パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

集団のなす非合理性

2015年08月19日 08時24分22秒 | あれこれ考えること

新聞は読む人によって注目する記事が全然違う
当然のことながら同居人と自分とは興味の範囲が違うので
新聞記事の会話をすることになっても噛み合わないことも少なくない

今日(8月19日)中日新聞に自分にとっては興味深い記事(投稿)が
掲載されていた

京都私立芸術大学学長の 哲学者 鷲田 清一氏の投稿

ここにドイツの憲法改正には国民投票の手続きをとらないことが
エピソードとして紹介され、その理由も記されている

多数の意見をまずは尊重する。
そのうえで少数者の意見にも可能な限り配慮する。
これがデモクラシーの基本であろうが、ドイツ人がその最初の前提に
全幅の信頼を置いていない、というか自分たちが集団としてなす判断に
常に懐疑的であることを肝に銘じている、、、、、

デモクラシー(民の力)には、他の生物の群れの行動にも通じるような
非合理な心的傾向が潜んでいる、、、、

これらは国民の圧倒的多数が国家指導者としてナチスを戴いたことへの
痛切な反省、というかあまりにも深い「絶望」がここにある

つまり民意がどのように形成されたかはさておき
その民意はそのとき時の勢いや情勢に流されてしまう
ので一概に多数派の意見だけを無条件に認めることはできない
とドイツ人は考えたということ

確かに民意(大衆)は力をつけて、それが正しくない選択をする可能性については
オルテガの「大衆の反逆」にも述べられている

我々が一見無条件に良しとする、多数決の原理にも
こうした危険性が存在することを、ドイツ人、オルテガは提唱している

しかし残念ながら、他に変わる民主的なシステムがあるかといえば
なかなかそう簡単に代替え案が出る訳でもない

結局、どうすればよいかについては
人には(民衆には)非合理な心的傾向が潜んでいることを
自覚することから始めるしかない。
群衆に見られるようなうわずった「方向づけ」ではなく、社会として守るべき価値と
それに基づく制度を合理的に選び取ってゆく、そのような議論を人びとのあいだで辛抱強く続けるほかはない。

つまり庶民一人ひとりが、自分たちが集団となると間違う選択をする可能性がある
ということを自覚し、真に必要なもの、大事なものとはなにかと
自分たちで辛抱強く情報の収集やら知恵をつけていくしかないとしている
(それは本当の意味で一人ひとりが賢くなっていくということ) 

ところで、日本の現状には
「公共」を「お上」に預ける、委ねると言う習性を、わたしたちは未だに脱し得ていない。
「公共」は上から降りてくるもの、つまりは「だれのものでもないもの」として受け止められ、
自分たちの資材や労力を提供するなかでともに担い、維持すべきのも、
つまりは「みんなのもの」とは、未だ十分になりえていない、、、、

こうしてみるとドイツ人の絶望と日本人の絶望はずいぶん違う
かたや人間性に巣食う間違いの可能性についての絶望
かたや公共性を自らのものに成し得ていない現実に対する無力感

なにか日本人の方が子供じみてるように思えてならない 

 

 

 

 

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