[「ありがとうございます」をもっと平易に]カテゴリーからの投稿です。
我欲煩悩をどれだけ満足させても、決して真実の幸せは得られないのです。我欲煩悩の欲求は、どこまでも
どこま業想念の心〔五欲(財欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)〕を自分の心なのだと信じている人にとっては、
業想念が厚ければ厚い程、神さまの愛は感じ取り難いものです。それは厚い業想念に覆われて、業想念の
奴隷になって、本心の自分が隠されてしまっているからです。神さまに生かされているということを、忘れた
状態が欲なのです。神さまへの感謝を忘れたところから、業想念(五欲)が発生し蓄積されてゆくのです。神
さまへの感謝を忘れ、怠る状態が続けば続く程、業想念は厚くなってくるのです。
業想念が厚くなればなるほど、五欲を満足させる為に、自分の思い通りに生きようとする利己的な心が強く
なってくるのです。何でも自分の思い通りにならなければ、腹が立つのです。周囲の人々の思惑を生かして
あげようという愛の気持ちが、業想念によって覆い隠されてしまっているからです。
業想念の心(五欲)を幾ら満足させても、それは本心の心の満足では無いのです。だから自分も他人も決して
本当の幸せにはなれないのです。業想念で築き上げたものは、必ず自壊(外力によらず、内部から崩壊する)
するのです。思い通りにならない時が必ず来るのです。築き上げたものが大きければ大きいほど、大轟音を
発して崩壊するのです。その崩壊する姿が、七難八苦となるのです。その時に業想念の心を自分の心として
掴んでいたら、必ず大きな苦痛を味わい続けることになるのです。
しかし幸いなことに、その苦痛が魂を浄め、生き方の誤りに気付かせてくれるのです。同じ失敗を何度も繰り
返すのは愚かです。他人の失敗を見て、他山の石としないのも愚かです。お手本は至る所に存在しているの
です。五欲の奴隷状態に止まっていては、決して真実の幸せを掴むことはできないのです。このことをしっかり
と肝に銘じておかなければならないのです。
例えこの一生が七難八苦の連続であっても、地獄の苦しみを味わうことと比べたら、万分の一以下の軽さです。
その苦痛によって魂を浄め、感謝のできる本心の心に引き戻していただけるとしたら、何が何でも感謝し続けな
ければならないものなのです。(「ありがとうございます」より・一部語句互換 )
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「業想念で築き上げたものは、必ず自壊(外力によらず、内部から崩壊する)する」「その崩壊する姿が、七難
八苦となるのです。」とはどういうことなのでしょうか?
五欲のうちの財欲を例にとって具体的にみてみましょう。
財欲とは、まあ、お金が欲しい!という事ですよね。元からあったのか、稼いで貯めるのか解りませんが、まず
お金があって、そのお金をを更に、割と手間を掛けずに、投資をしたり、ギャンブルに投じたりする。欲が膨らめ
ば、うまい話に乗せられて、騙されたりする。投資が失敗して全てを失ったり、ギャンブルに負けたりする。もし始め
から、暮らせる分のお金があればいいと思っていれば、こんな事にはならない。欲深だからこそ、こうした失敗に
よって、イライラしたり苦痛を味わったりするわけですね。
まあ私的には、この世の中を生きているのであれば、まったく欲をなくすことなど、現実問題としてできないとは
思っています。多少の事は、神さまも目をつぶってくれるんじゃないかなと楽観的に考えています(笑)。しかし、
どうせ死んであの世へいけばお金を持っていても仕方がないわけで・・。三途の川を渡る駄賃くらいあればよい
でしょう(笑)。自分自身はどうでも、財産を子どもに残したいというのはあるかもしれませんけれど。いずれにして
も、異常な執着を持てば持つほど、欲深になればなるほど、はまればはまるほど、どんどんと、私財をつぎ込んで
いきますから、いずれは大変な目に合ってしまうでしょう。
このように他の欲についても、名誉を得る為にウソ偽りで自分を固めたり、異性に騙されて酷い目にあったり、
食べ過ぎて病気になったり、寝過ぎて遅刻したり(違うか?笑)と、「過ぎる」とトンでもないになります。やはり
何事もバランスで、偏る事なく、中庸をキープしていきたいものです。
「 業想念の心(五欲)を幾ら満足させても、それは本心の心の満足では無い」・・・よくこの世の全てを手に入れ
ても、何か空しい、寂しい、満たされない・・・というような物語がありますよね。私は全てを手に入れたことがない
ので、何とも言えませんが(笑)、やはり精神面の充足が得られなければ、本当の幸せを手中にすることはできない
のでしょう。
「例えこの一生が七難八苦の連続であっても、地獄の苦しみを味わうことと比べたら、万分の一以下の軽さです。」・・・・
肉体の無い霊魂の世界では、精神面で同じような思考や境遇のものたちが集まって暮らしているそうです。です
から、五欲の強いものたちは、類は友を呼ぶ、のようにお互いに引かれ合い、同じような強欲なものたちの中で
満たされない欲望の中を苦しみながら生きることになるのでしょう。この世界を地獄と呼んでいるわけですね。
この世は、強欲なものたちから、本心で生きようとするものたちまでバラエティに富んでいます。手を差し延べてくれる
人たちが顕れたりして、少しでも自身の本心を見出すことができれば(強欲なもの同士の世界では本心に気がつき難い)、
容易に地獄から脱出することもできるでしょう。そこで「万分の一以下の軽さ」という表現なのでしょうね。逆に万倍
以上の苦しみは・・・想像したくありません(笑