毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「中日『食べ残し』随想」No.2761

2018-12-02 22:03:57 | 日本中国比較

日本僑報社主催の「忘れられない中国滞在エピソード」

という作文に応募したところ、

なんと入賞しました(最優秀賞ではありません。念のため)。

 詳しくは下の本を買ってお読みいただければありがたいのですが、

せっかくですから(笑)、

著作権に脅えながら私の元原稿をここに紹介させていただきます。

下書きなので、本の中の文章とは多少違うということで

日本僑報社からお許しいただけるかなと判断します。

 

      中日「食べ残し」随想

「食べ残すことが良いことだなんて、とんでもない!」 

と、日本の年配者たちは思うだろう。こう言う私も、

「よそ様のお宅で出されたものは全部食べなさい。残すのは失礼だよ」 

と躾けられて育った日本民族の末裔なのだ。

しかし、八年前、江西省南昌市の大学に日本語教師として赴任した私を出迎えたのは、日本と真逆の食べ残し習慣だった。

私は自ら「カレー親善大使」を名乗り、学生たちを宿舎に招いて、カレーライスを御馳走することにしていた。中国の食材でも日本の家庭の味が再現できるし、私でも絶対失敗しない超お手軽料理だからだ。

そのもてなしで気付いたことがある。三年生のグループはきれいに食べてくれるのだが、入学したての一年生の場合、ほとんどの子が少しだけ残すのだ。生まれて初めて食べたカレーの味は口に合わなかったのかとガッカリし、また(せっかく作ったものを残すとは、中国の家庭の躾はどうなっているのか)と、学生たちが育った家庭状況にまで疑念を抱いたものだった。

しかし、食べ残した学生たちに、

「カレーは好きじゃないんですか」と聞くと必ず、

「いいえ、本当に美味しいです。でも、お腹がいっぱいですから」 

と返事が返ってくる。

(じゃあ、もうちょっと少なく盛り付けたらいいのか)と思い、

次回にそうすると、また、ほんの少し残す。

そんな時、三年生のある学生が、 

「私達三年生は以前の日本人の先生から『日本では全部食べるのが正しいマナーだ』と聞いて知っています。でも、実は中国では少し残すのが礼儀正しいんです。一年生は先生のおもてなしに中国式で精一杯応えたのでしょう」

と教えてくれた。のちに一年生たちに聞くと、まさにその通りだった。

これで、家庭の躾の行き届いた子ほど食べ残すことが分かった。しかし、どうして食べ残すことが正しいマナーなのだろう。作った人は、せっかくの心尽くしが無駄になっても残念ではないのだろうか。

その疑問への答えは、偶然、日本語学科研究室の本棚で発見した。王敏著『謝謝!宮澤賢治』の中のあるエピソード――中国がまだ貧しかった時代の農村での話がそれだ。

「一品だけの質素な夕食を準備していた家に、子どもの学校の先生が立ち寄った。一緒に食事を、と勧められて断るのも良くない。先生はありがたく席についた。貧しい食事だったが、その家のお母さんは精一杯の料理を先生の皿に盛り、自分は食べなかった。先生はにこやかに談笑し、『ああ、たくさんいただきました。お腹が一杯です』と言って帰って行った。皿の中の料理はほんの少ししか食べられていなかった。」

そんな内容だった。

(食べ残しが礼儀作法となった背景には、互いに貧しい生活の中で相手を気遣う庶民の思い遣りがあったのか!)私はストンと合点がいって、一気に食べ残しに対する気持ちが好転したのだった。

一方、出されたものは全部食べるという日本人の食習慣を「奇妙な習慣」と断ずる文章も読んだことがある。江戸末期に開国を迫って日本に来たアメリカ人の目に映った日本人の食事法だ。

「日本の武士たちは私たち(アメリカ人)に招待され、食事を終えて立ち去る際に、残したお菓子を一様に持参した紙に丁寧に包み、懐に入れて立ち去った。御膳には食べ残しは全くなかった。全員が揃ってそうしたのだ。実に奇異な光景であった。」と。

私から見れば、武士たちの振る舞いは非の打ち所がない清々しい食事作法に則っている。(これをアメリカ人は「奇妙だ」と思うのか…)と、逆に少し苛立つほどである。料理をすっかり平らげることは、まず、もてなしてくれた人への感謝の表現であり、次に、食べ残しは無駄で勿体無いという、資源の限られた日本で形成された合理的な考えに基づくものだ。さらに、家で待つ家族に、

「ほら、珍しいものをいただいてきたよ。」 

と紙包みのお菓子を出したら、家の者たちも嬉しい。なぜ、アメリカ人はそんなことも分からないのか、と不快感を覚えるのだ。

しかし、立場を変えれば、中国の大学一年生たちが私に同様の苛立ちを抱いたとしても全く不思議ではない。一つの社会で一つの習慣が形成されるには、様々な条件や経緯がある。表層を見て、自分の狭い価値観で他民族の習慣や文化を決め付けることは、された側からすれば実に不愉快に相違ない。

これは中国という外国で暮らして私が得た、異文化・異習慣への貴重な視点だった。

二年目の中国生活を迎えた冬休みに、私は劉さんという教え子の故郷の農村を訪ねた。劉さんのお母さんは春節の少し前、山東省の出稼ぎ先から一足早く江西省の村に戻って、私たちを出迎えてくれたのだった。両頬を真っ赤にしたお母さんは、自分の頬はビル建設工事現場の寒風に晒されてあかぎれが切れていると言った。劉さんも私も返事ができなかった。

劉さん宅のダイニングは玄関の引き戸を開けて入ったすぐのところにあり、土間になっている。私たちはジュースで乾杯し、劉さんの村の話などを楽しみながら、お母さんの心尽くしの辛味の効いた江西料理をいただいていた。が、何かの拍子にふと食卓の足元を見ると、痩せた犬が、つぶらな目をしてジッと私達が食べるのを見上げているではないか。私が思わず「ギョギョ!」と叫ぶと、その犬は少し開いた戸の隙間からそそくさと立ち去った。しかし、またすぐに戻ってくるのだ。劉さんが動ぜず食べ滓の骨を食卓の下に落とすと、大人しそうなその犬はいそいそと食べ始めた。

「こうやって食卓の下に落としておくと、外から犬やら鶏やらが来て全部綺麗に食べてくれるので、無駄になりません」

という劉さんの解説を聞いて、(食べ滓をテーブルの下に落とす習慣の根拠はこれだったのか!)と、またウーンと唸った。かつて観光旅行で韓国を訪れた際、地元の食堂で、客が食べ滓をテーブルの下に捨てるのを見て苦々しく思った経験を持つ私は、今度は、人間同士だけでなく動物も含めた食習慣の形成についての気づきを得たのだった。自然の中で人間は動物の命を奪って生きてきたが、決して無駄に殺さず、生を分かち合う側面もあったのだと。

時代は変わり、中国は今、GDP世界第2位の経済大国である。中国人の生活は豊かになり、もはや相手の生活状況を思い遣って満腹を演じなくてもいいし、そっと食べ残す必要もない。にも拘らず、中国の各大学の食堂では毎食後、膨大な量の食べ残しが排出されている。決して誰かへの気配りの結果ではないこの現象を、私は、やはり肯定できない。

しかし、翻って現代の日本社会はどうだろう。今から150年ほど前、江戸末期の武士が示した潔い完食は今、「勿体無い」という言葉とともに多くの家庭から消え去り、スーパーのおかずの残り物やレストランの残飯の多さが時の話題になっている。なんだ、中国も日本も同じじゃないか……。

中日両国の民の伝統的食習慣は、直面する生活の貧しさの中で懸命に生きる庶民により形成されてきた。しかし、両国はここに来てその伝統が急速に消え去り、目前には同じ顔をした「似非豊かさ」が口を開けて待ち受けているように見える。これが世界を席捲するグローバリズムの威力なのかも知れない。厳しい環境の下で、共に生きるために発揮してきた人間の智恵が今、伝統的食習慣とともに姿を消そうとしている。

過去・現在をどう見て、どのように未来に立ち向かうのか、両国の民が精神を研ぎ澄ますべきときが来ていると思えてならない。

 

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2 コメント

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おめでとうございます。 (こきおばさん)
2018-12-03 07:34:22
入選、おめでとうございます。
自分の尺度で物事を判断することは、慎むようにしていますが、ともするとそうしていることが多いのを気付いています。特に若いときは、そうでしたから、子育てに悪影響だったように思います。
文化や考え方の違いをきちんと受け止めて消化する能力がまだまだ足りていません。人生一生修行ですね。
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対等な出会いが (ブルーはーと)
2018-12-10 02:25:24
こきおばさん様
一箇所にとどまっていると、その場所の発想が定着しますね。ですので色々な方々と対等な立場で出会う機会が増えれば、他所からの風を感じることができますね。そういう意味では外国人が日本にたくさん住んでくれたら風通しがよくなるかも知れません。しかし、あくまで対等じゃないと。ただただ安価な労働力を得る目的で奴隷のようにこき使っていては、交流どころか敵対関係になりかねませんよね。
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