昨日は南昌の八一公園内にある「日語角」即ち「日本語コーナー」に出かけたことを書いた。
今日は、その日本語コーナーを設立した博堅(はくけん)さんについて少し長くなるが触れておきたい。
以下は博堅さん自身が書いた文『父、福島高商外人教師・博棣華(はくていか)について』(大河内敏弘訳/研究誌「季刊中国」No.99)を読んで私が理解した事柄である。(『 』内は引用文)
博堅さんは1933年、日本の福島県で生まれた。
1924年当時、辛亥革命最中の社会変革に身を投じていたお父さん(博棣華さん:1890年北京生まれ)は権力闘争から逃れるために、お母さん(安熙貞さん)と3人の子どもとともに、当時東京外国語大学の教師であった叔父の導きで日本に渡り、福島高商(現・福島大学経済学部)教授として1944年12月まで20年間教鞭をとっていた。同時に東北帝国大学の講師も務めた。
博堅さんの記憶には、故郷福島で幼き日に過ごした家の思い出がはっきり残っている。
『庭は深々として柔らかな草が萌え、四季折々の花々が絶えず咲き競っている。木々の枝には果物がたわわに実り、秋になると裏庭のイチジクの実がなる。母はそれをもいでは大きなお盆に盛り、私たちに与えた。兄弟姉妹はその甘い果物を味わったものだ。
池には小さな魚が泳ぎ、辺りをかすめ飛ぶ水鳥の姿が点々としている。
朝になると、飼っている秋田犬のラッキーがワンワンと吠えさかり、家中が目覚める。
(中略)夕方になって陽が西に傾く頃、私たちは“夕焼け、小焼け~”と歌いながら家に帰ったものだ。(中略)この上なく幸せな日々だった。』
しかし、侵略戦争が始まるや日本社会は安泰に暮らす中国人一家をそのまま放置しなかった。
『(福島県)清水村の人々の顔にも笑顔は戻らず、終日「空襲警報」と「警戒警報」のサイレンばかりが鳴り渡っていた。1943年、学校では半日学習、半日勤労奉仕の制度が実施された。
ある日のこと、ガキ大将に率いられた同級生たちが、自転車の歯車を手に、「シナ人、チャンコロ!」とはやしながら私に襲いかかった。こめかみが割れ、血が噴き出し、制服の七つのボタンも引きちぎられた。反撃することは叶わず、涙が止まらなかった。
家に帰ると、制服制帽の特高がいつも我が家に来ていた。そして「日満は一体であり、共存共栄しなければいけない」と説教する。そのたびに、父の両腕をとって、諸手を挙げて「万歳」を唱えろと強いる。
父はこの凶暴な振る舞いに逆らうことはできなかった。しかし、身体は特高のなすがままに従っていたが、心までは従うことはなかった。』
1944年12月、戦争はいよいよ烈しさを増し、博堅さん一家を取り巻く状況は厳しさの極みに達した。福島大学の先生の説得で一家はなすすべもなく、中国に帰国する。博堅さんが11歳の時だった。
ひとまず、既に帰国していた長兄の居る北京に落ち着き、博堅さんは城北小学校東城第二小学校という日本人学校に通う。その学校には日本人をはじめ、満州人や蒙古人、朝鮮人などが通っていた。
その後、1945年3月、一家は上海に向かう。
そこで、お父さん(博棣華さん)は鉄道管理局参事に任ぜられ、併せて華北交通大学学長も務めた。
その年1945年8月、日本が降伏した。
降伏後日本軍岡村将軍は蒋介石の国民党と密約を結び、日本軍の一部を国民党軍の援軍にあたらせた。それと交換に他の日本軍は無罪放免を言い渡されて無事に日本に帰ることができた。その経緯は、映画「蟻の兵隊」でも詳しく語られている。
また、軍人たちがさっさと引き上げた後、取り残された満蒙開拓の民間人たちは「死の彷徨」とも言える半年以上にも及ぶ行程を彷徨い続けることになる。(映画「嗚呼満蒙開拓団」)現在、中国からの帰国者として大阪に住む西本澄さん(仮称)は、10歳でその彷徨の群れにいた。彼女はその時何人もの人が死んでいくのをすぐ傍で見続けた。機会があれば彼女の話も聞いて欲しい。
ずる賢く利権をむさぼる者たちの陰で、どれほどたくさんの人間の生が簡単に踏み潰され、無意味に捨て去られたことだろう。辛くも生を確保できた者たちも、多くはその後死ぬまで憤怒と虚無感にまみれていた。
