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毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「世界が破滅の前夜だなんて嘘だろう」 2015年1月30日No.1084

2015-01-30 09:36:58 | 


あれもこれもいっぺんに悪いことが進行している。

ISによる人質、日本政府の‘世界が見えない=見ようとしない’対応、

それにかぶせて野党政治家たちの「政府を見守りたい」という‘心温かい’発言、

さらにそれを取り囲む日本村の人たちの政府対応支持という‘皇国の民’発言、

全てが鉛を飲まされたような気分にさせられる。

また、後藤さんのことを祈っている間に、

沖縄では日々さらに悪い事実が積み重ねられている。

ここ数日、頭をグルグルめぐっていたのが、

次のフレーズだ。

『でもよう、何度でも なんどでも おいらに言ってくれよう

 世界が破滅の前夜だなんて 嘘だろう』

(何という歌だったかな…)と、調べて見ると、

「明日なき世界:Eve of Destruction」だった。

1945年生まれのP.F.スローンが19歳の時につくり、

バリー・マクガイア(Barry Mcguire)が歌った反戦歌で、アメリカで大ヒットしたそうだ。

ちなみに、バリー・マクガイアはニュークリスティ・ミンストレルズ

(これまた懐かしい!私が中学生の時、北海道の知床にも電波が届くNHKラジオで、

中村とうようさんが東京から発信してくれたフォークグループの一つだ。

私にとって中村とうようさんは偉大な音楽の先生だった)

の出身で、1963年に「グリーン・グリーン」を作詞・作曲した当人だという。

知らなかった!

P.F.スローンが作ったこの「明日なき世界」の歌詞に、

"You're old enough to kill, but not for votin'"

「お前は殺しのできる歳、でも選挙権もまだ持たされちゃいない」(高石友也訳)

というのがあり、この歌の影響でアメリカ合衆国では

当時21歳から選挙権があったのを、1971年に18歳からに変えたという。

歌が人々に力を与え、行動したからだな。

 

私が知ったのは高校生の頃、高石友也さんが日本語にして歌ったものだ。

今振り返れば、日本の音楽シーンで

中村とうようさんや高石友也さんの果たした役割は絶大なものだ。

私のような日本の超辺境、北東の端っこに住み、

日本のセンターからの民放電波もろくに届かず、

山野の木々と草と冷たい空気が生活の全てだった、ちっぽけな子どもにまで、

音楽を通じて世界を考えさせる力を持っていたのだ。

 

「明日なき世界」(詞:高石ともや)

東の空が燃えてるぜ
大砲のたまが破裂してるぜ
お前は 殺しのできる歳
でも選挙権もまだ 持たされちゃいない
鉄砲かついで得意になって
これじゃ世界中が死人の山さ

でもよう何度でも何度でも
おいらに言ってくれよ
世界が破滅の前夜だなんて
嘘だろう

 

↓バリー・マクガイアの歌の視聴

http://grooveshark.com/#!/s/Eve+Of+Destruction/2J1Kd4?src=5

 ↓高石ともや&ジャックスによる日本語版「明日なき世界」

https://www.youtube.com/watch?v=f7L7wyTB850

 ↓忌野清志郎の歌う「明日なき世界」

https://www.youtube.com/watch?v=YTQhBLDZ24g

↓忌野清志郎&佐野元治の「明日なき世界」

https://www.youtube.com/watch?v=7d5zax2qnTk

 ↓泉谷しげるの「明日なき世界」

https://www.youtube.com/watch?v=TlDr-qEKBK0

 

〈付録〉

明日東京でこんなのがあるんだって。いいなあ!

旅費が高いから行けませんけど……(涙)。

↓   ↓   ↓   ↓   ↓

江東フォークフェスティバル2015

~フォーク黎明期1969→2015へのメッセージIV~

日付 2015年1月31日(土)
時間 16:00開演
場所 ティアラこうとう 大ホール
料金 全席指定 一般5,000円 ペア割9,000円
※ 小さなお子様の入場、6歳以上可

 監修 田川律
出演 小室等、なぎら健壱、遠藤賢司、加川良、友川カズキ、大塚まさじ、山崎ハコ、高田漣、小野一穂、わいわい合唱団w/田川律+竹田裕美子

 ティアラこうとう
〒135-0002 東京都江東区住吉2-28-36                                              TEL03-3635-5500 FAX03-3635-5547

