元サラリーマンの植物ウォッチング第5弾。写真はクリックすると大きくなります。
多摩ニュータウン植物記Part5
ヤマグワ
その昔、八王子市は“桑都”と呼ばれていた。この地は関東山地と武蔵野台地の境に位置し、山がちで耕作地が少なかったため、養蚕や機織りは古くから農家の大切な仕事だった。そして八王子は次第に周辺の村々から繭や生糸、織物の集積地となり、江戸時代末期に日米修好通商条約が結ばれると、北関東や山梨で生産された絹が、八王子から“絹の道”を通って横浜港まで運ばれ、世界に輸出された。当地の鑓水地区を通る“絹の道”は我が家から3~4キロに位置しており、お気に入りのランニングコースのひとつである。
さて八王子のご当地ゆるキャラは“松姫マッピー”だが、私はこれまで全く興味が無く、松姫のことも詳しく知らなかった。ところが、先日、直木賞作家中村彰彦著の『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』(PHP研究所)を読み、八王子と松姫の繋がりを遅れ馳せながら理解した。
松姫は武田信玄の五女として生まれ、7歳の時に織田信長の長男、信忠(当時11歳)と婚約したが、その後、織田、武田両家が対立し婚約は解消された。そして皮肉にも織田信忠率いる軍の武田攻めにより、高遠城からの逃避行で、甲府、大月を経て八王子まで辿り着き、22歳で出家し信松尼と名乗った。
そしてともに逃げた3人の幼い姫たち(武田勝頼の娘、仁科盛信の娘、小山田信茂の養女)を養うために自らの手で養蚕を始め、元武田家重臣などの援助を受けながら自立し、また徳川家康の孫にあたる幸松(のちの会津藩主保科正之)の誕生の際には、秀忠の正室のお江与(お江・小督)からの迫害から守るため、幸松を預かり育て上げた。
信松尼の存在は、武田家旧臣の多くからなる“八王子千人同心”の心の支えにもなり、56歳の生涯を終えるまで多くの村人から慕われ続け、得意であった絹織物技術を教え伝え、八王子の養蚕業の礎になったともされている。甲州街道の本郷横丁から南に向かい信松尼が創建した信松院(八王子市台町)の前を通る道は“松姫通り”と名付けられており、3年前の2017年4月16日が没後400年には“四百年祭”が開かれたそうだ。知らなかった。
八王子にとって松姫は忘れてはならないお方であり、ゆるキャラに選ばれるのも当然。信松院は八王子七福神のひとつでもあるので機会があれば訪れてみよう。中村氏のこの小説は、八王子在住の方だけでなく歴史ファンにはお薦めである。
写真は裏高尾“日影林道”で見掛けた「ヤマグワ(山桑)」。クワ科クワ属の落葉低木で花期は4~5月。花後に果実が赤黒く熟す。マグワの花柱は短くヤマグワの花柱は長いので、写真はヤマグワと判断した。
さて八王子のご当地ゆるキャラは“松姫マッピー”だが、私はこれまで全く興味が無く、松姫のことも詳しく知らなかった。ところが、先日、直木賞作家中村彰彦著の『疾風に折れぬ花あり 信玄息女松姫の一生』(PHP研究所)を読み、八王子と松姫の繋がりを遅れ馳せながら理解した。
松姫は武田信玄の五女として生まれ、7歳の時に織田信長の長男、信忠(当時11歳)と婚約したが、その後、織田、武田両家が対立し婚約は解消された。そして皮肉にも織田信忠率いる軍の武田攻めにより、高遠城からの逃避行で、甲府、大月を経て八王子まで辿り着き、22歳で出家し信松尼と名乗った。
そしてともに逃げた3人の幼い姫たち(武田勝頼の娘、仁科盛信の娘、小山田信茂の養女)を養うために自らの手で養蚕を始め、元武田家重臣などの援助を受けながら自立し、また徳川家康の孫にあたる幸松(のちの会津藩主保科正之)の誕生の際には、秀忠の正室のお江与(お江・小督)からの迫害から守るため、幸松を預かり育て上げた。
信松尼の存在は、武田家旧臣の多くからなる“八王子千人同心”の心の支えにもなり、56歳の生涯を終えるまで多くの村人から慕われ続け、得意であった絹織物技術を教え伝え、八王子の養蚕業の礎になったともされている。甲州街道の本郷横丁から南に向かい信松尼が創建した信松院(八王子市台町)の前を通る道は“松姫通り”と名付けられており、3年前の2017年4月16日が没後400年には“四百年祭”が開かれたそうだ。知らなかった。
八王子にとって松姫は忘れてはならないお方であり、ゆるキャラに選ばれるのも当然。信松院は八王子七福神のひとつでもあるので機会があれば訪れてみよう。中村氏のこの小説は、八王子在住の方だけでなく歴史ファンにはお薦めである。
写真は裏高尾“日影林道”で見掛けた「ヤマグワ(山桑)」。クワ科クワ属の落葉低木で花期は4~5月。花後に果実が赤黒く熟す。マグワの花柱は短くヤマグワの花柱は長いので、写真はヤマグワと判断した。
コメント ( 8 ) | Trackback ( 0 )
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まだ、残っているかな…。
毎年味見したいのですが、上手く出会うことができません。
私が小さい頃は、クワの果実もお菓子でしたが、今は通り過ぎています。
しかし、クワの木が沢山あるとどこかに実の生る木もあって、クワの実は毎年味見をしていたものでした。
今年はたわわに実の付いたクワを中山で見ました。由木界隈にはクワの木は今でも沢山ありますね。
松姫様の事、プチ歴史ファンです。”松姫様”への入口は松姫最中でした。戦に負けると姫様もご苦労なさいますね。保科正之公も松姫様に育てられたのでしたか、松姫様が家康公に庇護されたり、八王子千人同心が家康公の日光東照宮へのお供をした事など、話が繋がりますね。そして、保科正之公の会津は最後まで徳川家の身内の行動でしたね。
八王子八福神のお参りはしました。その節、信松院では松姫様のお墓参りもさせて頂きました。ゆるキャラの松姫マッピーはこの度初めて知りました。
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