また、今を生きる多くの生存者の心と体には戦争の傷が癒えることなく残っている。これは、日本人も中国人も、朝鮮人も、どこの国の人も同じだ。歴史が心と身体に刻まれているのだ。我が親たちの世代のしたことだ。忘れることはできない。
『1946年1月から7月にかけて、父・博棣華は、自分の職場の華北交通大学の教室や教職員宿舎を開放し、内蒙古から日本へ復員する日本人難民が故国へ帰る船を待つ間、食事と宿舎を提供した。
自らの危険を顧みず、人道主義の精神と日本での生活で庶民から受けた友好的な厚意に答えるために行ったことであった。
日本人難民は帰国に際して父の手を握り涙を浮かべて別れを告げた。こうして約600名が天津の溏沽港から故国へ向かった。
この行為で(中略)、1946年8月、父は逮捕され入獄した。当時私は13歳になったばかりだった。父の獄中生活の間、三姉・慧と私は、毎日監獄の父に食事を運んだ。監獄の花模様のガラス窓にかすかに映る父の後ろ姿については、語る言葉もない。』
同年9月、博堅さんのお父さんは無罪釈放された。しかし、その時の過重な苦労が原因で病を得、精神的にも打撃を受けて痴呆になり、1949年11月に亡くなった。埋葬された北京郊外の墓は文化革命の時に壊され、遺骨は散逸して今は無い。
お母さん(安熙貞さん)は1966年11月、文化革命中に江西省南昌市で逝去した。その遺骨は現在は日本の鎌倉に埋葬されている。
博堅さんが南昌市に日本語コーナーを設立したわけが、少し分かった気がする。博堅さんは現在もご健在で、毎年1、2度は南昌を訪れるそうだ。
凛とした美しい精神を持つ人が、国を問わずいる。たくさんいる。
今日は、その日本語コーナーを設立した博堅(はくけん)さんについて少し長くなるが触れておきたい。
以下は博堅さん自身が書いた文『父、福島高商外人教師・博棣華(はくていか)について』(大河内敏弘訳/研究誌「季刊中国」No.99)を読んで私が理解した事柄である。(『 』内は引用文)
博堅さんは1933年、日本の福島県で生まれた。
1924年当時、辛亥革命最中の社会変革に身を投じていたお父さん(博棣華さん:1890年北京生まれ)は権力闘争から逃れるために、お母さん(安熙貞さん)と3人の子どもとともに、当時東京外国語大学の教師であった叔父の導きで日本に渡り、福島高商(現・福島大学経済学部)教授として1944年12月まで20年間教鞭をとっていた。同時に東北帝国大学の講師も務めた。
博堅さんの記憶には、故郷福島で幼き日に過ごした家の思い出がはっきり残っている。
『庭は深々として柔らかな草が萌え、四季折々の花々が絶えず咲き競っている。木々の枝には果物がたわわに実り、秋になると裏庭のイチジクの実がなる。母はそれをもいでは大きなお盆に盛り、私たちに与えた。兄弟姉妹はその甘い果物を味わったものだ。
池には小さな魚が泳ぎ、辺りをかすめ飛ぶ水鳥の姿が点々としている。
朝になると、飼っている秋田犬のラッキーがワンワンと吠えさかり、家中が目覚める。
(中略)夕方になって陽が西に傾く頃、私たちは“夕焼け、小焼け~”と歌いながら家に帰ったものだ。(中略)この上なく幸せな日々だった。』
しかし、侵略戦争が始まるや日本社会は安泰に暮らす中国人一家をそのまま放置しなかった。
『(福島県)清水村の人々の顔にも笑顔は戻らず、終日「空襲警報」と「警戒警報」のサイレンばかりが鳴り渡っていた。1943年、学校では半日学習、半日勤労奉仕の制度が実施された。
ある日のこと、ガキ大将に率いられた同級生たちが、自転車の歯車を手に、「シナ人、チャンコロ!」とはやしながら私に襲いかかった。こめかみが割れ、血が噴き出し、制服の七つのボタンも引きちぎられた。反撃することは叶わず、涙が止まらなかった。
家に帰ると、制服制帽の特高がいつも我が家に来ていた。そして「日満は一体であり、共存共栄しなければいけない」と説教する。そのたびに、父の両腕をとって、諸手を挙げて「万歳」を唱えろと強いる。
父はこの凶暴な振る舞いに逆らうことはできなかった。しかし、身体は特高のなすがままに従っていたが、心までは従うことはなかった。』
1944年12月、戦争はいよいよ烈しさを増し、博堅さん一家を取り巻く状況は厳しさの極みに達した。福島大学の先生の説得で一家はなすすべもなく、中国に帰国する。博堅さんが11歳の時だった。