 

  

 

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「趙博&HALMA GEN『風まかせ』ライブ」2015年1月14日(水)No.1073

2015-01-14 23:41:41 | 

今夜十三駅傍「風まかせ 人まかせ」での、

趙博さん&はるまげんさん定期ライブ(二水会)に初めて出かけた。

 

 

韓国・朝鮮語での新年の祝詞紹介の後、趙博さんは

「私の子どもたちへ」(作詞・作曲笠木透)を唄い出した。

高石友也とナターシャ・セブンの歌で以前よく聞いていた曲だ。

たまたま私は今日、『瓦礫の中から言葉を』(辺見庸)を読み終えて、

思いが胸中、気体のように膨張していたところにこの曲だ。

思いに言葉がついていけない。

この曲は2011年3月11日のずっと以前に作られたものなのに、

いったい私たちは、何をしていたのか……。

 

     「私の子どもたちへ」作詞・作曲 笠木透

   生きている鳥たちが 生きて飛びまわる空を

   あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは

   目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう

   近づいてごらんなさい こぶしの花があるでしょう

 

   生きている魚たちが 生きて泳ぎまわる川を

   あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは

   目を閉じてごらんなさい 野原が見えるでしょう

   近づいてごらんなさい リンドウの花があるでしょう

 

   生きている君たちが 生きて走り回る土を

   あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは

   目を閉じてごらんなさい 山が見えるでしょう

   近づいてごらんなさい こぶしの花があるでしょう

 

   生きている君たちが 生きて走り回る土を

   あなたに残しておいてやれるだろうか 父さんは

 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

笠木透さんは1969年中津川フォークジャンボリーを企画・スタートさせた人だが、

フォークジャンボリーが自分の考えと違う方向にむかって以降、一切出演しなかったそうだ。

有名にもならず、CDも出さないまま昨年12月22日、77歳で亡くなった。

しかし、「私の子どもたちへ」「我が大地のうた」「私に人生と呼べるものがあるなら」

などはYOU TUBEでも聞ける。

趙博さんが、

「いい人ばかり逝ってしまう。逝ってほしい人はいつまでも元気なのに」と。

同感だ。

 

今日聞いた曲は多くが懐かしく、思わず口の中でモゴモゴ聞こえない様に歌った。

・「私の子どもたちへ」(詞・曲 笠木透)

・「釜ヶ崎人情」(詞・もず昌平 曲・三山敏)

・「人生一路」(これは知りませんでした。美空ひばりさんの歌で、この間長嶋愛生園で歌ってウケたそうです)

・「前を向いて歩こう」(神戸の震災のとき以来趙さんが歌い続けている歌。これは「上を向いて歩こう」と比較して中国の学生たちに紹介したことがある)

・「橋」(詞・曲 趙博)

・「アホダラ教」(あらかわきよしさんという人の芸を踏襲したとのことです。リズム付きの諷刺しゃべくり)

・「教訓Ⅰ」(詞・曲 加川良)

・「老人革命の歌」(詞・曲 泉谷しげる)

・「赤土の下に」(詞・加川良 曲・アメリカの誰か、ちょっと私は分かりません)

・「釜石小学校校歌」

―――――――――

↑「アホダラ教」のときは衣装や小物も。

 

↑HALMA GENさんのピアノソロ。口にはカズー、足には鈴。

「WHAT A WONDERFUL WORLD」と、

あとオリジナル曲(すみません、曲名忘れた)を演奏。

この寡黙な音楽家が、なぜずっと趙博さんとともに活動しているのかが

分かる気がする。温かく、励ましに満ちた演奏だった。

 

↑その間にパギやんはちょっと休憩。オーナーの松井寛子さんと。

 

〈二水会ライブ〉について

毎月第二水曜日夜7時から阪急十三「風まかせ 人まかせ」にて。

(来月2月は第三水曜日(18日)に変更)

思いっきりそばで聞ける、めちゃゼイタクなライブであることは間違いない。

問い合わせは「風まかせ 人まかせ」tel.06-6886-8686まで。

 

 

 

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「蛙も凄いが桑田圭祐さんもすごい!」2015年1月6日(火)No.1070

