パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

その日の気分次第(ビートルズで好きな曲)

2016年02月08日 19時21分09秒 | 音楽

ビートルズで好きな曲は?

答えられない
それが正直な気持ち
気分次第で変わる

モーツァルトで好きな曲は?
と聞かれるのとよく似た感じ 

モーツァルトは音楽の存在自体が好き
しいて言えば魔笛が好き

これはビートルズでは「アビー・ロード」が好き
と似ているかも

傾向としてはポールのつくる曲が好き
All My LovingI SAW HER STANDING THERE 、She Loves You

And I Love He、You Won't See Me、Eleanor Rigby

The Fool On The Hill、When I'm Sixty-Four、

Hey Jude、Let It Be、Oh! Darling

それからアビー・ロードの最後の
ゴールデン・スランバー~キャリー・ザット・ウェイトジ・エンドの一連のメドレー

その他にも鼻歌のようなI willとかマーサ・マイ・ディアとか
バリバリのHelter Skelterとか  

まだまだわんさか出てくる
やっぱり困る  選べない

ところで、ジョンの曲ではヘルプ、ビコーズ、ア・デイ・イン・ザ・ライフ、
ドント・レット・ミー・ダウン が好きかな

おっとジョージ・ハリスンは、While My Guitar Gently Weeps

今の若い人はアルバムで聞くのじゃなくて名曲集(赤盤・青盤)で
聞くことが多そうだけど、アルバムを順番に聞くと
より楽しめそう

 

 

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結婚式

2016年02月07日 18時25分54秒 | 徒然なるままに

昨日は最終日というのに、その関係の活動ではなく姪の結婚式に出かけた
女の人がするように午前中に床屋に行ってさっぱりして出かけた 

姪はとてもおもしろい子だった
いくつになっても自分にとっては●●ちゃんのイメージが抜け切れない
昔、お正月に姉夫婦と来た時は、この姪が中心となって
いとこの二人(男の子)とかくれんぼしたり近所の畑を走り回ったり
とにかく、元気でくったくのない子だった

その●●ちゃんの結婚式
披露宴の料理も楽しみだが
●●ちゃんの幸せそうな顔も見たい 

会場は結構な人数、ほとんど知らない人で
不意に人は多くの人との関係のうちに生きているのだと
つくづく感じたりする 

式は人前結婚式
彼女はクリスチャンではなかったから、この方が自然で良い

披露宴
スピーチを頼まれた人は慣れている人はともかく
そうでない人はここ数日間はストレスが多かったのではないかと
少しお気の毒に思ったりした

でも姪の仕事上の上司、同僚、友達からスピーチを聞くと、
今までの●●ちゃんではない姪の姿を知ることが出来て
何か別人のような気がした

同様に姪の母、自分の姉も
自分たちが知っている姉としての姿ではなく
母としての姉の姿を見ること、聞くことになって
これも何か不思議な気がした

それにしても当たり前と言えば当たり前なのだが
ひとはなんと多くの人との関係性の中で生きていくことか
改めてこんなことを再確認

それにしても、ビデオの編集は速い
先程まで撮っていたと思ったら披露宴の終わりごろには
上手くまとめていた
つくづく凄い時代になってきた
 

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最終日

2016年02月06日 10時17分52秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

今日は後に予定が控えているのでパッパッと短く
今行っている活動中に

歳をとっているのでわからない
主人が留守なのでわからない
仕事が忙しいのでかまってられない
関心がないし、情報もないのでわからない
何々の仕事をしているので、、、

こういう人が世の中には多い 
この人達を市政に無関心と責める気はない
ある意味世の中はそんなもんだと思う

だからこそ、選ばれた人は市民の代理として
ちゃんと仕事をしてほしい
まして、市政は法律やら手続きやら面倒な事が多くて
ある種専門知識が必要なのだから

でも、ちゃんとやってくれなかったら、、
そんな人でも自分たちが選んだ人だから
と諦めるか、それともちゃんとやってと訴えるか
それとも、、、

分業としてのお仕事
市民の声を聞くという大前提のお仕事
今、それがなされているか?

