パンセ(みたいなものを目指して)

好きなものはモーツァルト、ブルックナーとポール・マッカートニー、ヘッセ、サッカー。あとは面倒くさいことを考えること

女と男の感性(あるいは表現)

2018年08月05日 06時12分26秒 | 

エアコンの効いた部屋でダラーとしながら読み飛ばしたのがこの本
セーヌ川の書店主 ニーナ・ゲオルゲ

先日新聞の書籍の広告欄に載っていて、気になって直ぐにアマゾンで購入したものだ
芥川賞と直木賞、どちらに該当するかといえば明らかに直木賞
傷を負った人々がセーヌ川をたどり、そこで過去を振り返り、様々な経験をする上での
再生の物語だが、深刻というよりはストーリーを楽しむ感じで
悪くはなかったが、、、

この本を読んでいたら不意に宮本輝の「ドナウの旅人」を思い出した
よく覚えていないのは相変わらずで情けないが、あの小説も教養小説的な、あるいは再生の
物語だったような、、、
(宮本輝の本は読後が肯定的なので安心して読める、、読んだ本の中では)

主人公の書店主が薦めるなかにヘッセの詩「階段」があったが「階段」よりは
自分はヘッセの詩なら「シャボン玉」が好きだな
そして再生の物語なら圧倒的にヘッセの「シッダールタ」のほうが良い
最後の川の辺りの部分は涙が滲んでくる
「シッダールタ」は優れた出自で頭も良い、、何かを求めて修行中の男がある時女に心を奪われ、
放蕩息子のようにハグレる、、そしてしなくても良いような経験をする
こんなはずではなかった、、と他人から見れば思えるが、彼の経験は仏陀が求めようとしたものと実は同じで
静かに自分を振り返った時の心情はある意味悟りに似たもので、ヘッセの東洋的な精神の到達点のような
ロマンティックな物語
「セーヌ川の書店主」も基本的にはこの物語と似ているが、今回一番気になったのは作者が女だなと実感したこと

先日やはり女性(諸田玲子)が書いた幕末の村山たかを主人公とした小説「奸婦にあらず」を読んだ時も
書き進めている主体が、女だな、、と感じた
その何が違うのかはよくわからないが、とにかく直感的に男(男の感じ方・考え方)とは違うと
そのことだけが強く印象に残った

女と男の違い
ざっくり言えば、女のほうが(文体が)感情的なのかもしれない
冷静・客観を装ってもつい出てくる肉体の経験を通しての感情
それが男のそれよりもよりストレート
そういえば、何年か前「冷静と情熱のあいだ」という小説があった
(上)を辻仁成、(下)を江國香織が書き起こしたもので
同じ主人公の物語をそれぞれ男の視点、女の視点で描いたもので、
この時もやはり自分は男の方の文体・物語に抵抗感はなかった
女性の書いたものは、説明しなくても女だけがわかるような、どこかそんなような部分が存在するようなしている

まだ読んでないが、男が女を装って書いた「土佐日記」
女の書いた「和泉式部日記」などでも、男と女の感じ方やら考え方の違いがわかるかもしれない

一体何が違うのか、、そう感じるだけでそれを深く追求しないのが、素人の気楽さだが
とにかく、何かが違うな、、とつくづく感じる

この女と男の感性・表現の違いは音楽でも見られる(と思う)
それを強く感じるのはマルタ・アルゲリッチの演奏を聴く時
エネルギッシュにバリバリと弾く彼女は曲の把握が直感的で演奏はその直感を信じ切って演奏しているみたい
もちろん専門家としても分析的なことはされているだろうが、出てくる音として感じるのはこのこと
例えばバッハのパルティータをアルゲリッチとアンドラーシュ・シフのと比べるとそれは明らかになる(と思う)
いきなり人の心の中にまで入ってきそうな直感的なアルゲリッチ、そこまでは感情移入はせずに楽譜を眺め
そして自分の性格を見極めた上で優しく歌うシフ

ということで、日曜の朝は相変わらず毒にも薬にもならない話
今日は昨日より暑くなるとか、、、
もう勘弁してくれ、、、といいたい気分、、、


コメント
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