2015-01-06 19:10:25 | 

すごいのは蛙だけじゃありませんでした。

大晦日の夜、NHK紅白歌合戦でサザンオールスターズが歌った

「ピース(平和)とハイライト(極右)」は現安倍政権を強烈に批判したものだと

フェイスブックやブログに紹介されており、

紅白を何十年も見ていない私としては(紅白どころかテレビそのものを見ない)

どれどれと記事を読んでみました。

下は杉並からの情報発信ですさんのブログから一部転載したものです。http://blog.goo.ne.jp/yampr7/e/8360877122a95a780f44c4a97d6771dc

―――――――――(転載ここから)

 サザンオールスターズの桑田佳祐が31日のNHK紅白歌合戦に

横浜アリーナでのライブ開催中に中継出演して

『ピースとハイライト』と『東京VICTORY』の2曲を歌ったとのことです。

 

ちょび髭をつけて『ピース(平和)とハイライト(極右)』を歌ったのは、

安倍晋三ファシスト&サイコパス首相は極右ファシスト・ヒットラーそのものだと

強烈に批判したのです。

以下に書き起こした歌詞と演奏画像URLをお送りします。

「ピースとハイライト」

https://www.youtube.com/watch?v=CziB7vw6GMo&spfreload=10 演奏映像

作詞 桑田佳祐・作曲 桑田佳祐・唄 サザンオールスターズ

何気なく観たニュースで
お隣の人が怒ってた
今までどんなに対話(はな)しても
それぞれの主張は変わらない

教科書は現代史を
やる前に時間切れ
そこが一番知りたいのに
何でそうなっちゃうの?

希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ
未来に平和の花咲くまでは・・・憂鬱(blue)
絵空事かな?お伽噺かな?
お互いの幸せを願うことなど

歴史を照らし合わせて
助け合えたらいいじゃない
固いこぶしを振り上げても
心開かない

都合のいい大義名分(かいしゃく)で
争いを仕掛けて
裸の王様が牛耳る世は・・・狂気(Insane)
20世紀で懲りたはずでしょう?
燻る火種が燃え上がるだけ?

色んな事情があるけどさ
知ろうよ お互いのイイところ!!

希望の苗を植えていこうよ
地上に愛を育てようよ
この素晴らしい地球(ふるさと)に生まれ
悲しい過去も 愚かな行為も
人間(ひと)は何故に忘れてしまう?

愛することを躊躇(ためら)わないで

(終り)     

――――――――(転載ここまで)

NHK紅白歌合戦での『ピースとハイライト』以上の大傑作が下の動画。

フェイスブックへの趙博さんの投稿で知りました。

これこそ桑田君の神髄が発揮されていて、私は大好きです。

ビートルズの「アビーロード」を「あべーロード」にして歌っています。

英語を日本語に無理なくスライドさせる言葉のセンス、見事としかいいようがない。

これは必見!

(中国の人たちにも見てほしいけどyoutube無理だろうなあ・・・)

https://www.youtube.com/watch?v=NoqKQRPCII4&feature=youtu.be

 

 

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「言音一致の音楽家:遠藤賢二の歌に涙す」2014年8月19日(火)No.968 

2014-08-19 20:17:11 | 

7月のイスラエルによるガザ侵攻以来、

深い歌を聞いてもきれいな音を聞いても、それに集中できなくなっていた。

気分転換しないと…、と思うのだが、心が虚ろで楽しめない。

そんな先々週の土曜の朝、

ピーター・バラカンさんの番組の後で、そのままラジオをつけっぱなしにしていたら

遠藤賢二の「44年目のカレーライス」が聞こえてきた。

エンケンはもちろん昔から知っているが、

声が、歌の音色が、こんなにも優しくて清々しかったかと、

思わずラジオにすり寄った。

 

『恋の歌』というアルバムをすぐ買った。

これは3000円以上するCDだが、遠藤賢二の魂がこもっている。

傍に置いておくと、遠藤賢二が近くにいる気がする。

1.44年目のカレーライス
2.君の朝の挨拶
3.どうしてそんなに可愛いの
4.山葉次郎テイク1
5.友達の女
6.山葉次郎テイク2
7.天使の歌
8.対決! 次郎1次郎2次郎3
9.君を抱きしめたら炊きたてのご飯の匂いがしたよ‥生ギター編‥
10.小さな日傘と大きな日傘
11.恋の歌
12.真央ちゃんと妍児(ヨナ)ちゃん