リコール署名は今日が最終日 
しなくてもいい、いろんな思いをした
誰も好き好んで行ってはいない!
 

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バレンボイムのブルックナー1番

2016年02月05日 08時37分46秒 | 見てきた、聴いてきた(展示会・映画と音楽)

昨日は、みんなが寒い中頑張っているので
少し心苦しいかったが、ずっと前から計画していたお楽しみ
バレンボイムとシュタッツカペレ・ベルリンのコンサートにでかけた

プログラムはモーツァルトの最後のピアノ協奏曲27番
それにブルックナーの交響曲1番
会場は愛知県芸術劇場コンサートホール
 

ブルックナーは大好きな作曲家の一人で
昨年は晩年を過ごしたウィーンのベルデヴェーレ宮殿や
その前にはリンツの聖フローリアン修道院にでかけたりして
全く「オタク」の部類

現実のブルックナーの演奏は
マーラー・ブルックナーとセットにされて
ブームになった時でさえ4番が多く演奏されたくらいで
8番が時々、初期の方はほとんど相手にされない

でもこの初期の、1番、2番が実は自分は大好き
どうして好きか?を答えるのは難しい
なんか、好き
そうしか答えられない

聴いたことのない人には1番は大音量で鳴りっぱなし
それも無意味に、、、と思うかもしれない
しかし、好きな立場で聴くと、この鳴らしっぱなしの音が
オルガンを目一杯鳴らして楽しんでいるみたいで
とても心地よい
この大音量の感じはロシアの例えばチャイコフスキーのとは全然違う
ブルックナーはなんか音に汚れがない
だから疲れない

バレンボイムの指揮はこれで3回目
最初はパリ管でドビュッシーの海だったか夜想曲
このアンコールが良かった
グルックの精霊の踊りが演奏されたが、
酔っ払っていい気分になっている聴衆を
また酔わせる感じでうっとり、
時間の経過を忘れさせるような瞬間を今でも覚えている

2回目はシカゴ交響楽団とのブラームスの2番
これは大いに外れ
損した!という感じ

そして今回
最初のモーツァルトは小さな編成でサラッとなるのか
とおもいきや、北のドイツらしく真面目な演奏
冒頭の弦と管の絡みはもうすこし管にニュアンスが欲しかった
(なんて偉そうなことを)
そして一楽章の中間部、短調でぐさりと驚かされるところ
これももうすこしやりようなあったのでは!
つまり、ちょっと残念な演奏だった
これがウィーンのオケだったら、
もうすこし気の利いた演奏をしたのではと思ったりする

しかしモーツァルトは聞き流すと、どうってことにない音楽だが
しっかり耳をすますと、なんと多くの感情やらニュアンスが
込められているのかと つくづく思ったりする

さてお目当てのブルックナー
何故か指揮台が舞台の端ギリギリまで移動されている
落ちてしまわないかと心配するほど
オーケストラの配置は扇型ではなく
ティンパニを山の頂上とした富士山みたいな形
それに左肩にコントラバスが配置されて
ちょっと見たことのない陣形
この配置から出てくる音はブレンドされたというより
塊 として出てくるのか
そこはプロではないのでわからない
ただ何かしらの目的、効果があって行われていることだろう

1楽章の冒頭 マーラーの6番を予感するような刻みの音形から
音楽が始まる
この時の弦と管の掛け合いは管が音量を抑えてとても雰囲気がある
これで一気に曲に集中できた

この曲、やんちゃな若いブルックナーの音楽
イケイケで音を鳴らしっぱなしのところがある
ところで、ブルックナーの演奏はテンポを変えないで
演奏するほうが良いみたいな話をよく聞くが
この一番を聞いていてクライマックスにいたるところなんかは
徐々にスピードを上げていったほうが自然、
音形もそれを要求しているような気がした 
フルトヴェングラーが演奏したらきっと煽っただろうななどと連想

