スピリチュアル・ライフ by birch99

スピリチュアリズムを小脇に抱えて・・・スピリチュアルな視点で日常を綴ります。

悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも、とくに深甚なる意味をもつもの

2014-03-28 08:29:30 | ◆スピリチュアリズムを小脇に抱えて

神は、地上の人生を、人間であるがゆえの弱きの限界に達したかに思えた段階で、本当の強さを
見出すように配剤しております。もはや地上のどこにも頼るべきものが見出せず、絶対絶命と思えた
こそ、魂が霊的真理の光に照らし出される用意が整ったのです。

悲しみは、魂に悟りを開かせる数ある体験の中でも、とくに深甚なる意味をもつものです。それが
魂の琴線にふれた時、いちばんよく魂の目を開かせるのです。魂は物的身体の奥深く埋もれている
ために、それを目覚めさせるためには、よほどの体験を必要とするのです。

悲しみ・病気・不幸等は地上の人間にとって、教訓を学ぶための大切な手段なのです。もしもその
教訓が簡単に学べるものであれば、それは大した価値はないことになります。悲しみの極み、苦しみ
の極みにおいてのみ学べるものだからこそ、それを学べる段階まで来ている魂にとって深甚なる価値
があると言えるのです。(シルバーバーチの霊訓より)

「人生は本当の自分を探すスピリチュアルな旅 近藤千雄著より」

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私的には、悲しみの最中、苦しみの最中において、精神は、目の前の事象に釘付けになり、霊界からの

働きかけは届き難いのではないかと思います。

私たち霊は信念と平静の雰囲気の中において人間と接触できるのです。恐れ、疑
惑、心配、不安、こうした邪念は私ども霊界の者が人間に近づく唯一の道を閉ざ
してしまいます。
(霊訓1 P63)

悲しみ、苦しみの極みを通過し、万事休す、絶体絶命なる心境を超え、もうどうにでもなれ、破れかぶれ、

開き直り、神に身を任せる・・・などのときに魂の眼が開かれるのでしょうか。

しかし、この境遇はツライですね・・・。

自分の力ではどうにもできない、どうにもならない・・・そうカンネンして、他力に身を任せ、身体の力をす~っと

抜いたときなどにも霊界からの働きかけは届くのかもしれません。

 

悲しみに関しては、最愛の人(配偶者やお子さんなど)を失うことが最もツライと思うのですが、皮肉にも、

情が深い人ほどダメージは大きいでしょうね。その失った愛する人たちが霊界で生きている・・・霊能者など

から、そのような情報が得られたら・・・それもまた魂の眼が開かれるきっかけになるのでしょう。

 

いずれにしても、悲しみ・苦しみの体験は、スピリチュアリズムをどれだけ信じ切ることができるのか?信じ

込むことができるのか?その思いを、より深く掘り下げることにつながることは間違いないのではないでしょうか。


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