 

全部、清らかで美しい曲だ。

ラジオで聞いたとき、勝手に涙が出てきたのは、

心を、柔らかくて優しい魂で洗ってくれたからなのかな。

1曲目「44年目のカレーライス」の歌詞の一部を下に…。

 

・・・・・・・・・

*今も好きだよカレーライス

でもあまりにも辛いのは

無理して食べなくなったけどね

 

そう 歌の中の君とは別れ

猫の寝図美は死んじゃったけど

今の女(ヒト)のも美味しいカレーライス

 

いま猫は居ないけど 野良猫ミイコが庭に来るよ

「よく頑張ってるね ミイコはいいこだね」って言うと

うなずくように目を細めるよ

 

*それから例えば街の食堂でね

小さな子が大きな声で 「カレーライス」って注文すると

「カレーライス美味しいね 好かったね 有難う」って

抱きしめたくなるよ

 

そうなんだよ 僕はただ曲を作っただけなのにね

でも嬉しくってね 創ってよかったなって思うんだ

 

*そう 僕の願いはただひとつ

そんな小さな子に 赤ちゃんに これからの若い人に

美味しい空気を たらふく食べさせてあげたいな

そしてたくさん恋をしてほしい

 

つくづく思うんだ

この日本はもっと綺麗で

もっと美味しい国だったんだよ

だからもうこれ以上 穢(けが)さないで

 

*それからね 悲しんでいる暇もないくらい

気のいい音楽仲間や友だちが 次々と死んじゃうよ

でも次は僕じゃないよ

なおさら命を張って 音楽だけは頑張るよ

 

そしたら 来年の45年目も 2020年の50年目も

僕が白寿となるはずの2046年も

美味しいよ カレーライス

・・・・・・・・・

 

 

 

 

 

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「『海行かば』考 その2」 2014年3月5日(水)No.861

2014-03-05 20:29:55 | 

南昌市内の日本語コーナー設立者である博堅先生が、昨年、

「海行かば 水浸(みず)く屍(かばね)

山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)

大君の辺(へ)にこそ 死なめ 顧みはせじ」

と、朗々と歌われた時、心中複雑だった。

(なぜこの歌を中国人である博堅先生が知っているのか、

知っているとしても、日中戦争当時に盛んに歌われた軍歌を口にして平気なのか)

というのが、まず第一に浮かんだ疑問だった。

先生は、1933年に福島で生まれ、11歳まで福島市で育った。

この歌は福島市の人々が、戦死した兵士のお骨を入れた白い箱を持ち、

町の中を行列して歩いていたときに聞いて自然に覚えた歌だという。

まだ歌の意味が分かるには幼すぎたが、

音感鋭い先生は「菜の花畑に~」や「アムール川を北に見て~」同様、

全身で吸収したのだろう。

 

歌詞を読めば、天皇への忠誠を謳ったものである。

元々、万葉の歌人、大伴家持が一族を代表して

(「陸奥国より金(くがね)を出せる詔書を賀(ほ)く歌」という長歌+反歌を

天皇に献上したものの一部だという。

当時は藤原氏擡頭の時代で、大伴氏の勢力は既に衰えていた。

この歌で大伴の家系を強調した家持は時代錯誤の感を与える、と加藤周一は言い、

また更に、この奈良時代の時代錯誤の歌を、

戦時下の宣伝の道具にした当時の権力は、二重の時代錯誤であると、突き放している。

この厳しい批評は、加藤周一(1919年東京生まれ)が太平洋戦争(1941~45)当時、

22歳~26歳だったことで納得できる。

戦争に突入してから敗戦までの時期を、

大学生として、のちに、医局の職員として過ごしながら、

一貫して、あの愚かな戦争に嫌悪感を持っていた彼は、

この「海行かば」にも、戦争ムードを盛り上げる道具以上の感想が無かったのだろう。

あの戦争が嫌で嫌でたまらなかった若者の気持ちとして、よく理解できる。

 