ひとまず、既に帰国していた長兄の居る北京に落ち着き、博堅さんは城北小学校東城第二小学校という日本人学校に通う。その学校には日本人をはじめ、満州人や蒙古人、朝鮮人などが通っていた。
その後、1945年3月、一家は上海に向かう。
そこで、お父さん(博棣華さん)は鉄道管理局参事に任ぜられ、併せて華北交通大学学長も務めた。
その年1945年8月、日本が降伏した。
降伏後日本軍岡村将軍は蒋介石の国民党と密約を結び、日本軍の一部を国民党軍の援軍にあたらせた。それと交換に他の日本軍は無罪放免を言い渡されて無事に日本に帰ることができた。その経緯は、映画「蟻の兵隊」でも詳しく語られている。
また、軍人たちがさっさと引き上げた後、取り残された満蒙開拓の民間人たちは「死の彷徨」とも言える半年以上にも及ぶ行程を彷徨い続けることになる。(映画「嗚呼満蒙開拓団」)現在、中国からの帰国者として大阪に住む西本澄さん(仮称)は、10歳でその彷徨の群れにいた。彼女はその時何人もの人が死んでいくのをすぐ傍で見続けた。機会があれば彼女の話も聞いて欲しい。
ずる賢く利権をむさぼる者たちの陰で、どれほどたくさんの人間の生が簡単に踏み潰され、無意味に捨て去られたことだろう。辛くも生を確保できた者たちも、多くはその後死ぬまで憤怒と虚無感にまみれていた。
また、今を生きる多くの生存者の心と体には戦争の傷が癒えることなく残っている。これは、日本人も中国人も、朝鮮人も、どこの国の人も同じだ。歴史が心と身体に刻まれているのだ。我が親たちの世代のしたことだ。忘れることはできない。
『1946年1月から7月にかけて、父・博棣華は、自分の職場の華北交通大学の教室や教職員宿舎を開放し、内蒙古から日本へ復員する日本人難民が故国へ帰る船を待つ間、食事と宿舎を提供した。
自らの危険を顧みず、人道主義の精神と日本での生活で庶民から受けた友好的な厚意に答えるために行ったことであった。
日本人難民は帰国に際して父の手を握り涙を浮かべて別れを告げた。こうして約600名が天津の溏沽港から故国へ向かった。
この行為で(中略)、1946年8月、父は逮捕され入獄した。当時私は13歳になったばかりだった。父の獄中生活の間、三姉・慧と私は、毎日監獄の父に食事を運んだ。監獄の花模様のガラス窓にかすかに映る父の後ろ姿については、語る言葉もない。』
同年9月、博堅さんのお父さんは無罪釈放された。しかし、その時の過重な苦労が原因で病を得、精神的にも打撃を受けて痴呆になり、1949年11月に亡くなった。埋葬された北京郊外の墓は文化革命の時に壊され、遺骨は散逸して今は無い。
お母さん(安熙貞さん)は1966年11月、文化革命中に江西省南昌市で逝去した。その遺骨は現在は日本の鎌倉に埋葬されている。
博堅さんが南昌市に日本語コーナーを設立したわけが、少し分かった気がする。博堅さんは現在もご健在で、毎年1、2度は南昌を訪れるそうだ。
凛とした美しい精神を持つ人が、国を問わずいる。たくさんいる。
どうして日本という国は歴史教育を軽視するのかね~~。
南昌の日本語コーナー、そのような歴史を含んでいたのですね。最近は仕事が忙しく、日本語コーナーに参加できていないのですが、八一公園で知り合った日本語コーナーの方々が、よく私のお店に牛丼を食べに来てくれています。
若い日本語学習者の皆さんにも、是非博堅さんのこと知っていただきたいですね。
博堅先生は今も杭州の御自宅から時々電話をくださいますが、体調の関係で南昌まで足を伸ばせなくなっている御様子です。
夏は油照りの暑さ、冬は突き刺すような風と雨、と一年中天候には苦労されることでしょうが、南昌人は仲良くなったら心から信頼できる人々だと思います。お仕事が順調に行きますように、そして、ときどきは八一公園日語角に出向いて可愛い学生たちと交流なさってくださいますように願います。
もし、日語角にいらっしゃったとき劉波さんや丁勇先生にお会いになったらよろしくお伝えください。また、いすゞ自動車の社員の皆さんにも、それから八木先生にも……。ああ、キリがありません(笑)。