須賀敦子「遠い朝の本たち」(筑摩書房 1998年)を読みはじめる。
亡くなったのが98年3月で、この本の一刷が4月。なので最後の本ですね。帯びにも「著者が最後まで手を入れ続けた」とあります。
それはさておき。
なかの1編「ベッドの中のベストセラー」に落語が出てくる。筋が簡単に書いてあり、ああ「寝床」だな、と思ったけどサゲが違う。違うけどこのサゲも聞いたことはある。
で、調べてみると志ん生がこの形でサゲていたとわかりました。
落語もあまり聞かなくなって、どんどん忘れるばかり。けれど、忘れるのも悪くない。空っぽになっていくような感じが、いい。
中島敦だったか。「名人伝」のラストは確か“忘れちゃった”凄味だったなあ、と自分がどんどん忘れていくことの言い訳のようにそんな小説を思い出す。
念のため調べてみると「名人伝」にはさまざまな解釈があることを知りました。他愛なく名人として解釈してましたなあ、あたくしは。ま、どう解釈しようが読み手の勝手といえば勝手ですけど。人は解りたいようにしか解りませんから。
と書いたところで、こんなのを思い出しました。
マタイによる福音書7の冒頭。
人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
どう繋がってるんだと言われると困りますが「自分の解りたいようにしか解らない」というのが「自分の量る秤で量」られるのと通じているような気がしたものですから。
あ、ちなみにあたくしは聖書を読んだことはないんですよ。何故かこの部分だけ知っているんです。
とりとめのないことを書きました。
今回はこの辺で。