2楽章 ゆっくりした音楽はブルックナーの真骨頂
美しいというのは感傷的というのとは違う
もっと体全体を音楽に委ねて法悦に達するような
(この最たるものは8番の3楽章)
とてもうっとり

3楽章 若いブルックナー  ブレーキのないイケイケのブルックナー
誰にでも若い時はあったのだ
と当たり前のことを感じる
これはロックの世界のノリに通じる

そのままの勢いで4楽章のフィナーレに
ベートーヴェンの7番も3楽章から4楽章まで一気加勢だが
この曲も似た感じ
イケイケが拍車をかける
でも初めてこの曲を聴く人は、
訳わからずに音がなっていると感じるかもいしれない 
何度も聴いて楽しむコツを知っている自分らは問題ないが
一般的には聴きにくい音楽の範疇に入るのかもしれない

結局、ブルックナーは愛する神様にいたるところで
「神様バンザイ!」とやりたかったのではないか
とにかく肯定的な結論や音楽を表現したかったのではないか
そんな思いが頭をよぎる

演奏が終わって、それははっきりと終わりというのが分かる終わり方だが
いつもなら起こるブラボーの声が起きない
終わったあと、静寂、誰もが声を上げるタイミングを失ったかのよう
それは圧倒されたのか、それとも聴いたことのない曲で戸惑ったせいなのか
1.2秒の沈黙
そしてパラパラと音がしだすと、徐々に大きな拍手に
自分は本当に楽しめたけど、他の人はどんな印象を持ったのだろう
変な曲?

ところでブルックナーの演奏会には女性が少ないというのが定説のようだが
昨日は意外に多かった
隣の女性に「メインがブルックナーですが、女性は珍しいですね」と声をかけると
お目当てはモーツァルトのピアノ協奏曲の方との答え
なるほど、そうでしょうね

ということで、大いに楽しんだ
(チケット代の元を取らねばもったいない) 
本当は2番も聴きたい5番も
誰か名古屋でやってくれないかな

あとシモーネ・ヤングの演奏で8番の初稿での演奏
やってくれないかな
絶対行くのに! 

コメント (2)
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SMAP、甘利さんの後は清原(変な報道と感じ方)

2016年02月03日 08時09分04秒 | あれこれ考えること

関東に住んでいる人と、地方に住んでいる人間の
リアリティの違いの問題かもしれないが
(いや年齢、感性の問題か?)
SMAPも清原も自分には関心がない

でもここしばらくはテレビ局は鬼の首をとったみたいに
連日この話題を取り上げるんだろうな

ところで、ある人がツイッターでつぶやいた

何が悪いのか分からないSMAPが深々と頭を下げて、
収賄疑惑の甘利が花束を手に拍手で有終の美を飾ってるみたいなの、
どう考えてもおかしいでしょ、これ!

 

その通り
内閣支持率もこの事件があったあとでもアップしたとか
理解できない事が多い
(もっともこの統計の仕方、母集団はどうだったのかが問題だが)

人間は、自分の中の感情と理性とが戦うと
残念ながら理性は勝利をおさめることが出来ない
この感情的、情緒的な報道の仕方で甘利さんは少し儲けた感じ 
つまり、本質的なことは感情の裏側に隠れてしまう 

また理性を司る脳はサボりたい傾向があるようだ

直感と言っても将棋や囲碁の棋士のように
さんざんいろんな経験をしてきた人がある場面で
直感が働くというのと、素人が印象で感じるのとは随分違う
片方はいわば洞察、片方は思いつきに過ぎない

問題は、この思いつきに近い、幼稚な発想が
この国に蔓延していないかということ

確かに色々綿密に考えることは面倒くさい
真実はシンプル
そう思いたいし、そのように納得したい
しかしそのシンプルな結論に至るまでは
本当は七面倒臭い過程を踏んだことが前提

しまった、約束の時間が近づいてきた
相変わらず何が言いたいかわからない投稿になってしまった

今から出かけなければ! 

