パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

「ゲッベルスと私」(映画には行けなかったが書籍で体験)

2018年08月27日 08時26分50秒 | 

見に行くつもりだったが体調不良で行けなかった映画(名古屋シネマテークで上映)
「ゲッベルスと私」ナチ宣伝相秘書の独白
縁がないものと諦めていたら、書籍化されているとのことで
早速アマゾンで購入した

強制収容所に淡々とユダヤ人を送り続けたアイヒマンが、精神的に無慈悲な怪物のような人物ではなく
どこにでも見られるような出世欲に満ち、それなりに家族を思う平凡な人物で、ただ単に
システムに無批判に従うだけの人間だったと明らかにしたのはハンナ・アーレントだったが
この本では、ナチの重要なポストにいた人物(ゲッベルス)の秘書を続けたごく普通の(速記が特技の)人物が
戦前・戦中の思い等を思い出しながら告白していく

今のこの時点で、この本を発行する意味・意図が前書きに暗示されている
心配性な感覚の鋭敏な人たちにとっては現在の世界の状況が、あの大戦前の雰囲気に似ていると感じている
二度と馬鹿なことを繰り返さないためには、世界の大半を占める普通の人々の傾向を自覚し
その危険性を問い直すことが必要だとしている

章の始まりには、秘書(ブルンヒルデ・ポムゼル)のポイントとなる告白が暗示的に掲載されている
例えば、「ヒトラーはともかく、新しかった」の章の前には以下のような文がある
「すべてに小さな矛盾はあったけれど、私はそれをさほど真剣に受け止めていなかった。
その種のものごとには本当に関心がなかったの。当時の私は年若い、恋に夢中な娘にすぎなかった。
そういうことのほうが私には重要だった。それにずっと昔の話だから、今の私は当時どんなふうに考えていたか
わからない。あのころはただもう、気づいたらあそこに入り込んでしまっていた」

これは井上陽水の「傘がない」の世界に通じる
社会の矛盾はなんとなく感じるが、自分にとっての優先順位はそれをどうすることじゃない、、
自分にとって大事なのは目前のこと、、、

このボムゼル氏の精神的傾向は、前書きに端的に記されている
「ブルンヒルデ・ポムゼルは政治に関心がなかった。彼女にとって重要なのは仕事であり、
物質的な安定であり、上司への義務を果たすことであり、何かに所属することだった。」
(これらは最近の我が国の官僚さんを連想させる)

映画「ゲッベルスと私」を見た人は、この秘書に対する断罪の言葉はあまりなかったようだ
それは、見た人が立場を自分に置き換えて、自分もその環境下なら同じことをしてしまうかもしれないと想像できることもあるし
平凡な今の生活を大事にしたい人の思いは、何も特別なことではないと感じるからだ
この映画は彼女の断罪よりは、今生きている自分たちの時代についての問いかけの役割を果たしているとの評価が多かったようだ
暗黒の1930年代は今日また繰り返されてしまうのか、私たちの不安や無知や消極性が究極的には
新しい右翼の勃興を支えることになったのだろうか、、、と

おそらく平凡は普通の人の典型である無関心層、善人の沈黙、、、そうしたものが結果的にどのような世界を生み出していくか
以前読んだハンナ・アーレントの全体主義の起源(3)には、この手の大衆について付箋をつけておいた部分がある

全体主義運動の大衆的成功は、あらゆる民主主義者、とくにヨーロッパ政党制度の信奉者が後生大事にしていた2つの幻想の終わりを意味した。

その第一は、一国の住民はすべて同時に公的問題に積極的な関心を持つ市民であり、全員が必ずいずれかの政党に組織されるというところまではいかなくとも、
それぞれに共感を寄せている政党はあり、たとえ自分では投票したことがなくとも、その政党によって自分を代表されていると感じているという幻想である。

ところが運動が実証してみせたのは、たとえ民主制のもとでも住民の多数派をなしているのが政治的に中立で無関心な大衆であることがあり得ること、
つまり、多数決原理に基づいて機能する民主制国家でありながら、実際には少数者だけが支配しているか、
あるいは少数しかおよそ政治的な代表者を持っていないという国がある、ということだった。

全体主義運動が叩きつぶした第二の幻想は、大衆が政治的に中立で無関心なら政治的な重要性を持たないわけだし、たとえそういう大衆がいるとしても実際に中立的立場を守り、
たかだか国民の政治生活の背景をなすにとどまっている、とする考えである。
全体主義運動は権力を握った国にとどまらずすべての国の政治生活全体に深刻な衝撃を与えたが、それはつまり民主制という統治原理は住民中の政治的に非積極的な分子が
黙って我慢していることで命脈を保っているに過ぎず、民主制は明確な意思を表示する組織された公的諸機関に依存しているのと全く同じに、
意思表示のない統制不可能な大衆の声にも依存している、ということがはっきりと露呈されたからである。

結局のところ、民主的な統治原理というのは、少数者だけが支配していて、それを政治的に非積極的分子が黙っていることによって成り立っている現実があるということ
(これは、支持投票率が低いにもかかわらず、議席は大半を締める党が《しかも特定の人物たちが》仕切っている我が国を思い起こさせる)

政治的に無関心な(中立と思っている)普通の人が、普通の感情でもって普通に暮らしただけなのに、大きな間違いを起こす状態を引き起こしてしまった
そこの何が悪かったのか、、
だから政治に無関心ではいけない、、と頭ごなしに言うのではなく、この「ゲッベルスと私」にあるような(自分たちによく似た)人物が
知らず知らず受け入れたり、悪いことは見ないことにしたがる傾向は、結果的に何をもたらしたか、、、
それを知ることによって、今度は個人個人がどのような思いに至るか、、、
この考えるきっかけになる、今読まれるべき本と言えるだろう(まだ途中までしか読んでいないが)

この本をアマゾンで購入する際に、あのおせっかいなお薦め本を紹介する機能で
「白バラは散らず」ドイツの良心ショル兄弟
ナチズムの嵐の吹き荒れる40年代のドイツで戦争と権力への必死の抵抗を試み、そして処刑されていった学生・教授グループの英雄的闘いの記録
「ヒトラーに抵抗した人々」反ナチ市民の勇気とはなにか
があった
この本を読み終えたら、続けて読むつもり(まだ注文はしていないが)

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする