昨年8月このブログ上で窮状を訴えた李達夫・遅素媛さんのことで朗報!
遅素媛さんの北京での入院費が厚生労働省から全額給付されることになった。
本当に良かった。厚労省はいい判断をしてくれはったなあ。
東淀川区のケースワーカーAと、雲泥の差だ。
もし、ここで厚労省が却下した場合、どうしようかと心中暗い気持ちだった。
「帰国者の友」に集う人たちは、
こう言っちゃあ江戸っ子みたいだが、
宵越しの金は持たねえ、て言うか、持ちたくても最初から無いんダス。
胸を張って言う。
お金持ちは一人もいない。
みんな、やり繰りして何とか回して暮らしているのだ。
私は何が嫌と言って、お金で苦労するのが一番嫌だ。
借金抱えて暮らすのは、骨身にしみて辛い。
なので、李さんが、
70歳からの人生を死ぬまで借金だらけで、
車椅子の妻の介護で暮らして行くことを想像しただけで
貧血が起きそうだった。
取り敢えず、一つクリアした。
ふう~。
今まで、カンパしてくださったり、お見舞いのメールをくださったり、
一緒に心配してくださった皆さんに
ここでお礼を申します。
本当にありがとう!
あなたの温かい心が、足を一歩前に出すエネルギーになりました。
朗報その2!
我が「帰国者の友」では数年前に
中国残留孤児一世、二世の4人の「歩んできた道」を
文集にした。
当時の職場のコピー機などをちょっとお借りして
こそこそと作った手作り文集である。
それを昨年、帰国者の友スタッフの一人、純子さんが
勧めてくれて
解放文学賞に応募したのだ。
それがナント!
4人のうちの1人、西井澄さんの「私の歩んできた道」が
一次選考に通ったという。
もともとこの解放文学賞の選考委員は
誰とは言えないが(つまり忘れた)
非常に有名な方々ばかりであった。
ある程度のレベルに達すると、
賞は貰えなくても、選考委員の方々に、いろいろ批評とかしてもらえるというので
応募することにした経緯がある。
残留孤児として背負わされた人生の重みを、
一人でも多くの人に知ってもらいたい、
気持ちをシェアしてもらいたい、というスタンスの帰国者たちだ。
声がかかったら
学校の先生たちに話をしたり、
小学校の餃子作りの先生として出かけたり、
帰国者の友の
篆刻、中国刺繍、中国家庭料理、切り紙など
たくさんのイベントにも積極的に参加して来られた。
そんな仲間の1人の人生が
ちょっぴり報われた、
そんな気さえした
嬉しい知らせだった。
私の記憶によれば
西井澄さんは、1945年8月15日時点で9歳、黒竜江省にいた。
李達夫さんは、1945年8月15日では3歳、吉林省にいた。
西井澄さんは残留孤児一世(両親が日本人)、
李さんは残留孤児二世(お母さんが日本人、お父さんが中国人のため)。
遅素媛さんの北京での入院費が厚生労働省から全額給付されることになった。
本当に良かった。厚労省はいい判断をしてくれはったなあ。
東淀川区のケースワーカーAと、雲泥の差だ。
もし、ここで厚労省が却下した場合、どうしようかと心中暗い気持ちだった。
「帰国者の友」に集う人たちは、
こう言っちゃあ江戸っ子みたいだが、
宵越しの金は持たねえ、て言うか、持ちたくても最初から無いんダス。
胸を張って言う。
お金持ちは一人もいない。
みんな、やり繰りして何とか回して暮らしているのだ。
私は何が嫌と言って、お金で苦労するのが一番嫌だ。
借金抱えて暮らすのは、骨身にしみて辛い。
なので、李さんが、
70歳からの人生を死ぬまで借金だらけで、
車椅子の妻の介護で暮らして行くことを想像しただけで
貧血が起きそうだった。
取り敢えず、一つクリアした。
ふう~。
今まで、カンパしてくださったり、お見舞いのメールをくださったり、
一緒に心配してくださった皆さんに
ここでお礼を申します。
本当にありがとう!
あなたの温かい心が、足を一歩前に出すエネルギーになりました。
朗報その2!
我が「帰国者の友」では数年前に
中国残留孤児一世、二世の4人の「歩んできた道」を
文集にした。
当時の職場のコピー機などをちょっとお借りして
こそこそと作った手作り文集である。
それを昨年、帰国者の友スタッフの一人、純子さんが
勧めてくれて
解放文学賞に応募したのだ。
それがナント!
4人のうちの1人、西井澄さんの「私の歩んできた道」が
一次選考に通ったという。
もともとこの解放文学賞の選考委員は
誰とは言えないが(つまり忘れた)
非常に有名な方々ばかりであった。
ある程度のレベルに達すると、
賞は貰えなくても、選考委員の方々に、いろいろ批評とかしてもらえるというので
応募することにした経緯がある。
残留孤児として背負わされた人生の重みを、
一人でも多くの人に知ってもらいたい、
気持ちをシェアしてもらいたい、というスタンスの帰国者たちだ。
声がかかったら
学校の先生たちに話をしたり、
小学校の餃子作りの先生として出かけたり、
帰国者の友の
篆刻、中国刺繍、中国家庭料理、切り紙など
たくさんのイベントにも積極的に参加して来られた。
そんな仲間の1人の人生が
ちょっぴり報われた、
そんな気さえした
嬉しい知らせだった。
私の記憶によれば
西井澄さんは、1945年8月15日時点で9歳、黒竜江省にいた。
李達夫さんは、1945年8月15日では3歳、吉林省にいた。
西井澄さんは残留孤児一世(両親が日本人)、
李さんは残留孤児二世(お母さんが日本人、お父さんが中国人のため)。
親戚や友達から必死で借りてはらったものの、それをどう返済するか、収入のない李さんには絶望的な状況でした。日本政府(厚生労働省)が全額を給付してくれるのは、彼の人生が変わることです。周りの皆が「胸をなでおろし」ました。