどれもあたくしにとっては厳しい。確かに「愛がなければ」とは思いますが、ま、愛がなくてもそれで人が救われるなら、それはそれでいいんじゃないの?ってなことをあたくしは思っちゃうんで。そのへん、あたくしはゆるいんですけど聖書は毅然として「愛がなければ」と言い切っちゃいますからね。

ゆるいとはいいつつ、あたくしも「愛がなければ」とは思うんですよ。
下記の本を読んだときにも思いましたね。

橋本治「たとえ世界が終わっても −その先の日本を生きる君たちへ−」(集英社新書 2017年)

この中で橋本治は論理には種類があって「心のある論理」と「心のない論理」、そして「心の論理」に分かれると言ってます。違いは説明しづらいって橋本治自身が言ってるくらいで説明はあいまいです。なので、あたくしもなんとなく理解してるような気分になってるていど。ただここで言ってる「心」というのは「愛」と同義とまでは言わないまでも重なる部分はあるのかな、と思います。「心のない論理」は正しいけれど正しくない、って意味の通じない言い回しになっちゃいますけど、そう言いたくなるようなのが「心のない論理」かな、ト。そう言いたくなるのは「心のある論理」を展開すれば、ですけどね。で「心のない論理」を言う人にはそんな「心のある論理」がさっぱり理解できない。だから互いに交わることはない。人が解り合うってのはなかなかに困難でして。

愛だの心だのってのがないほうが話は簡単ですからね。論理のなかにそんなものが混ざるとそれはノイズでしかありません。なので話をわかりやすくするために愛だの心だのはノイズとして切り捨ててしまう。切り捨ててしまうと論理として確かに正しいけれど、なんだか変ってなことになる。ま、「愛がなければ」その「なんだか変」に気づくこともありませんけどね。

世の中、最短距離で答えにたどりつきたがっているように、あたくしには見える。でもノイズを引き受けて紆余曲折、回りまわって答えにたどりつくのもアリなんじゃないかしら、ってなことを思いますね。

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2 コメント

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愛とは (はるのとり)
2024-04-29 08:38:36
そんな 「大層な 立派な」
事 では ない

ただ
しあわせになりたい という思い
かも 知れません

しあわせをもとめない
生き物は
いないのではないでしょうか

だから
愛のないひと は いない

瓢箪舟さんも
勿論
愛の人 である と
わたしは 思います
(_ _)
Unknown (cdt63430)
2024-04-29 23:21:34
何をもって「愛」と定義するかは人それぞれでしょうし、どう表現するかも人それぞれでしょうね。憎悪も愛情の一側面だ、なんて言い方も可能だと思います。可愛さ余って憎さ百倍なんて言い方をしますから。

はるのとりさんのおっしゃることからズレるとは思いますが、ぼくもまた上記のような意味において誰しも「愛」をもっていると思います。他人からみるととても「愛」とは思えないような「愛」の在りようもあることでしょう。本人すら「愛」との自覚がない「愛」だってあることでしょう。
「愛」はいかような表現をも取り得ると思います。

そもそも「存在」そのものを「愛」と言い換えてもいいと考えています。なので「愛」からすべては始まった、といいますか、「愛」しか存在していないといいますか。
私たちはあれは違う、これはその通りだと選別したがりますが、もとをたどれば「愛」しかないんじゃないかと思います。

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