毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「淀屋橋の適塾に行った」 2014年9月21日(日)No.992

2014-09-21 21:45:50 | 日記

旅の疲れも取れ、いよいよ10月のTOEIC目指して勉強だ!

と思ったが、その前に

今日は以前申し込んでいた適塾修復記念講演会に出かける日だった。

これに申し込んだ人は適塾を無料で参観できる。

適塾は国の史跡・重要文化財であるが、所属は大阪大学だそうだ。

講演は大阪大学の村田路人さん、大阪くらしの今昔館館長の谷直樹さんが

それぞれ「種痘の歴史の中での適塾の役割」(村田さん)、

「適塾(旧緒方洪庵住宅)の建築について」(谷さん)

について造詣の深いお話をされたが、それも無料だった。

大阪大学、太っ腹だねえ。

 

私の適塾見学はこれで確か3回目だが、何度行ってもいいところだ。

留学生はもちろん、機会がある全ての人に一度は訪れてもらいたいスポットである。

まず、降り立ったのは大阪淀屋橋。

下の写真は淀屋橋の橋の上から撮った土佐堀川。

大阪は多くの堀川(人工の河)があって、江戸時代には町の中心まで船が行き来でき、

活発な経済活動を行ったという。

 

大阪に現存する江戸時代の町屋史跡はこの適塾だけだそうだ。

谷さんいわく、

「大正時代に道路拡張のため2間ほど削り取られて、表口がみっともなくなった」

とのこと。

 

入口を入ってすぐ左の玄関部屋。

 

順路に沿って行くと、玄関部屋の次は教室で、その奥に小さい中庭がある。

福沢諭吉や大村益次郎、橋本左内がこの庭を眺めていたんだなあ。

 

さらに奥には、応接間や客座敷がある。間口が狭く、奥深い建築だ。

 

さらに客座敷の奥に前栽(せんざい)と言われる中庭よりもっと広い庭がある。

前栽の向こう(屋敷の一番奥)には蔵がある。

 

以前、冬に訪れた時、台所を見て(八重さん、こんな底冷えのするところで毎日、

水を汲んだり、お米を研いだりしていたんだ…)と思った。

今日も、16歳で緒方洪庵のもとに嫁いできた優しく美しい八重さんが

写真の中で微笑んでいた。

 

水貯めと調理台か。水はどこから?

2階に上がる階段。

これ、階段と言えるか?というほど一段いちだんが高い。

パンフレットで測ると一段が38cmあまり。

「男性ならいいかも知れんけど、女性は着物着てこんなとこ、どうやって登ってたんやろ?」

と、恰幅のいい年配の女性が手すりにしがみつきながら2階に上がっていた。

下から階段を見上げたところ。

 

階段の上から。段の幅はとても狭い。

江戸時代には手すりやストッパーなどついていなかったはずだから、

きっと塾生は何回も落ちたことだろう。

この階段、忍者屋敷みたいで私は好きだ。

 

一冊の貴重な蘭和辞典を奪い合うようにしながら、この大部屋で塾生は

ひたすら学んだ。成績のいい者から自分の居場所を指定できる制度だったそうだ。

梅雨時、暑い夏、寒い冬など、塾生たちは場所によって快適さの明暗を分けるので、

さらに勉強に拍車をかけたのであろう。福沢諭吉は、およそ勉強については

「この上にしようもないほど勉強した」とのこと。この言葉は胸を打つなあ。

できたら、この大部屋で講演会とかしてもらえたら嬉しいんだけどなあ。

 

部屋の中心の柱には塾生がつけた刀傷がある。

なぜそんなことをしたのか。当時、刀は武士階級しか持てないはずなので、

武士出身以外の者は、すぐ傍に帯刀した者がいたらおちおち勉強できなかったのでは?

と、いろいろ想像する。

この部屋に入ると、たった一冊の辞書を、コピー機もない当時、

ひたすら自分で書いて写した塾生たちの姿が浮かんでくる。

それにしても、男の子ばかりだったのだ。

どんなにか勉強したかった女の子だって、たくさんいただろうに。

当時、女に生まれ、人生を過ごした人たちのことも知りたく思う。

 

塾生の大部屋の窓から外を望む。江戸時代とは異なり、今はもうビルしか見えない。

 

外に出ると、入れ替わりに何組かのグループが続々と入口から入って行った。

この入口を大阪くらしの今昔館館長の谷さんは、みっともないと言う。

そう言われたら、だんだん、そんな気になってくる。

コメント
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