 

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怖ろしい本(韓非子)

2016年02月02日 08時34分34秒 | あれこれ考えること

以前読んで、怖くなって再読できない本がある

超現実主義
実体験から導かれたリアルな思想は、
人間性を前提とした理想主義が甘ちょろいものとさえ思えてくる

でもこの人(韓非子)は幸せな人生だったのか?
と少し疑問を持ってしまうが

内容は、賞罰は自ら行え、妻に用心せよ、進言の難しさなど
実生活にいくらでも応用が効きそうな話がどんどん出てくる

たまたま、この中に亡国のきざしを扱ったページがあった

●君主が法による政治を軽視して策力にたより、その結果、内省の混乱を招いて
 外国の援助にすがろうとする

●臣下が学問に精を出し、エリート青年が空理空論をもてあそぶ
 また商人は脱税のため財産を国外に持ち出し、一般市民が私的武力にたよる

君主が宮殿や庭園の建築にうつつを抜かし、車や衣服、珍品集めの道楽に凝って
 人民から絞り上げては浪費する

全部が全部とは言わないが
どのかの町に似ていないか?

 

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リコール署名中、気になる2冊

2016年02月01日 08時30分31秒 | 住民投票・市庁舎・リコール・市政

新城市長リコールの署名活動をしていて
とても不思議な事がある
それは、署名していただけなかった方から
「頑張ってください」と声をかけていただけること
それも少ない数ではなく、心底感情を込めて言っていただける
(それがなぜかは、今は突き詰めないことにする) 

ところで、残念ながらバタついた精神状態なので
気張って購入した「新カラマーゾフの兄弟」の読書は
途中でストップしたままになっている
そのかわり、拾い読みしているのが写真の2冊

2冊とも観念的な抽象的な内容だが、最近の自分の周り状況を踏まえて読んでいくと
それは観念的なことではなく、すごく実情を反映しているように感じる

「権力と支配」 マックス・ウェーバー
まずはそれぞれの言葉の定義を明らかにする
そしてその形態をものすごく緻密な考察によって明らかにしていく
正直なところ難解な言葉が多くて閉口する部分も少なくない
でも今自分が一番関心のある
「何故、市の職員や、その関係者は
権力者の言葉に寄り添ってしまうのか?」
と言う疑問に置き換えると、何か答えがあるのではないかと思って読んでいる
権力者の言葉を信じる正統性(?)はどこから来るのか

こんなことを考えたところで、どうなるものでもないかもしれない
しかし、現実にこのようなことを真剣に考えた人がいた
と言う事実は重い

「ハンナ・アーレント」
本の帯にあるように彼女の一番危険視するのは思考停止
彼女の著作の熱心な読者ではないので、本当に意図することを
理解しているか?と言えば少し自信がないが
彼女はナチの壮絶な行為について、何故起きてしまったのか
と考えぬいている

この新書の著者(矢野久美子さん)から一部抜粋

アーレントの叙述を注意深く読むと、そこには行為者かつ受苦者としての
人間の選択のあり方、動き方が描かれている。別の可能性もありえた。
それなのにどうしてこの様な事態に至ってしまったのか
ということを考えさせる物語なのである(物語とは「全体主義の起源」のこと)
それは要素を明らかにすることによって、それらの要素が再び何らかの形で
全体主義への結晶化をしようとする時点で、人びとに思考と抵抗を促すような
理解の試みでもあった

権力による支配(支配されていると感じていないとしても)
そしてその中の個人としての判断
それが人としてあるべき形で行われているのか
人はどのように自分自身の判断を行うべきか
考えても仕方ない事かもしれないが、これが気になって仕方ない 

 

 



 

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