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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「『ネット言葉』は日本社会の劣化に大いに関与していると思う」2013年11月11日(月)No.793

2013-11-11 11:42:37 | 日本語
先日の「『ネットの言葉遣い』はへんだと思う」の続き。

日本語を使う人たちは、丁寧体と普通体を使い分けて暮らしている、と書いた。
普通体で話すことで「親近感」「連帯感」を表現できることも確認した。
だが、近年「ネット言葉」と括られる言葉
(2ちゃんねる辺りが発祥の地であるらしい)には、一般的な普通体にはない特徴がある。
まず、〈高飛車で偉そうなもの言い〉であり、〈呪詛の言葉を好む傾向〉である。

初めて2ちゃんねるサイトを見たのは5年以上前(10年未満)のことで、娘に、
「何じゃ、こりゃあああ!」
と叫ぶと、
「お母さん、嫌なら見なかったらいいだけやん。」
と冷静に返された。
それもそうだ。
もし、その言語がそのサイトの中だけの小さな世界に納まっていれば、ね。

聞いていて(言葉遣いが攻撃的だ)と不快になることは以前からあった。
例えば子どもの
「死ね」「殺すぞ」「どっか行け」「はあ、あんただれ?」「ウザっ」「くさっ」……。
大阪の公立小学校の子どもが学校で頻繁にこれを言い出したのは、
1990年代後半だったと記憶している。
ある保護者と話していて、
「同じ親同士で話していても、5歳年下の親とは全く話(言語)が通じません。」
と言われ、驚いたこともある。
小学生は親や、すぐ上の若者世代から強い影響を受ける。

言語学者の真田信治さんが「ネオ方言」と分類された若者言葉にも、
閉ざされた身内だけで使うことが許される類の言葉を多く見うける。
それはそれで、存在理由があるのだろう。
社会の検閲なしに好きなことを言い散らかしたい気持ちは、誰にでもある。
私も時折、空や天井に向かって両こぶしを振り回し、
「ちくしょー!」と言うことがある。
北京の大学院に進学した学生が、
「大学院の日本人の先生で『ちくしょー』と言う先生は誰もいません。
私は先生の『ちくしょー』が懐かしいです。」
とメールをくれた。
これには微妙に言い訳したくなるのではあるが、
もしこの世から『ちくしょー』という言葉が亡くなってごらんなさい。
大変さびしいのではないですか(と居直る(~_~;))。

その種類の言葉は人に言うのではなく、独り言として完結させることが肝要なのである。
2ちゃんねるなど狭い身内のみで流通していた「ネット言葉」は、
もはや今「ネオ方言」の枠を越え、
野放図に、私のブログのような超こじんまりしたネットの片隅まで、
ズカズカと土足で侵入してきている有様だ。

実はネットだけにとどまらない。
在特会の「皆殺し」「ゴキブリ」「首つって死ね」という言葉は、
「ネット言葉」が決壊して現実の社会に溢れ出てきたものだと言えるだろう。
匿名性、無責任性を盾にとって増殖したこの言葉は、
現実社会を確実に変化させている。もちろん悪い方向に。

以前(今年4月25日 No.630)、パギやんの文を紹介した中に、
日本人と思しき若い女性2人が、前にいるインド人風サリー姿の女性のすぐ後ろで、
「早よ行けよ、このアジア人」
「ははは、アジア系だよね」
と言い、笑ったという話がある。
これは身内だけの世界にはとどまらず、現実に影響を及ぼす場での言葉である。
パギやんが、その2名の未熟者を怒鳴りつけたのは言うまでもない。

しかし、この事件は大変な錯覚をしている日本人が蔓延している証左と言えないか。
私たち人間は、思考し感じる生き物だが、
自分だけの狭さ、浅さを克服するために、互いに交流し、批判を仰ぎ、
なんども反芻して自分という人間を広げ、深めていく。
自分たちだけの身内の、狭い価値観や排他的な感情を、
だらだらと現実世界に流出させて憚らない「ネット言葉」を使う人たちは、
福島原発事故で太平洋に流れ出した放射能のように、
日本(日本社会)を劣化させる一途をたどっているように私には見える。
彼ら・彼女らには
言葉を蔓延させ、社会を劣化させることはできても、修復させることはできない。
初めからそんな気がないのである。
「死ね」「殺すぞ」「ゴキブリ」で子どもを育てることができるだろうか。
否、子どもはどんな状況でもそれを条件として生きるだろう。
しかし、考えても見よう。
どんな子どもが育ち、育ったその子たちは
どんな社会を形成するのだろうか、と……。


コメント (2)
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