害あらんこと然るべからず。摩耶夫人懐妊ありとも未だ皇子を皇女とも
定めがたし。もし御死去ののち、誕生の皇子皇女(ひめみや)ならば、命を捨てたまいし
甲斐なからん。臣が、浅見によらば、摩耶夫人の出産を妨ぐるは如(し)くべからず。
已に臨月を過ぎてお降誕なくんば、必定、患病(いたづき)なりとし、大王医官を召して
薬石を調進させられん。その虚に乗じて堕胎の薬を用いるならば、孕(やど)る
ところの皇子にもあれ、皇女にもあれ、血水とならんこと何の疑いかそうろうべき。
然してのち、君大王の叡慮を傾けたまわば、妹夫人の寵(ちょう)を奪いたまわんこと何
ぞ難からんと、詞(ことば)を尽くしてぞ諫めける。憍曇彌夫人、馬将軍が諫めの詞を聞きて
眉を顰め、そも、婦人、子を孕みて十月を待って出産すること世の常なり。然るに、
如何なる術をもってかその道を塞ぐべきや。おぼろげのことをなして万一露見する
時は犯罪の科(とが)免るべからず。汝、妾の死そ止めんとて正なきいつわりをいうことな
かれと難ぜらるに、馬将軍、にっことわらい深閨(しんけい)の内にのみ在(いま)して
世上のことを知りたまわば疑いたまうも理なり。兹(ここ)に仙乗国の艮(うしとら)に
宿陀山(しゅくだせん)という山のそうろう。その山の嶺に行い住ませし神仙あり。名を阿しゅ部
仙人と謂(いえ)り。曽て舍衛国の王の意に叛くことありて斬罪せられそうらいき。
しかるに阿しゅ部仙人の二人の徒弟、なお彼の山に栖みそうろう。その名を儀伯仙、無
間仙と名ずけ、二人とも師の秘訣を傳えて神通自在を得、風に乗り、雲に駕し奔
獣を倒し、飛鳥を墜とすこと、掌の物を弄するがごとく石を変じて金とし、土を
練りて人となすの妙術あり。君、彼の二仙を召されて計巧(はかりごと)を需(もとめ)たま
わば摩耶夫人の生産を妨げんこと難かるまじそうろうと言上しければ、憍曇彌大い
に歓喜あり。もし申すところの如くば、妾、また何をか憂うべき。急ぎ二人の神仙
を請招せよと命せらるゝにぞ、馬将軍、領承し退いて腹心の者に密意を云い含め宿
陀山へぞ遣わしける。これに依りて使者、夜を日に継いで仙乗国なる宿陀山に到
り、儀伯、無間の二道師に謁(えつ)し、馬将軍が密意を告げければ、二道師一儀にも
及ばず承伏し直ちに栖(すみか)を起(たっ) て使者とともに縮地の法を以て不日
摩伽陀国月景城へぞ来着す。馬将軍、大いに悦び長途の疲れを労い後堂に
請し、種々、饗応して後、人を退け密かに女主の憑(たのみ)の趣旨を語りければ儀伯、
無間、口をそろえて曰く。これなど等閑(なおざり)の儀にそうらわず。尊夫人には拝
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