海鳴記

歴史一般

続「生麦事件」(85) 岡谷繁実(9)

2009-01-11 06:40:21 | 歴史
 そこで、図書館に出向き、岡谷繁実が『史談会速記録』のインタビュアとして、どの程度関わっているのか調べてみると、かなり多くの薩摩藩関係の項目に参加しているのがわかった。たとえば、文久3年の8・18政変(あまり知られていないが奈良原繁が深く関与している)、慶応3年の三田薩摩屋敷の焼討ち、慶応4年初めの(鳥羽)伏見の戦い等、やはり、かなり薩摩藩には詳しいようなのである。
 
 ところで、この『史談会速記録』は、まだ埋もれている勤王家探しを含めて、幕末全体を総合的に検証しようと明治25年に始まり昭和13年まで続いた、いわば国家的一大プロジェクトであった。そして、その証言者として、幕末を生き、それぞれの事件、政変、戦争等に深く関わった人物を配し、またその聞き手として、その周辺に詳しい人物たちを送りこんだものと思える。
 当時、岡谷は、館林藩・秋元家の家史編集員であったが、長い間、『大日本編年史』の編纂事業に加わっていたこともあるからか、この「史談会」創設に際してもその幹事として活躍したのである。同時に、明治13年の『西南之役懲役人質問』の質問者であったように、薩摩藩に詳しい人物として知られていたのだろう。
 だから、市来四郎の薩英戦争に関する「証言」を聴いていなかかったとしても、またその「証言」の速記録を読んでいなかったとしても、沖縄県知事になったばかりの奈良原繁のことをかなり詳しく知っていた可能性は大いにありうるのである。

 それで?それで、どうしたんだ?繁がリチャードソンを最初に斬りつけた人物だとも主張して、市来に食い下がったのか、と問われると困ってしまうが、とにかく、市来が「奈良原ナドガ」と言ったのに対して、「奈良原繁君デゴザリマスカ」と間髪を入れずに問い質したのには、驚かざるをえない。単に前回の速記録を読んでいたから確認したという域を超えているような気がしたのである。


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