しかし、私が初めてこの歌を聞いたのは、1970年代前半、

自分でノンセクト・ラジカルを標榜していた若者からだ。

既に大学闘争は下火になり、多くの若者たちは大学に戻ったり、中退したり、

「新左翼」党派に所属したり、または行方不明になったり、死んだりした。

ムードはとことん沈鬱だった。

闘いに敗れたといっても、いったい、あれは何と闘っていたのか。

 

そんな時に、「海行かば」を歌う若者は、

「これ、太平洋戦争のときの軍歌やけど、なんか反戦歌に聞こえるわ」

と言った。

「海行かば 水浸(みず)く屍(かばね)

山行かば 草生(くさむ)す屍(かばね)」

このフレーズを繰り返し歌っていた。

おそらく彼は「大君の云々」は知らなかったのではないか。

この2行だけ取り上げると、確かに、荒涼たる風景と累々と横たわる屍が思い浮かぶが、

それ以上でも以下でもない。

さらなる想像と思い入れは一人ひとりの作業に帰す。

 

思えば、この2行だけの詩は、まるで映画「永遠のゼロ」のようだ。

どっちにでも転ぶ。

屍を踏みしだいて、さらなる殺し合いに進むのか、

命を失う慟哭を自分の世代で終わらせるのか。

3行目は一人ひとりが選択するのだ。

 

 

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「祝♡上柴とおるの『ポップス出前寄席』第40回」 2013年7月21日(日)No.715

2013-07-22 10:31:28 | 
この記事は昨日(21日)に自宅で書いたのですが、インターネット接続環境が悪くて
アップできませんでした。
ちょっとズレを感じるかも知れないけど、ニュースじゃないんだし、ま・いいか。

号外 祝♡東京選挙区山本太郎当選確実!(21:147月21日NHKラジオ)
「目先の利害関係に走る人々との戦いが今から始まる。」(当確直後の山本太郎の一言)
祝♡大阪選挙区たつみコータロー当確!(21:427月21日NHKラジオ)
「反自民(暮らし破壊)、反維新(大阪市民が一番の被害者)、消費税値上げ反対、憲法を守る!」(当確直後のたつみコータローの一言)
〈山本さん、たつみさん、そして彼らに投票した人たち、一緒に頑張ろう!―ブルーはーと〉

祝♡上柴とおるの『ポップス出前寄席』第40回

過去2回ほどこのブログに書いた
上柴とおるの『ポップス出前寄席』」がめでたく40回を迎えた。
大阪市内、今池商店街の喫茶店「日本一」で毎月第3土曜日に開かれている
「上柴とおるのポップス出前寄席」(先着30名だれでも参加O.K.)は、
3年前の春にスタートして以来40回を数えた。
こうして一つひとつ歴史ができるのだなあ。

「知る人ぞ知る」と形容される人は社会のどの分野にもいらっしゃる。
上柴とおるさんもその一人。
大人(またの名を「年配」と言う)のロック・ポップス(いわゆる洋楽)好きが
親しみと尊敬を込めて「師匠」と呼ぶ存在である。
上柴とおるさんは10代前半で欧米ポップスに傾倒し、
その後今まで約半世紀に渡ってその道一筋でやってきた。
いわゆる洋楽分野のCDライナーノート著者欄に名前が載る業界人だが、
全然遠い存在ではない。
3年前までFMCOCOLOの洋楽ポップス番組
「南港ミュージックエンターテインメント」の人気DJだったが、
政界再編ならぬFM業界再編の波をかぶり、番組は突然中止されてしまった。
我慢できない上柴ファンの一人である大阪の喫茶「日本一」店主バルタン亀吉さんが
呼びかけ、上柴さんがそれに応えて実現した喫茶店内での
「南港ミュージックエンターテインメント続編」が
「上柴とおるのポップス出前寄席」だった。

毎回テーマを設けてそのテーマに沿ったリクエスト曲をかけているが
40回目の今回は、「40」ということで、
『Forty Times』(The Association)、
『 Top 40』(Robert Palmer)、
『My Way』(Sid Vicious)(註)が選ばれ、
当選した人には上柴さんから賞状が渡されるというきめ細やかさ。
さらに、常連Bettyさんや上柴さんからのボンチ揚げやわさび豆
(ビールが欲しくなるもんばっかり)等の差し入れ、
店主バルタンさんのお星様型トーストなどが出され、
和気あいあいの雰囲気が溢れる。
参加希望者はMixi「ポップス出前寄席」メンバーになることが必要。
この私も、手続き意味不明なMixi「出前寄席」に何とか入会し、
今に至っているのは上柴さんを慕う一途さの故である。

