パンセ(みたいなものを目指して)

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「戴冠式」から連想したこと

2023年05月08日 10時21分55秒 | あれこれ考えること

漢字がどんどん書けなくなっている
昨日今日のイギリスの戴冠式のニュースにある「戴冠」などという字は
自分には必要がないので書いた記憶がない

ただし読む方は辻邦生の小説のタイトルに「春の戴冠」があったので
言葉としては接している
この長編小説は「ヴィーナス誕生」で有名な画家サンドロ・ボッティチェリを
主人公にしてメディチ家の最盛期のルネサンス時代を想像力豊かに書いたもので
「背教者ユリアヌス」と並んで、いつか読み直そうと思っている小説だ

報道では今回のイギリス国王の戴冠式は、以前と随分変わっているらしい
儀式も省略化したり、多様性を確保するために様々な宗教の人が
儀式に参加することを求めたり、つまり時代に合わせて変化しているということだ

この時代に合わせて変化すること
実はそれこそが保守という言葉の真髄らしい
「保守とは何か?」この手の本を読むと必ず出てくるのが
こうした変化を続けることの大切さで
ちょいと勘違い的に思われている「伝統をそのまま継続する」のとは違う

いつも思うのは、日本では真の意味で保守という言葉が使われているか?
という疑問で、物事を突き詰めて考えないこの国の傾向がそこにも見える気がする

話は変わるが地元の近くの東栄町には秋から冬にかけて
「花祭り」という伝統のお祭りがある
中央にお湯を沸かしているおくど(?)を設けて
天井からは切り絵のようなものを飾り、
その周りをお稚児さんや鬼の面をつけた人が昔からの踊り方で
声を発しながら夜を徹して踊るというもので
東栄町の人たちにとってはお正月よりも大事なものらしい
(帰省はこの時が一番多いとか)

だがその伝統行事も少子化で参加できる人が少なくなくなっている
ここまではよくある話だが、ここからが先程の保守に繋がる話で
この人口減の地区には移住してきた和太鼓の集団(志多ら)がある
時々日本国内で演奏活動を行っているが、この地では練習・訓練を行っている

彼らは閉じた集団ではなく、地元に溶け込もうとする開かれた集団で
花祭りの行事にも参加することを長老に訴えたことがあったそうだ
その時の長老の判断が、まさに保守!と思われる素晴らしいものだったと
自分は記憶している
それは花祭りの一部変更とか、新たに参加する彼らのアイデアを生かしたりすることを
次の時代のために認めたというのだった

現実はそうせざるを得なかったとしても、なかなか何かを変えるのは難しいし
勇気のいることだ
このエピソードを聞いた時は、長老さんも和太鼓の団体も両方とも素晴らしいな!
と思えて、どこか心がほっこりしたのを覚えている

ところで、変化は緩やかな方が良いか?
それとも手っ取り早く急激な方が良いか?
実は日本社会はこの問を突きつけられている気がする
(どっちみち時代に合わせた変化が必要とするなら)



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