今回の私にとっての掘り出し物は『Hangin' On』(Joe Simon)である。
Cher(シェール)の同曲と聞き比べさせてもらい、当然Cherも良かったが、
Joe Simonの方は(これは!買って中国に持って行きたいな)と思うものだった。
この夏出会えてよかった曲の一つ。

次回は8月17日(第3土曜)です。
大阪近辺の大人のポップス・ファンには何よりの集まりですよ~!
歓迎光臨!

(註)なぜ「My Way」が「40」と関係あるかというと、
〈40→しじゅう→いつも→always→way〉ということで。
(リクエストしたお絵かきアコさんの言)
Sid Vicious(セックス・ピストルズ)の「My Way」、
何百回我が不肖の息子の解説付きで聞かせられたことか。
自分の部屋で聞かずに、わざわざリビングでかけて、
あーだ、こーだ「パンクとわ」と説得する可愛いパンク少年だったな。
イヤ、懐かし~。
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「加藤登紀子『討匪行』を20回聴く」 2013年7月16日(火) No.710

2013-07-16 21:04:16 | 
「討匪行」八木沢丈夫作詞/藤原義江作曲 

どこまで続く 泥濘(ぬかるみ)ぞ
三日二夜を 食もなく
雨降りしぶく 鉄兜(てつかぶと)

すでにタバコは なくなりて
たのむマッチも 濡れ果てぬ
飢え迫る夜の 寒さかな

いななく声も 絶え果てて
倒れし馬の たてがみを
かたみと今は 別れ来ぬ

ひずめの跡に 乱れ咲く
秋草の花 しずくして
虫が音細き 日暮れ空

通信筒よ 乾パンよ
声も詰まりて 仰ぐ目に
あふるるものは 涙のみ

賊にはあれど 亡き骸に
花を手向けて ねんごろに
興安嶺よ いざさらば



場所は興安嶺ではないが、
この歌を聴くと、1986年、江西省に謝罪に来た
大阪の「椿会」という戦友会の人たちを想う。
1986年にはほとんどが80歳以上になっていた彼らが、
日中戦争時、中国侵略の先兵として
江西省の地を行軍していた姿を想像する。
中国人を「匪賊」と見做し、
その命を奪うことが使命だった兵士たち。
中国人の命と尊厳を踏みにじると同時に自らの人としての意識をも
摩耗させることによって兵士としての日々を生きたのだろう。

ナチスのユダヤ人捕虜収容所でも、
ユダヤ人を人間と見做さないと思い知らせるだけでなく、
ユダヤ人同士がお互いを人と見做せないように計画し、
綿密に実行していたという。
今の時代のイジメ行動もこれに似ている。
「人が人でいられない状況」は想像するだけでも凍りそうになる。

この歌は甘いのではないだろうか。
生きて日本に帰って来られた、
その後だからできた歌なのではないのか。
そう疑うのは幸せな戦後世代の思い上がりだろうか。

1986年、南昌新建県のある村で、椿会副団長の井上さんは、
『私たちは罪人です。私たちの部隊は、新建県のたくさんの人達を
殺しました。本当に申し訳ございません。
これからは、日中友好のために尽くしたいと思います。』

と、村長に深く頭を下げて謝罪した。
村長は、うん、うんと頷いて握手し、二人とも涙を流していた。
(その時の通訳博堅先生からの聞き取りに拠る:2013年6月)

敗戦からこの謝罪まで、
元兵士たちはさらに40年以上の時を生きなければならなかった。
それもまた地獄だったのではないだろうか。


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「なぜ『北国の春』を聞くとイライラするのか」 2013年7月3日(水) No.698

2013-07-03 14:10:38 | 
日本では何十年も聞いていなかった曲を、ここ南昌でよく聞く。
中国の人たちが日本の歌を熱唱してくれているのだ。
改革開放以降、雪崩をうって入ってきた外国文化の先頭を切ったのが
当時の日本の歌だ。
例えば「昴」「星影のワルツ」「北国の春」など・・・。


歌名人の博堅先生はこれらの歌が好きで、何度も歌ってくださった。
「日本の歌は感情が深い。すばらしい」
とおっしゃる。褒めてくださっているのだが、
実のところ、私は日本にいたとき何が嫌いと言って
千昌夫の歌(「星影のワルツ」「北国の春」とか)ほど
嫌いなものはなかったのだった。
声が嫌だとか、顔がキライとかじゃない。
歌が嫌だった。

つい最近、博堅先生が新たに「う~ん、感情が深いです。」
と感心して歌ってくださったのは、またまた千昌夫の「夕焼け雲」(|||▽||| )。
(ちなみに、博堅先生は日本の歌手を「千昌夫先生」「美空先生」「谷村先生」と言う。
「谷村先生」には直接会ったことがあり、「美空先生」は横浜でお墓参りしたそうだ)
博堅先生は「千昌夫先生は声があまり良くないねえ。しかし、深い。」
とおっしゃる。何が深いか。例えば、
「夕焼け雲」では「誓いのあとの せつなさに~♪」、
「帰れない 帰りたいけど 帰れない♪」
など、どうも第一に歌詞に感心なさっているのだ。

そんなに褒めているのに、
「イヤ、私はそれ嫌いです」
などと言えるものではない。
従って、心中、葛藤が渦巻き、日々悶々たる気持ちである。
今日は、なぜ日本人の自分が「北国の春」やら聞くと心がシラ~っとしてしまうのか、
私は国賊・売国奴・人でなしなのだろうか。
そこんとこをちょいと考えてみようと思う。

演歌の、いわゆるコブシの効いた歌い方も、あまり好きではない。
しかし、都はるみの「三日遅れの便りを乗せて~、ふねえ~が~~~♪」は、
(おお、いいねえ!)と感じる。
上野発の夜行列車降りた時から~~♪」(石川さゆり)は、大好きな歌だ。
だから、演歌だから嫌いな訳でもない。
どうも、その歌の醸し出す全体の雰囲気がイヤなのだ。
全体の雰囲気に重要な役割を果たすのは、メロディと歌詞である。

で、今日はそのうちの歌詞に照準を当て、
さらにキーワードとして「帰る」(帰らない・帰りたい・帰れない)を選び、
その言葉が歌詞に登場する次の3曲を比較して全体の雰囲気チェックを試みることにした。

1「北国の春」(千昌夫歌・いではく作詞・遠藤実作曲、1977年発表)
2「夕焼け雲」(千昌夫歌・横井宏作詞・一代のぼる作曲、1976年発表)
3「帰りたい帰れない」(加藤登紀子歌・作詞・作曲、1970年発表)

〈3曲とも歌詞は下に掲載〉

3曲に共通するのは、故郷を離れた者(男性)の言葉として詞が書かれていることだ。
1「北国の春」は「田舎」から「都会」に就職した若者、
2「夕焼け雲」は「杏の幹・堀の水」がある「街」からそれ以外のところに出た男、
3「帰りたい帰れない」は田舎か街かは分からないが、
  「家」から離れ、「人ごみ」に呑まれる都市に住んでいる僕。

1、2と3で違うことの一つに、
1、2の作詞家は男性、3は「僕」と書いてはいても、
歌詞を作ったのは加藤登紀子という女性だということがある。
1、2は自分が出てきた故郷に
「おふくろ」「あの娘」「(誓った)黒髪(の女性)」を残している。
この「おふくろ」「あの娘」という言葉は、
男性の使う言葉であるが、これは歌謡曲専門用語とでも言おうか、
この作品が発表された当時、一般社会では
こんな言葉を使っている若者はあまりいなかったと思う。
今では、ほぼ90%いないだろう。
これは内容以前の、些細なイラッだ。

1は(5年も経ったんだから、ボチボチ帰ろかな)といった、
出稼ぎ労働者的ムードを滲ませている。
おそらくだいぶお金も溜まったのであろう。「帰ろかな」という言葉には、
(帰りたいけど帰れない)という切なさは微塵も感じられない。
この歌の歌詞の魅力は、
冒頭に誰もが懐かしむ故郷の自然を言葉でバーンと出していることだ。
初めて「しらかば~!」と叫ばれた時点では、
私も決して(嫌な歌)と思わなかった(ような気がする)。

この曲は、自然豊かな(田舎)で家族が待っている(都会で働く若者)が、
故郷の自然、家族を懐かしみ、故郷へUターンすることを
射程に入れ始めたという内容だろうか。
2や3にある痛いほどの孤独感は、1ではほぼ感じられない。
結論を急ぐと、私のイライラは、
(帰るところなんてどこにもないんだ)という私自身の感覚に対して、
外側からベッタリと油を塗られ、窒息させられるような違和感が、
この歌の基底にあることだ。
私は、3の「帰りたい帰れない」が巷に流れていたころ、
ちょうど故郷の北海道を離れ、京都で暮らし始めた。
寺山修二の影響がちょっとあったかして、
「母さん、さよなら」と、自分としては精神的自立のための家出だった。
1や2の若者(男性)のように、
お金を貯め、あるいは成功した暁には必ず故郷に帰還するという意志はなかった。
糸の切れた凧だった。
2の男性は、なかなか誓いが果たせないので、気の毒にも帰れないのだが、
私は、帰るための目標も誓いも初めからなく、
ただ世界が何であるのか、
自分が何であるのか、
それを知りたいだけで家を出てしまった。
これは、永久の家出であると自分で思う。
「流浪の民」を自認している私としては、
やはり、1、2より、3の「帰りたい帰れない」を好んで歌いたい。
もう、母も5年前に死んでしまった。
よけいに、帰るところがなくなってしまった。

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「北国の春」
 作詞:いではく 作曲:遠藤実  歌:千昌夫
 いではく(本名・井出 博正(いで ひろまさ)、1941年11月22日 - )は、
長野県南牧村海尻出身の作詞家。早稲田大学商学部卒業。(wikipediaより)

白樺 青空 南風
コブシ咲くあの丘 北国の ああ北国の春
季節が都会では分からないだろと
届いたおふくろの 小さな包み
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな

雪解け せせらぎ 丸木橋
落葉松の芽が吹く 北国の ああ北国の春
好きだとおたがいに 言い出せないまま
別れてもう五年 あの娘はどうしてる
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな

山吹 朝霧 水車小屋
わらべ歌聞こえる 北国の ああ北国の春
兄きも親父似で 無口な二人が
たまには酒でも 飲んでるだろうか
あのふるさとへ 帰ろかな 帰ろかな


「夕焼け雲」   作詞:横井宏  作曲:一代のぼる  歌:千昌夫
 横井宏:1926年(大正15年)10月12日- 東京府東京市四谷区出身。
1943年(昭和18年)、帝京商業学校卒業。1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲で自宅が全焼し罹災する。同年6月召集され入営。茨城県で初年兵として沿岸防備隊の任務に就く。
終戦と共に軍隊から復員したものの、敗戦のどさくさで帰る家を失くし、知人のいた長野県下諏訪町に家族で転居。  1946年(昭和21年)、上京と共に、作詞家:藤浦洸に師事するようになる。(wikipediaより)

夕焼け雲に誘われて  別れの橋を超えてきた
帰らない  花が咲くまで 帰らない 帰らない
誓いのあとの切なさが あんずの幹に残る街

二人の家の白壁が 並んで浮かぶ堀の水
忘れない どこへ行っても 忘れない 忘れない
小指で梳かす黒髪の 香りに甘く揺れた街

あれから春がまた秋が 流れて今は遠い街
帰れない 帰りたいけど 帰れない 帰れない
夕焼け雲のその下で  一人の酒にしのぶ街



「帰りたい帰れない」
作詞/作曲 加藤登紀子1943.12.27旧満州ハルビン生まれ この曲は彼女が26歳の時の作品

淋しかったら 帰っておいでと
手紙をくれた 母さん元気
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
もしも手紙を書きたくなっても
僕は書かない 母さん

呼んでも答えぬ 人波にもまれて
まいごの子犬は ひとりでないた
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない



破れたコートの ポケットにいつも
リンゴの花の 想い出を入れて
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
一人ぼっちが つらくなっても
僕は泣かない 母さん

春になの花 夏には祭り
秋の三日月 木枯らしの冬に
帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない

帰りたい帰れない 
帰りたい帰れない
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